長らく外に近い場所にいる所為か、指先の感覚が危険信号を訴えている。
さむい、という三文字の感想しか抱けない。
アパートの手すりの外に目をやれば、何もかもを飲み込んでしまいそうな真っ黒な空が広がっていた。首筋をサッと秋風が抜けて、ブルリと生理的な震えに見舞われる。

カーディガンの一枚でも持ってくればよかった。
寒さに震えて後悔したところで、今の自分が制服姿で、持ち物が学校鞄とケータイひとつであることに変わりなかった。
でも仕方ない。会いたい、その気持ち一直線だったから。持ち物とか、なにも、考えてられなかった。私らしくないけれど。

アパートの通路に座り込んだ私。背中を預けるボロ臭いドア。表札は「坂田」となっている。
早く来てよ、と。
何処にいるかもわからない相手にテレパシーを投げてやる。


***


そのテレパシーか通じたのかは定かではないが、それからすぐ。アパートに私から発せられる以外の物音がした。
カン、カン、カン。
アパートの階段を上る誰かの乾いた足音が鼓膜に響く。学校で、ぺったんぺったんとダルそうに鳴るサンダルの音とどこか似ていた。
顔を上げて通路の奥を凝視していれば、銀髪の髪を揺らしてこちらに近づいてくる男が見えてくる。
その男、銀八先生は、座り込んだ私を見つけて「うおぉっ!?」と悲鳴じみた大声を上げた。

「・・・おかえりなさい」

しばらく声を出していなかった所為か、自分の声がやけに大きく聞こえた。
先生が、私の挨拶に面食らった顔をして戦くように身を引く。

「、なんでお前・・・」

ふと、その左手に目がいく。安物のアナログ時計がぶら下がるその手は、コンビニの袋を掴んでいた。中身は色と形からして、たぶんカップラーメン。

「ダメでしょう、先生」
「は、はい?」
「またそんなものばかり食べて。先生、料理できるのに」
「こんな遅い時間にスーパーなんてやってねーよ。あと面倒」

もっともな理由のあとにさり気なく本音が追加されていたので、少し笑った。
たぶん先生は、今が夜じゃなくてもカップラーメンで済ましてしまうのだ。きっと。

「お前、なんでココに来てんの」

先生の声には、私を咎めるような響きは含まれていなかった。人知れずホッする。夜遅くにここを訪れたことを怒られるのではないかと、待っている間中ずっと心配していた。

「先生を待ってたんです」
「いや、そうじゃなくてさ」

なにコレドッキリなの、と困り顔をした先生が天井を仰ぐ。

「ていうか、来るんだったらメールのひとつでも寄こせ」
「しましたけど」
「え、ウソ」

先生が慌てて胸ポケットからケータイを取り出す。そして、あーあ電源切れてやんの、と画面が真っ暗なケータイに向かって平坦に呟いた。
気づけなくて悪かった、と謝る先生はコンビニ袋を掴んだままの左手で頭皮を掻いた。利き手じゃないほうの手だから、掻きにくそうだ。
右手を使えばいいのに、と思ったがすぐに理由がわかった。先生の右手は大きな旅行鞄を掴んでいるから、左手を使うしかないのだ。

「あと、俺が聞きたいのはそういうことじゃなくて。どうしてお前は俺を待ってたんだってことで、」
「先生に会いたかったから」
「っはぁ・・・!?」

先生の面食らった顔パート2だ。しかも今度はプラス赤面という私にだけ嬉しい効果つきだった。
先生は普段からあまり感情を顔に出さないのに、今日はやけにコロコロと表情を変えてくれる。ちょっと面白い。

「・・・別に今日会えなくても、月曜日に会えんだろーが」
「私は今日、会いたかったんです」

わけわかんねーよ、眼鏡の奥の双眼を細めてみせる先生。
わからなくてもいいです、と返してやる。
先生と会うのは四日ぶりだ。
今日は金曜日。火曜日から三泊四日の出張をした先生は、土日を挟んで月曜日にクラスのみんなと顔をあわせることになる。
先生に月曜日に会えるのは生徒たちだ。たしかに私も生徒だけど、彼女でもある。みんなと同じというのは、なんとなく嫌だった。だからこうして会いに来たのに。

そういう女心、というものを全くわかってくれないのだ。私の担任、兼彼氏は。

「迷惑そうですね」
「迷惑、っていうか・・・あー・・・」

先生の口は言葉を濁らせてハッキリ否定しない。眉根が寄ったその顔に、私はちょっと頬が膨れる。
たしかに、悪いのは私だ。
明日に行けばいいことなのに、どうしても今日会いたいという自分の我が儘に従った私が。でも、でも、先生は、

「彼女が会いに来てくれたのに、先生は嬉しくないんですか」

グッと瞼を開いて、挑戦的に先生を睨む。いつも死んだ魚のような目をしている先生には、到底できない所業だと思う。
もしここで嬉しくないなんて言ったら、その白髪を引っ張ってアパートの手すりの外へ投げ飛ばしてやるつもり。

「嬉しくない、わけねーだろ」

幼子をなだめる母親のような顔をしたあと、先生は口角をニィと上げてみせる。
この、子供っぽさと大人っぽさを両方兼ね備える笑みが、私は好き。

「でも風邪を引かれるのは困る、っていうのが俺の心情なわけ」

優等生の志村姉でもこの複雑な男心はわかんねーみたいだな、と先生の大きな手のひらがポンと私の頭の上に乗った。
その心地良さに今にも全てを委ねてしまいたくなるが、できなかった。
だって今の先生の言葉は、今度から来るな、と遠巻きに言われているようで。

「なあ、両手出して」
「え」

予想外の台詞に戸惑う。てっきり、もう私をここに来させないように説教でも始めるのかと思っていた。
突然の申し出に、私は素直に両手を差し出すしかできない。
ガサガサと煩くコンビニ袋を鳴らして、先生が自身のポケットをまさぐる。「お、あった。あった」取り出されたそれはチャリンと綺麗な音を奏でた。
手のひらに転がった、銀色に光るそれがキーホルダーとぶつかった音だ。

「ほら、次からコレ使っとけ」

私の手のひらにあったのは、鍵だった。何の変哲もない、どこにでもあるような、小さな鍵。
何の鍵ですかとか、これはどういう意味ですかとか。それを聞かねばならないほど私は馬鹿じゃない。一応これでも学級委員長だもの。
鍵を見つめたままで呆ける私は、ガチャリとアパートの扉が開く音で意識を取り戻した。
久しぶりに見る、いい加減な担任にしては意外と綺麗な玄関の前で、先生が私を手招いていた。

「おーい、なにボケーっとしてんだ」

突っ立ってないで入れば?寒くねーの?
玄関の明かりを背にした先生が首を傾げる。

「だって、これ、」
「これ?」
「私が使っても、いいんですか」
「なーに言ってんだ」

お前のためにつくったんだからお前が使わなくて誰が使うよ、とあまりにも当然のように返ってきた言葉に、泣きそうになる。もちろん、嬉し泣きのほう。

「んで、玄関で出迎えて、さっきの言って」
「さっきの?」
「・・・ほら。おかえりなさい、って」

あれ結構ハートに効いたんだけど、って。先生が照れ臭そうに笑った。





ウェルカムホーム '100906

銀八先生が合鍵をつくったのは先月で、渡そうとしてたけどなかなか渡せず、いつもポケットに入れたまんまだったというヘタレ設定があったりなかったり。

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