「恋っつーのはある意味呼吸だ。呼吸をするように恋をする、なんて言うくらいだかんな」

彼なりの恋愛論を聞いたのは今日の終わり、10分ほどのSHRだ。
くたびれた白衣に、死んだ魚のような目。生徒の前にもかかわらず堂々と煙草をふかし、教師とは到底思えないような格好をした彼の、その口から恋だなんて青臭い単語が出るなんて意外にも程がある。
誰かの質問だったのか、彼の気紛れか、なんの理由で恋愛話に至ったのかはよく覚えていない。
恋とは呼吸。気がついたら惹かれている。呼吸なんて日常的なものだから、誰もが最初は気づけない。それでも、気づいたらそこで終わり。気づいたそのときから、意識して行う呼吸は苦しい。息を吸う、それだけのことなのに。今までどおりにできなくなる。なんでだろうな、と彼は苦く笑うのだ。

「あァ?どうしたらその苦しさから逃れられるって?んなこと、俺は知らねーよ。自分で考えろ」

無責任にも、彼は最後の最後ですべてをぶん投げた。なんなんですかアンタは!自分から話したくせに!私の弟が、納得いかないという様子でガタンと席から立ち上がる。他の子たちも次々に立ち上がり抗議を始め、教室内はバッシングの荒らしに見舞われた。
うっせーんだよお前ら席つけコノヤロー。騒がしい教室に響く彼の声。けれど私以外の誰も、耳を貸す者はいない。教卓に投げつけられるペンケース、コンパス、椅子。慌てて彼は教卓のうしろに避難していた。
その瞬間だ。
窓際一番目に座る私と、教卓の裏の彼と視線が合ったのは。
なァ志村姉。こんな思いつき話に何を本気になってんだろうな、ばっかじゃねーの、みたいな。そんな眼差しだったと思う。
だったら、じゃあなぜこんな話をしたんですか。
俺は知らない、と彼は言った。だけど、本当は知っていたんじゃないだろうか。呼吸と恋の話の結末を。どうしたら呼吸の苦しさから逃れられるかを。


***


「・・・あれは、なんですか」

放課後の教室はやけに静かで、数刻前までの、とても騒がしかったSHRの残滓すらも残さない。窓から注ぐ橙色がカーテンに透けて、あたたかな放課後を演出する。ぎしりとパイプ椅子を軋ませて立ち上がった彼は、「アレってなんのこと?」とぼけた調子で私と向き合う。

「呼吸と恋の話です」
「あー、アレねぇ。アレはさァ」

一言でよかった。それが聞きたくて、私は彼を待っていた。
一言でいい。気紛れだとか、テキトーにつくったとか。そんな答えを期待していた。なのに、彼は私の思い通りにいく人じゃなかった。
フウッと煙草の煙をふきだして、彼はにやりと口元を歪める。

「実体験ってやつ」

声が出なかった。けれどもう一方で、やっぱりと思う自分もいた。また息が詰まった。最初に息が詰まったのは、さきほどのSHRだ。
実体験ってどういうことですか。誰との話ですか。惚気話なら止めてください。色んな言葉が一気に口から出そうになる。しかし息が詰まっているんじゃどうしようもない。
呼気がかかりそうなほどに、目の前まで迫った彼の顔は笑っていた。

「先生は、知らないでしょう」

ようやく声を絞り出す頃には、ぐっと近づいた彼の顔から目がそらせなくなった。だから逆に、挑むような目線をくれてやる。
あなたはわかってないんでしょう。私が今、とてつもなく焦っていること。

「廃れた恋愛ばかりだと思ってたのに、」

あの話が実体験ならば、察するに、彼の過去には素敵な恋があったのだ。私が知らない誰かとの、恋が。そう考えて、苦しくなった。ああそうかこれが恋なのか。それに気づいた時にはもう遅い。息が苦しい、呼吸ができない。この感じは過呼吸にも似ていた。
苦しさに顔を歪めると、なぜか彼はさらに笑ってみせた。このドS教師、と罵ろうにも声は出ない。
唇に触れた太い指がそれを妨げた。

「その苦しさ、治してやろうか」

彼は、ずるい人だった。苦しみから逃れる方法は知らないって、言ってたくせに。

「つーか、俺だって苦しいんですけど。お前より、ずっと」

なんか誤解してるようで悪ィけどさと、彼が続けたのは恋と呼吸の話の続きだった。

「実体験ってアレ、昔の話じゃないから。現在進行形だから。俺の眼前で」

なんて言われて、驚きに目を見開く私の、その視界に、彼の顔がいっぱいに映った。どうしようもなかった。治してやるつもりなど彼にはさらさらないに違いない。この唇が離れる頃、呼吸は元通りになるどころか一層辛くなるのだから。




息の奪い方 ’11----
title 弾丸

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