「あっ――」


気がつけば、妙の放った右ストレートは甲子園球児も真っ青なほどの強烈かつ綺麗なストライクど真ん中を決めていて。
「っつう!」と目の前で銀髪の男が苦しげに呻いた。


時刻は草木も眠る丑三つ時。
スナックすまいるから家路に向かう妙。その横には銀時の姿があった。妙と銀時の二人は恋仲であり、仕事がある晩はいつもこうやって銀時は妙を迎えに来てくれる。

事件はそのあと、志村家の門前に着いたところで起こった。

ありがとうございました、と妙が礼を言うところまではいつも通り。違うのはそのあと。妙の身体は不意に、抱きしめられたのだ。当然、目の前の銀時によって。

恋人という関係なのだから、そういう行為は普通だと妙はわかっていた。今までだって何度かしたことはある。

ただ、まだ妙は突然のことには慣れていなかった。急に抱きしめられたことに混乱する頭ではどうしようもなくなって、つい今までの癖で手を出してしまった。それは対セクハラジジイ&ゴリラ用の手加減なしのストレート。

いちち・・・、と頬の辺りを押さえて痛そうに顔を歪める銀時に、妙はすごく慌てた。


「あの・・・っ、ごめんなさ――、」
「いや、大丈夫だから」


驚かせて悪かったな。

妙を責めることもなく、銀時にしては珍しくあっさりとしたそんな言葉が返って来た。そして妙がさらに何か声をかける時間も与えないまま、んじゃおやすみ、と。それだけを言い残して銀時はその場で踵を返してしまった。


去っていく着流しの裾はいつでも掴めた筈なのにそれは出来ず、その後姿が消えていくのを黙って見送ることしか、この時の妙には出来なかった。
ほかに出来たこといえば、胸元に持ってきた両手を強く握り締めることぐらいだろうか。


妙は、怖くなった。
付き合ってもう一ヶ月経つというのに未だに恋人になりきれない今の自分は、可愛くない女だと銀時に思われただろうかと。


こんな可愛くない女など、そのうちすぐに、愛想をつかされてしまうんじゃないか、と。


とてもとても、怖くなった。



◇◇◇◇◇◇◇◇


「えーと・・・、何この状況。
ドッキリか?ドッキリ24時ですかコノヤロー」


時は少し過ぎ去り、それから一週間後。
志村家の客間の入り口で、その場に立ち尽くす銀時は口元をビクビクと引き攣らせた。


その日、銀時と神楽の二人は志村家に泊まっていたのだ。
風呂上りに妙に晩酌をしてもらい、厠から戻ってきたのがたった今。良い感じに酔いが回り、珍しく仕事がある明日のために今日はさっさと寝てしまおうと銀時は考えていた。

だが、その考えは客間の襖を開けた瞬間に木っ端微塵に破壊されてしまう。俺のために用意されたはずの布団には、なぜか先客がいたのである。


「・・・何で、コイツがここにいるんだ」


その先客が、トイレに起きたが寝ぼけてここへ来ちまった新八や神楽だったらどんなに良かったかと銀時は眼前に広がる現実から目を背けようとする。すぐに廊下へ放り投げる、・・・ことはないが、とりあえず穏便にことは運びそうだ。


だがコイツはそうもいかない。布団の上にいる先客、この志村妙は。


よく見れば妙の体勢は不自然で、布団に寝ているというより倒れているという表現が合う。
大方、酔いの回った頭で布団を敷いた直後に、眠気に耐えられずバッタリと寝てしまった、そんなところだろうと銀時は予測する。お猪口一杯でキャバ嬢である妙が熟睡できるとは思えないが。


しかし、だ。


ハアァ・・・と、額に手を当てた銀時はマリアナ海溝よりも深い溜息をつく。


なぜよりにもよって、こんなところで眠ってしまうのか。恋人の眠る部屋の布団の上で。


「無防備に寝てんじゃねーよ、バカ」


すぅすぅと小さな寝息を枕元で立てる、あどけなさの残った可愛い寝顔。その寝顔を眺めながら、どうすっかなァと銀時は天井を仰いだ。

布団に散らばる長い黒髪と、対照的な白い肌の眩しさに理性を揺さぶられて、銀時はさらにどうすっかなァと頭を抱えた。


そして、とうとう胸の内の感情に耐え切れなくなり、どうせ聞こえやしないだろうと銀時はボソリと呟いた。


「襲っちまうぞ、コノヤロー」


「襲えばいいじゃないですか?」


「・・・・・・・・・はい?」


誰にも聞こえるはずのないそれに、なぜか返事が返って来た。


ギョッとして銀時が声のした方を見れば、そこには布団の上で眠っていたはずの妙がいる。パッチリと開かれた大きな黒目が銀時の姿を映す。

起きてたのかよ、何で狸寝入りなんかしてるんですか、と銀時が口を開こうとするが、たった今の妙の台詞を思い出して唖然とする。襲えばいいだと?


「えーと・・・、大丈夫ですかオネーサン?
ひょっとして、かなり酔ってる?自分が言ってること、ちゃんとわかってます?」

「酔っていません。それに、今の言葉はふざけてなんかいませんから」


襲いたいなら、襲えばいいじゃないですか。

銀時を目の前にして、妙は確かめるように再びそう告げた。
妙が誘っている、その事実を銀時が理解するにはかなりの時間を要した。


「一体、どういう風の吹き回し?」

「・・・・・・・・・別に、どうも」


答えるまでの長い間と、どこか強張った表情の妙に、絶対何かあるなと銀時は踏んだ。

それに、今までの妙を見ていれば何かがおかしいことに気付く。手を握るだけで真っ赤になれる恋人がイキナリ数段吹っ飛ばして誘ってくるワケがない。
銀時がその場から妙の方へ歩み寄れば、妙の身体は小さく跳ねた。だが布団の上から逃げ出すことはなかった。


「・・・・・・不意打ちで殴ってきたりとか、」

「殴りません」


ぐっと握った拳を膝の上に丸めて、挑むような強い表情を銀時に向ける妙。
何と勝負をするつもりなんだろうかコイツは。ああ、俺とか。勝負はいいけど銀さん絶対勝っちゃうよ?

そんなくだらないことを頭の隅で考えながら、銀時は妙に向かって手を伸ばす。


「ッ――!」


途端、ぎゅっと閉じられた瞼と強く結ばれる唇。
ビクビクと膝の上で細かく震える手と、小さな肩。


それらに一瞬躊躇いを覚えて手を止めたが、銀時は意を決してさらに手を伸ばした。そして――、




ぐしゃぐしゃぐしゃッ!




ドライヤーと櫛で綺麗にセットされていた黒髪が、銀時の手によってこれでもかというぐらいに乱暴に掻き回された。しかし手を離せば、すぐに戻ってしまうその綺麗な髪。

ああくそ羨ましいなコノヤローと銀時は心の底から嫉妬した。


「ぎ、ん・・・・・・さん?」


何をしてるんですかと見つめる瞳に、それはこっちの台詞だっつーのと銀時は瞬きを繰り返す妙に再び手を伸ばす。


「怖いなら、最初からするんじゃねーよ」


戸惑いの顔を浮かべる妙の目尻を拭ってやり、銀時は自分の指先を見せた。指先でキラリと光るそれは、妙の目から零れた涙だった。

それを見た妙の表情は一気に、ぶわっと泣き出しそうに歪んだ。


「・・・・・・ごめん、なさい」

「何で謝んだよ」


突然誘ってきたかと思えば本当は怖がってて、しかも最後には謝ってきた。
全くもって意味がわかんねぇ、と頭を掻く銀時。

そのときだった。
寝間着の胸のあたりを強く掴まれて、銀時の胸に妙の頭が押し付けられた。


驚く銀時に構わず、ねえ銀さん私ね、と熱い吐息が胸板にかかる。


「嫌いになって、ほしくなかったの」

「・・・・・・はいィ?」


銀さんに私のことを嫌いになってほしくなかったんです。

もう一度、そう強く繰り返されたそれに、今度も銀時は意味がわからなかった。


「何言ってるんですかオネーサン。誰が、いつ、お前のことを嫌いになるって言ったよ?」

「・・・・・・だって、私」


銀さんのことが好きなのに。

でも、まだ恋人らしいことなんて恥ずかしくて出来ないわ。素直になれなくて、暴力だって振るってしまうの。ほら、この前だって。

そんな女のことなんて、銀さんはすぐ嫌いになるでしょう?
そんなの嫌だったんです。
離れてほしくなくて、だから・・・


途切れ途切れだが、ようやく妙が話終えた頃には、銀時は妙の言いたいことを理解していた。
そしてほんの少しだけ、その口角を上げた。

何笑ってるんですか、と言われる前に銀時はその笑いを隠したかったが、身の底から湧き上がる笑いはどうにも堪えられそうになかった。


なんだ、そんなことかと。


「いいんじゃねェの、それで」


バッと勢いよく、妙が伏せていた顔を上げた。まんまるに開かれた目の奥では動揺の炎が揺れている。


「だってお前はまだ十八で、今まで男経験なし。どうしたらいいかもわからねぇ。そんなお前が焦っても仕方ねェだろ」


俺は、ちゃんとわかってるつもりだから。

その銀時の言葉に妙はパチクリと可愛らしく瞬き繰り返した。


「私が慣れるまで、待っててくれるんですか?」

「おうよ。いくらでも待っててやるさ。銀さんは基本的に待つタイプだから。デートの待ち合わせは30分前に行くし、カップ麺も三分でいいのに一時間ぐらい待っちまうぐらい」

「カップ麺のそれは、単に忘れてただけじゃないですか」


クスクスと笑う妙を見て銀時はすごく安心した。
そういえば、しばらくコイツの笑顔を見ていなかったかもしれない。銀時は最近の元気のなかった妙の様子を思い出してそう思った。


「・・・・・・というか、銀さんが待つタイプなんて初耳だわ。てっきり、欲望に忠実に生きるただのバカだと思っていましたけど」

「おいコラ。バカって何だバカって。だったらお前のお望み通り、今から本当に欲望に忠実になってやりましょうかァ?」

「・・・ちょっと、さり気に胸に手を伸ばさないでください。全ての指を粉砕骨折されたいんですか?」

「いやいや!おかしくね!?さっきまで襲えばいいとか言ってたヤツの台詞かソレ!?・・・って痛い痛い!はいはい調子乗ってすいませんでしたァ!」


ギシギシと関節が軋む程に強く、妙の胸あたりに伸ばされそうになった手が握りつぶされる。

誘われたかと思えば結局コレかよ何なのこの酷い仕打ち俺が何か悪いことした?
涙目で妙を見ながらブツブツと呟く銀時。

そんな銀時に向かって、何か文句があるんですかと妙が黒い笑顔で問えばいいえなんでもございません!と元気の良い返事が返ってくる。いつのまにか、いつもの光景の出来上がりだ。


そういえば、また暴力を・・・。

さっきまで銀時の手を抓っていた手を眺めて、妙はようやくそのことに気付いた。

だが不思議と、妙が今日まで感じていた、不安や恐怖はもう感じなかった。


待っててやるさ


さっきのあの言葉が、今になって痛いほどに妙の胸に染み込んできた。





【18の少女の精一杯】





お願い、あともう少しだけ待っていて
はやく大人になってみせるから

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