倦まぬ檻に錠は無く


暗闇と同化していた姿が幽鬼のように浮かび上がる。今日の月は嫌に大きく、白い。漏らした吐息が白く浮かび空気中へと溶けていくのをぼんやりと見守った。身を刺すような寒空の下、どうしようもない空腹で今にも倒れてしまいそうだった。こんな真夜中にふらふらと散歩する酔狂は自分くらいなものだ。一般的な食事では満たされない異常な渇きはそのうち理性さえも食い尽くしてしまう、それだけは避けたかった。

「随分弱ってるみてえだな」

背後から響いた低い声に囚われたように動けなくなる。気配に気付けないほどに自分は追い詰められているようだった。思った以上に状況は厳しい。

「俺の血をやるよ」

歩み寄ってくる足音を拒めなかったのは、甘美な質の悪い戯れ言がたちまち脳髄に染み渡り本能を直接刺激したからだ。身を刺すような冷たい気温で襟元を寛いだ男は、差し出すように俺の後頭部を押さえてそこへと導いた。誘われるように舌を這わせ、ゆっくりと歯を突き入れていく。じわりとひろがる血の味、舌全体で十分に香りを味わいながら夢中で飲み下していけば喉が焼け付くように熱くなった。幸か不幸か、それからの記憶はすっぽり抜け落ちたように覚えていない。




次に意識を取り戻したとき、自分は白い寝台のうえにいた。頭上にある閉じられたカーテンの隙間から所々陽がさしている。身を起こしてそろりとカーテンを少しだけ引いた。赤らみ始めた空を見て夕の刻が近いのだと知る。長時間陽に当たることは困難な躯だが同族のように太陽を毛嫌いすることはなかった。夜はいいが最近はどうも落ち着けず、日中の温められた空気の心地好さを知り日陰で睡眠をとっていた。翳した手のひらに赤い血管が僅かに透けて見える。あの男のものだろう。喉奥に鉄火を擦り付けるような、痛いほどの熱を思い出す。自分とは異なる強い力、恐らくこの場所へと連れてきた昨日の男は人間ではない。
そんなことを考えつつカーテンを再び閉め切ると、男のものと思われる私室と他とを繋いでいるであろう唯一の木製の扉がタイミングを見計らったように静かに音をたてて開いた。

「起きたか」

空色の鮮やかな髪、それと同じ瞳の色が印象的な男はこちらに近付いて来ようとはせず、部屋の扉の横の壁に背をもたれ喉元で低く笑うように言う。

「何か食うか?」

白い皺くちゃのシャツの襟元から覗く逞しい首の付け根に赤い傷痕があるのを確認し、気を探った。呼吸の仕方、纏う空気、存在の在り方、そのどれもが限りなく他と同じなようで明らかに違う何かを自分は感じている。そもそも自分に血を吸われて生きていた人間など今までの記憶の中にはいない。致死量の血を吸われた人間は死体にもならずに砂となって消えるのだ。

「貴様、半獣だな」

確信を以てそう言い放った。一瞬きょとんと目を丸くした男は次第に笑みを取り戻し、へえ、と曖昧な声を漏らす。愉快そうな男を見ていると少しばかり苛立った。その絶えず鼓動を繰り返す心臓ごと噛み下してやろうかと、自分にしては珍しく本能的なことを考える。

「異端同士仲良くいこうぜ」

残念なことにここで殺し合う理由は見当たらない。この男が俺を拾って何の利益があるのかはわからないが馴れ合いに興味はない。受け入れることも拒むことも面倒で適当に受け流せば、名前は、と聞かれた。

「…ウルキオラ」
「グリムジョーだ」

背を壁から離したグリムジョーと言うらしい男はこちらを伺うような足取りで近付いてくると、ゆったりとした動作でベッドへ腰掛ける。空色の髪が珍しくつい指先を伸ばて毛先に触れていた。細く柔らかい髪はグリムジョーの風貌に似合わず繊細である。髪を指先から解放して血色の良い首元へと指を滑らせていくと、先程視覚で確認した赤い吸血痕にたどり着いた。傷口以外にも全体的に腫れているようで、指先だけでもその部分が熱を持っているのがわかる。

「吸い足りねえか」

確かめるように吸血痕を撫でていると、肩を揺らして悪戯に口を歪めたグリムジョーの骨張った手のひらに顎を捕われる。細められた瞳には不思議な力が灯っており不思議と拒む気は起きなかった。簡単に重なり合った唇はかさついていてあまりいいものではなく。生温い舌が口腔に侵入してくるとこちらの舌を根本から絡めとられた。ざらざらとした舌の触れたところは熱を生み、神経を通ってとろりと思考を溶かした。

「っは、」

唇を離すと口端からだらりと唾液がこぼれ落ちる。袖口で口を拭いながら、魅せられた、と思った。瞳の奥に燻っていたのは恐ろしいほどの魔力、見つめ合っただけで奴の術中に落ちてしまった。ちりちりと焦がされていくような不安、広い腕に抱かれているような安堵、そんなたくさんの感情が複雑に混ざり合ったような不透明なものが胸の奥に沈澱していく。

「しばらくまだこの街にいるんだろ、この家に居ろよウルキオラ」

逃げられない、不気味な静寂の中で音もなく訪れるであろうその瞬間を予感した。予感していたことが現実となったとしても不快には思っていないところをみると既に手遅れなのかもしれない。嫌なら殺せばいい、それが出来なくなる心理状態の意味をこの時の俺はまだ理解していなかった。

「お前がいいのなら」
「なら決まりだな」






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SHUTのミサゴさんに捧げます
相互感謝!

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