寄席に行きたいと言い出したのは神楽だったはずだ。
 初めて見る落語への興味から、ソワソワ落ち着きない様子をしていた神楽だったが、それも始まって15分までの話。いまや、輝いていたその瞳は完全に閉じられてしまっている。
 舞台の上を照らすオレンジ色の光以外、照明が落ちて真っ暗の会場。壇上で噺を聞かせている落語家の声と、時折あたりから上がる笑い声の中、沖田が隣の座席を見やった先では、チャイナドレスにまで盛大に涎を垂らしてぐうぐう眠りこける可愛らしい寝顔がある。

(寝落ちすんの早すぎだろィ)

 言い出しっぺはお前じゃないか、それなのに寝てしまうなんて。と、沖田は呆れ混じりの溜め息を吐く。隊服のポケットに手を突っ込んでみるも、ハンカチの類は持ち合わせていない。
 仕方ないと、沖田は首元のスカーフをするりと引き抜き取る。隣に座る神楽の頭を引き寄せて口元の涎を拭ってやる。違和感で目が覚めたのか、直後にぱちりと神楽が目を開ける。

「…あれ」
「やっとお目覚めかィ」
「ひょっとしてわたし、寝てたアルか」
「ああばっちりな。涎まで垂らしてたぜィ」

 ほら、と小声で呼びかける。にやにや笑いながら沖田が涎のついたスカーフを見せてやると、途端、神楽の表情が険しくなる。
 その理由がわからず首をかしげる沖田とは反対に、唇をきゅっと引き結んだ神楽は親の仇でも見るような目でスカーフを睨む。
「ごめんネ」壇上の噺家へと向けられる笑いに混じって、小さく呟く神楽の声がした。

「なんで謝ってんだ」
「だって。私がここに連れて来て欲しいって言ったのに寝ちゃったアル。だから、ごめんアルって」

 もう一度、神楽が謝罪の言葉を繰り返す。こんなにも彼女がしおらしい姿を見せるのはとんでもなく珍しいことなので、沖田は反応に困ってしまう。
 頭を撫でてやろうか、やるまいかで、戸惑った沖田の右手がふわふわと暗がりを彷徨った。

「つーか、そもそもお前、なんで寄席なんてとこに来たがったんでィ」

 たとえば駄菓子屋だとか、デパートの地下だったり。神楽が行きたいと思う場所ならば、沖田はどこにだって連れて行くつもりだったのに。行きたい場所はあるかと、質問を投げかけた沖田に、神楽が迷わず選んだ場所がここだったのである。

「私がここに来たかったのは、お前が好きなもの、一回ちゃんと観てみたかったからアル。そんだけヨ」

 寝ちゃったけどネ、と、拗ねたように神楽の唇が尖がった。
 沖田と話している最中も、神楽の視線はしっかりと舞台上の落語家に向けられていた。今度は寝てやるものか。そんな強い意思が伝わってくるぐらい、大きく開眼されたその瞳が可愛らしくて、沖田がこっそりと笑ってしまったのは秘密だ。

「なんだそりゃ」
「わかんないアルか。彼女だったら、彼氏が好きなもの、ちゃんと知りたいって思うものネ」
「そういうもんか」
「そういうもんヨ」

 ふうん、と納得してやった気になって沖田は相槌を打った。
こちらから見える神楽の横顔は、沖田の目から見て恐ろしく綺麗だった。贔屓目は、おそらく少しだけ入っている。綺麗な横顔がなんとなく頬が赤いのに気付いた。
 はて、どうして赤いのか。理由を考えて、沖田は思い当たる。
 そういえば、今初めて神楽から『彼氏』と呼ばれたのかもしれない。気付いた途端、なぜだかこちらまで気恥ずかしくなってしまう。

 そんなところに、グウウウウウと地を這うような大きな音が鳴ったものだから。
 折角芽生えたあまずっぱい気持ちから何まで、すべてが台無しになる。

「え、ちょ、オイなんだ今の。腹の音か。これが腹の音なのかィありえねえ」
「うるさいアル! ていうか、今のお前の声がデカかったせいで何言ってんのかよく聞こえなかったアル、どうしてくれるアルか。今あのハゲ何言ったネ」
「ばっかハゲって言ってやんじゃねえよ、失礼だろィ、きっと本人が一番気にしてるんでさァ!」

 なんだかんだ言って沖田が一番失礼なことを言ったあたりで、ゴホンゴホンと咳払いが二人の会話を遮った。
 咳が聞こえた方向へ二人が同時に振り向けば、開演中は静かに。そう書かれたプラカードをどこからともなく持ち出した落語家が、全く笑っていない笑顔で壇上から沖田たちを見つめていた。



チープラヴ・ランデヴー '110710
title ジューン
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