夜とあって、車内はある程度の暗さに包まれている。その分、窓の外を流れる光が際立って見えた。
 外を、看板かなにかの光が流れてゆく。その度に、隣に座る、銀八のかけている眼鏡のフレームが一瞬の光を反射するのだった。黄色やピンク色のライトが彼の横顔を照らすときに、彼ではない別の誰かに見えることがあって、妙はその瞬間を助手席から見つけるのが好きだった。
 妙の高校はもうじき文化祭を控えている。委員会やクラスの決め事のために夜遅くに帰ることがあるのだが、最近はよく他の生徒には内緒で銀八が車で送ってくれていた。今日もまた、その例外ではない。

(実行委員でない私がひとりで、最後まで残らなくても良かったのだけれど。)

 見たいドラマがあった。本当は。それでも妙はこうして、昨日や一昨日と同じように車の助手席に収まっている。理由は明らかなものである。妙が帰ってしまったら、妙ではなく、夜遅くまで残っていた別の誰かを銀八が家まで送ることになるのだ。
 こんなこと言ったら馬鹿らしいって言われるだろうか、と、ハンドルを握る隣を盗み見た。視線は真っ直ぐで妙を見ることはない。なんとなく、溜息を吐きたい気分だった。

「もし、このまま、」
「えっ?」

 驚いた。妙の知る限り、運転中の銀八は無口を貫いていた。こんなにも口数の少ない人だったかしら、助手席に座る妙は常々思っていたのだ。
 不自然に切られた言葉の続きを待ちながら、不審がる気持ちで横を見る。ハンドルを握る方とは逆の手でくしゃくしゃと銀髪を撫ぜる銀八がいた。表情にどこか焦りのようなものを感じた。何を考えているんだろう。

「もし、このまま……俺がお前を、どっか遠くに連れ去っちまいてェな、って言ったら。お前、どォする」

 珍しく口を開いた銀八が言い出したのはそんなことだった。シードベルトに押さえつけられた心臓がドクリと息づく感覚がした。どうするって、何ですか。連れ去るって、一体何処へですか。しかし銀八は、ただその綺麗な横顔を正面に向かせているだけでこちらの問いには何も答えてくれない。
 ひょっとして。いつもいつも黙っていたのは、これを言うか言わまいか迷っていたためだったのかもしれない。妙はそう憶測した。
 いまだずっと強い鼓動を繰り返す心臓を意識しながら、銀八の言葉を口の中で何度か反芻した。
 このまま。二人で。何処か遠くへ。
 窓の外を流れていく景色は街灯の光だけが時折過ぎてゆくだけだ。他は全て、深いふかい夜に包まれていた。何も見えなくて、真っ暗で、だけれど恐怖は感じさせない。不思議な闇が広がっている。この暗闇の中に二人で逃げ込もうと、彼は言うのか。

「どうぞ、お好きなところに。連れ去ってくださいな」
「……」
「そう言ったら、先生はどうしてくださるんです?」

 からかったつもりではなかった。確かに本心からの言葉だった。けれどすぐに、ああ悪いことをしてしまったと思った。運転席に座る横顔がわずかに歪んだのを見てしまったから。
 窓の外の景色がだんだんと緩やかになっていく気がした。視線を正面に戻せば、目の前には赤信号。車はゆっくりとスピードを落としている。音楽もラジオもかけていない車内は無音に包まれて、少しだけ息苦しい。
 しむら、低いテノールが妙の苗字を呼び、はっと息を飲まされた。

「お前、それ本気で言ってる?」

 獣が唸るような声だった。正面から視線を外して、運転席から妙を射抜く瞳は、全身を震え上がらせた。たったひとつの感情の熱を孕んだ瞳の中身は、理性やら葛藤やらがぐちゃぐちゃに混ざって、まざまざと妙の前で揺れていた。
 ええ勿論、私は本気ですよ。
 そう言いたいのに。なぜか喉はカラカラに干上がって、上手く声を発せない。

「…冗談、ですよ」

 それきり、何も言えなくなってしまって。視線の置き場を失って、俯いた妙の頭の上に声が降ってくる。

「だよな」

 大人をからかうんじゃありません、と、笑い飛ばすように言って、意味もなくトントンとハンドルを指の腹で叩く。ヘラヘラと笑う横顔を盗み見ると、痛々しくて堪らなかった。すぐに窓の外に視線を逃す。冗談なんかじゃなかった、のに。

 * * *

「じゃあ、」

 また明日、学校で。自宅近くの道で車から降りた妙に向かって、開けた窓から半身を乗り出した銀八が手をひらひら振って別れを告げる。まるで何事もなかったように。それほどまでに彼は大人だったのだ。対する妙は、曖昧に頷くことしかできないでいる。そういう、些細な差を見せ付けられるときがある。
 妙がいなくなってもぬけの殻となった助手席の扉が閉まり、バックライトがチカチカ点滅したあとで、車は走り出した。遠ざかってゆく車体を見送りながら、思う。

(どうしてあんなずるい質問をしたんですか、私を連れ去って逃げる勇気なんて、最初からなかった癖に。)

 銀八はこの恋愛が嫌なのかもしれない。不意に思ってしまった。嫌じゃなかったら、連れ去ってしまいたい、なんて言わないはずだもの。そんなに苦しくてさみしい思いをするのが嫌なら、窮屈に制限された禁断の恋愛なんて止めてしまえばいいのに。
 それができないでいつまでも面倒くさく躊躇して、臆病に立ち止まって。それでも自分たちはお互いを心底好きあっているのだから、馬鹿みたいだ。傍目にはさぞ滑稽に映ることだろう。
 銀八の車が見えなくなるまで見届け、さあ帰ろうかと足を踏み出した時だった。制服のスカートが皺になっているのに気がついて妙の足が立ち止まる。
 埃を払う動作を習って手のひらで叩いてやれば、ふわり、車から染み付いた煙草の匂いが鼻を掠める。それが彼の匂いだと気付いた瞬間、なぜだか無性に泣きたくなった。

「本当は、」

 息を詰める。ゆっくりと、車が消えていった方向へ視線を定めた。車はすでに闇の中に溶けてしまっている。エンジン音もとうの昔に聞こえなかった。それでも、呟く声が銀八の耳に届いてしまうんのではないかと恐れて、妙は心の中だけでそっと呟いた(ねえ聞いて下さい、本当はね、わたし)。

(ほんとうはこの夜の向こう側にどこまでも逃げたかった、ふたりきりで。連れ去って欲しかった、って言えたなら。どんなにしあわせな夜だったろう。)



不純な夜を待ち望んだセブンティーン '110731
title 臍
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