「もう、あなたって人は・・・」


ハァ・・・と深い溜息が、口から零れ落ちた。


溜息をつくと幸せが逃げる、なんて妄言を信じてるわけではないが、溜息のあとは何だか酷く気分が沈む気がする。
きっと溜息をつく自分がオバサン臭くて嫌なんだろう。

店内を流れるクラシック調のBGMに溶けるように消えた溜息の余韻を残さぬ内に、私は隣に腰掛けた男の方へ手を伸ばした。そして男の前からひょいと珈琲カップを取り上げる。
私の溜息の原因はコレである。

カップを取り上げる際に、隣から「あっ」という声、次にカランと乾いた金属音が続いた。カランの正体は、男が手にしていた『小さじ十杯目』の砂糖が乗ったスプーンが落ちた音である。

パラパラと、スプーンから落下した砂糖の粒たちが木製のカウンター上に四散し、頭上から差す照明がそれらを宝石のようにキラキラと輝かせた。


「・・・なにしやがんだ、おい」


僅かばかりの勇ましさを含んだ、けれどもやっぱりどこか死んでいる目が、カップを返せコノヤローと私を睨んでくる。
・・・返せって、これをですか?
チラリと、男から奪い取ったカップの中身をチラリと見やって、私は思わず顔をしかめた。


私たちは同じ珈琲を頼んだはずだ。
だが実際、私のカップの中は黒色で、私が手にしているカップの中は薄い琥珀色。後者は全て、大量のミルクと砂糖によってなされた苦行だった。
飽和して溶け切れない砂糖がプカプカと浮かぶ、一口飲んだだけで糖分過剰摂取が死因で死ねそうな液体。こんなもの、人間が飲むものじゃない。


「これ以上お砂糖なんか入れたら、飲めなくなっちゃいますよ?」
「いいの、いいの。お前は飲めなくても、俺はこうしないと珈琲は飲めないから」
「飲めないのなら、どうして珈琲なんて頼むんですか」
「お前がココの珈琲が美味いって言ったからだろうが」


あらそう、と男の言葉に一瞬納得しかけた私。だが、すぐにその矛盾に気付く。

たしかに、「ココの珈琲が美味しいんですよ」と男に珈琲を勧めたのは私だ。
しかし人には好き嫌いというモノがあるから、私はちゃんと、「銀さん甘党ですけど珈琲なんて飲めます?」という質問をしたはずだった。

そのあとたしか、「あったり前だろ。いくら甘党でも三十路前の大人の男は珈琲なんて余裕ですぅ」・・・なんていう返事が返って来た。
さて。大人の男(自称)は一体どこの誰のことかしら。

そう隣に向けて問うてやれば「さぁて、なんのことやら」と。ろくに吹けもしない掠れた口笛を吹いて男はしらばっくれる。
相変わらず面倒くさい男である。
年寄り臭い溜息がまた出てしまいそうになった。



と、そこで。私はふと、あることに気が付く。
私たちの目の前。カウンターを挟んだ先。
そこから、私たちを見て困ったような表情を浮かべる、この喫茶店のマスターの姿が目に入った。
まあ、その心情はわからないわけではない。
店の看板メニューであるコダワリブレンド珈琲が、砂糖の海に沈んでしまっているのだ。そりゃあ苦笑したくもなるだろう。

しかしマスターもさすがだ。苦笑までに留めておけるなんて、私には到底できない。私ならば即刻、この失礼な天パに熱々の珈琲をぶちまけている。スナックすまいるでの私は、いつもそんな感じである。


そのとき。私の意識をカウンターへ引き戻すように、「しょうがねーなァ」と隣から声が聞こえた。
それは男が十杯目の砂糖注入を諦めた声で、まさかこんなにもあっさりと折れるとは思っていなかったので少し驚く。

驚きを隠しながらも私がカップを返してやれば、男は受け取ったそれに口をつけて一言。
「・・・苦い」だそうだ。
九杯も砂糖入れたのに?
眉を寄せてべーと舌を出した男の様子が、ちょっと可愛いと思ったりした。


「ひょっとして今日の銀さん、機嫌良いでしょう?」
「あ、わかる?」


あまりにも反抗の意志が薄かった男が不思議でそう聞いてみれば、どうやら私の勘は当たったらしい。
先程の、珈琲の苦味に歪めた顔とは一変、フフッと男の口元が三日月型に曲がる。


「実はさァ、昨日俺万馬券当てちゃったんだよね」
「まあ、すごいですね」
「という理由で、今の俺はこの金をどう使おうか考えてウキウキしちゃってるわけ。半分は滞納してる家賃の支払いに回っちまうけどなァ」
「あらそうなんですか。・・・じゃあ、はい」
「・・・・・・は?え、なに?はいって何のこと?」


首を傾げる男の前には、私が差し出した掌がある。
何のことって決まってるじゃないですか。


「請求ですよ、給料の請求」
「給料ぉ?もしかして新八の?」
「ええ、そうです。家賃の支払いを差し引いた残り全部で良いので、新ちゃんのお給料をさっさと寄こしてくださいな」
「何言ってんの、オネーサンは。しかも残り全部?全部も半分も、一円たりとも俺はやる気はないぞ。ふざけんな」
「はァ?ふざけているのはあなたじゃないですかこの労働基準法違反者が。こちとら早く道場復興させるために毎日必死に働いてるんですよボケ。給料寄こさないなら出るとこ出てもいいんですよアァン?」


中々承諾しようとしない男に向けて、私はにっこり笑顔で、強く「お願い」する。
私の笑顔は店ではかなりの評判だ。それをタダで拝めるこの男はなんて幸福なんだろうか。ほら、ヒイィイッ!!男が喜びの声を上げる。

はいはい、わかりました。俺が悪うございましたコノヤロー!
こんな風に、男が臨時収入を手放すには、そう時間はかからなかった。
涙目になった男が懐の茶封筒を取り出すのを見た私が、勝った、と心中で呟いた。
そんなやり取りの、最中のことだった。



「誰だっけかなぁ・・・」



ポツリと、店内に響いた声。
その声の持ち主は、私でもなく、隣の男でもない。私たちの目の前でこちらを見つめていた、マスターの声だった。


「どうかしたんですか?」
「いやぁ誰かに似てる気がするなぁって、お二人さん」


私たちを交互に何度も見つめて、マスターは先程の困り顔を再開する。
もしや、これがマスターの困り顔の理由だったのか。いやそうに違いない。よくよく考えれば、ココのマスターは客が珈琲に入れる砂糖の量などで怒る人ではなかった。


「似てるって、一体誰と似てるって?ゴリラと似ているって、かなり珍し――ッブフッ!」


顎に食らわしたアッパーカットは、実に素晴らしく綺麗に決まった。

顎を押さえて声に鳴らない叫びを上げる隣の男に、思わずまたあの溜息がつきたくなる。全く、いつもいつも。懲りない男だ。
だが、その直後。「ああ」とマスターが声を上げた。


「ああ、今ので思い出した。ああそうだ、こんな感じだったよ、あの人たち」


カウンター越しのマスターが、どこを見るともない目で朗らかに笑う。それとは反対に、私の眉と目は細まった。今の暴力に一体何を思い出す要素があったというのだろうかと。



「似ているんだよ、お二人さん。うちの親父とお袋に」



丁度、店内のBGMの音量が落ちた。きっと曲と曲との境目だったからだろう。店内がシンと静まって、一瞬の静寂が店内で飽和した。
その後に続いた、「今はもういないけどなぁ」という台詞が、やけに大きく聞こえた。


「いつも言い合いばかり、喧嘩ばかりしてたなァ、あの二人。丁度、今のおたくらみたいに」


働けと言えば手ではなく口を動かして、いつも減らず口ばかりを叩く旦那。そしてその旦那に向けて働けと容赦なく殴り飛ばす女房。
マスターの口から次々に語られる二人は、なんというか、すごく個性的な二人だった。まあ私が言うのもなんだけれど。


「おーおー、暴力で解決ってとこ完全にお前そっくりじゃねーか」
「あら、そっちこそ。働く様子がなく減らず口ばっかり叩くところなんて、あなたそっくりじゃないですか」


なんだと。
あなたこそなんですか。


ムゥ・・・と、口先を尖らせた私たちが睨み合う。そんな剣呑な雰囲気の中、さっき聞いた朗らかな笑い声が私たちの間を裂くように響いた。ははっ、と睨み合いの場には全く相応しくない笑い声に、私たちの意識が逸れる。


「ああ、懐かしいなぁ。喧嘩の様子なんて、本当そっくりだよ。あの頃に戻ったみたいだ」


向けた視線の先で、優しげに柔らかに、小さく笑うマスターの顔を見つけた。うーん、これはどうしたものだろうか。

マスター的には、どうぞ好きなだけ言い合ってくれという感じなのだろうが、こうも笑顔にされては、言い合いなんて出来やしない。
押すなと言われて人がボタンを押すように、その逆もまた然りということだ。


だから今日のところは大人しく黙り、もうすっかり冷めた珈琲に口を付けることが無難であった。ちらりと隣を窺えば、さっき苦いと愚痴を零していた男も何も言わず静かに珈琲を啜っている。
しかし文句は言わないがちょっと眉を細めているところを見ると、やっぱり男にとっては苦いらしい。


一気に静かになった私たち。
だがそれに気付いていないのか、マスターは両親の話の最後の締めくくりにかかる。
「でもまあ、」に続いたそれは、まるで今までの全てを覆す、魔法の言葉のように思えた。


「でもまあ、いつも唾が飛び交う言い合いやら、暴力が飛び交う喧嘩とかしてたけど、ちゃっかり死ぬまで仲は良かったんだよなァあの二人。
そんなとこもそっくりだよ、おたくら」


さりげなく私たちを指していた「仲が良い」というマスターの言葉は、否定しないでおいた。


さっきも言ったように、今の私は言い合いなんてするような気分じゃなかった。
かけられた言葉と珈琲を飲み込んで、小さく「はい」とだけ頷いた私は、隣の男の目にはどんな風に映っただろうか。




【珈琲の美味しい日曜日】





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