第一声は「ごきげんよう」


はあ、吐いた息は白い。バス車内であたたまった体が一瞬で冷えていくのを感じながら、テキストやら資料やらでひどく重い鞄を担ぎなおした。ゆるんだ黒のマフラーの隙間から冷気がちくちくと肌を刺す。静かな住宅街を照らす等間隔に並んだ街灯の光が、今日はやけに眩しく感じる。本当はさっさと足早に帰りたいところだが、こめかみの奥をつきつきと走る痛みがひどくてどうしても歩みは遅くなる。課題は済ませているので家に帰ったらあとは寝るだけなのだが、疲れただとか眠いだとか、そんなどうしようもない自己主張が思考をうずめていた。
こつこつと、いつの間にか背後から靴音が聞こえている。
うっすらと視界に入ったコンビニの看板に、少しだけ迷って、結局寄り道するのをやめた。早く帰りたい気持ちの方が大きい。どうにも鈍っているという自覚はあったが、神経を尖らせる必要もないだろうと放っておく。どうせ相手は人間だ。
マンションが見えてきた。寒さで血流の悪くなった耳をそろりと冷たさが撫でていく。それは夜風か、夢か、しかし考える必要などなかった。背後をつけていた足音はもういない。
マンションの前に誰かがいる。やわらかいオレンジ色のライトに照らされた人影は、背の高い男のように見える。全身を黒で統一している男は、一瞬ちらりとこちらを見やった。目があったのは本当に一瞬だ。マンションまではあと数十メートルもない。近づくにつれて、男が蒼い髪をしていることがわかった。

不意に、かっと身体中の血液が沸き立つような感覚に襲われた。
温度のない夜風が通りを走り抜けて、すべての音を遮断する。
きつく巻いていたはずのマフラーがするりと首から滑り落ちた。

「こんばんは」

風の去った住宅街の静かな道路の真ん中に、短い夜の挨拶がひどく響いて、まるで耳鳴りのようだと不快感に目を閉じる。こつ、こつ、と踵を鳴らして近付いてくるのは男ではない、予兆そのものだ。肩にかけていた鞄がどさりと足元に落ちる音がして、主導権を奪われた身体も後を追うように地面に膝をつく。とろりと思考を包むのは暗い影などではなく、白湯のように温かく心地いいものであった。

「いいこだ」

言い様のない虚脱感に溺れながら瞼をこじ開けると、やはり目の前には愉しそうに笑う男がいた。風はなく、音もなく、場の支配者であるこの男に抗う術など到底持ち得ない自分は、傅く以外の選択肢も与えられなかった。すん、首筋に鼻を擦り付けられて男の呼吸が皮膚をすべる。寒気の感じない身体はとくりとくりと心音を響かせ、それが男の正体を暴き出すきっかけとなる。
ぶつり、俺の首に白い牙が突き立てられる痛みが脳を揺らした。

「…は、」

苦しい痛みは目覚めを引き起こす。「俺」はぬるま湯の夢が終わりを告げたことを知った。

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