屯所の中にいると、話し声や足音がひっきりなしに聞こえてくる。こんなに人の気配がする家を神楽はほかに知らない。最初の頃はやかましくて仕方がなかった騒がしさも今ではすっかり耳に馴染んでしまった。
 屯所の廊下に腰掛けていれば広々とした庭が見渡せる。ここはお気に入りの場所で、足をぶらぶら揺らしているのが神楽はいっとう好きだった。突き出た屋根が廊下を覆うように日陰をつくるので日差しの心配もしなくていい。相棒の傘は畳んでそばに置いてある。
 ふと、一人分の足音が近づいてくるのに神楽は気がついた。見れば、廊下の向こうから一人の隊士が歩いてくる。

「お邪魔してますヨー」
「っ!」

 ほんの挨拶のつもりで声をかけたのだが、隊士の青年はギョッという顔をした。

「どうかしたアルか?」
「いえ、あの……」

 隊士はあからさまに動揺している様子で、彼の顔がみるみる青ざめていく。泣く子も黙る警察組織の一員がなんて顔を、と神楽は面食らってしまう。

「ええっと、……ご苦労様です」
「お、おぅ…?」

 なんと反応したらいいか途方に暮れる神楽をよそに、隊士は深々とおじぎをすると、逃げるように場を去ってしまった。アレは一体何だろう。小さくなっていく隊士の背中を、神楽は見送るしかなかった。
 おかしなことはまだ続いた。それからも廊下を通りがかる隊士たちが神楽の顔を見た瞬間にみんな青ざめたり怯えたりして、この場から離れて行くのだった。

「なんだヨ、私がなんかしたアルかぁ?」

 そうは言っても、心当たりがまるでないから神楽は困ってしまった。うーんと唸って頭上を仰ぐ。
 神楽が屯所に入り浸るようになってから、もうしばらく経つ。最初はおっかなびっくり接してきたあちらも慣れたもので、神楽のことを親しげに「チャイナさん」と呼ぶ。
 どうせなら名前で呼んでほしいが、そうなるとまずはあの男にチャイナ呼びを止めさせないといけない。それは非常に面倒くさいことになりそうなので、神楽は半ばもう諦めて、彼らが「チャイナさん」と呼ぶことを許している。
 そういう訳だから、仲良くなった彼らが神楽相手に今さらオドオドした態度をとる理由はないはずだった。

「沖田」

 一人きりで考えるよりかはいいと思って、神楽は後ろに向かって声をかけた。

「これはどういうことネ」
「はァ?」

 神楽が首だけでうしろを振り返ると、障子が開け放してある座敷で沖田が怪訝な顔をしていた。その手元には筆と硯。沖田は机に向かって書類相手に奮闘している真っ最中である。

「お前んとこのやつら、なんか態度変わったアル」
「へー」
「前はもうちょっと親しげだったヨ。でも今日は、よくわかんないけど怯えられてるネ」
「ほー」

 珍しく仕事なんてものをしているせいか、沖田の返事はいつになくそっけない。神楽は短く嘆息して、おい、と呼びかける。

「おい聞いてんのか」
「聞いてる、聞いてる。つーか、屯所の奴らの態度がおかしいってことをなんで俺に聞くんでィ」

 沖田の口調は相変わらずつれない。だが、こうして何でもないように質問をしてくるあたり、沖田はちゃんと神楽の話を耳に入れているらしかった。

「お前がアイツらになんか言ったんじゃないアルか」
「知らねーな。俺ァ別になんもしてねェよ」
「あっそう」

 沖田の身に覚えがないのでは、やっぱり自分が何かやらかしたのだろう。神楽は自分に心当たりがないか、もう一度思い出そうとした。
 その時、沖田が「あァ」と何かを思い出したように呟いた。

「そういや、あったな。大したことじゃねェが」
「何アルか?」
「今朝の会議でな、最近屯所に出入りしてる娘は誰なんだって聞かれたんでィ」
「……それで?」
「アイツは俺のなんで手ェ出した奴はぶっ殺しまさァ、って言っといた」
「原因はお前アルかァァ!」

 がばっと身体ごと振り向いて、「なんてことしてくれたネ!」と神楽はすごんだ。それに対して、書類に目を落としていた沖田がちらりとこちらを窺ってくる。

「なんでィ、なんか文句でもあんのか」
「あるに決まってんだろ!」

 むしろ文句しかないアル、と神楽は食ってかかるが、沖田の方はあっけらかんという顔している。

「別にいいじゃねーかィ、屯所の奴らへの牽制ってことで」
「はぁぁ? 牽制も何も、私まだ十四ヨ。手なんか出されるわけがないアル。みんながみんな、お前みたいなロリコンだと思ったら大間違いヨ」
「誰がロリコン?」

 沖田の不服そうな声が聞こえるが神楽の知ったことではない。顔を背けて知らんぷりをした。
 ようするに、神楽に対する屯所の人々の態度が急によそよそしくなった原因は沖田にあるらしい。下手に神楽と親しげにしようものなら、沖田に勘違いされるだろうから、隊士たちは神楽に近付くことを恐れていたのだ。
 この落とし前どうつけてやろうか、と神楽が心ひそかに復讐を決意していると、沖田が自室の机から立ち上がった。

「こっちくんな」
「俺の勝手だろィ」

 さっさと仕事に戻れ、と手で追い返してやるも逆効果だった。廊下に出てきた沖田は神楽の隣までやってきて、胡坐をかいて居座ってしまう。
 不機嫌さを主張するみたいに神楽が口をへの字にしていると、横から沖田が言った。

「ま、機嫌直せよ」
「誰のせいで私がこうなってると思ってるネ!誰の!」
「俺のせいか」

 けろりと言ってみせる沖田に反省の色は見えず、神楽は怒りを通り越してほとんど呆れてしまった。大きくため息をひとつ吐き出してやる。

「お前、仕事はいいアルか」
「終わった」

 そんな沖田の言葉が嘘くさく思えて、神楽は廊下から部屋の奥を覗いてみる。机に無造作に積み上げられてあった書類の山はあらかた整理されていて、本当に終わったのか、と神楽は目を丸くした。

「おわっ!?」

 その時だった。不意に身体がぐらりと揺れて、神楽の視界がブレた。慌てて見上げると、伸ばしていた神楽の足の片方が沖田につかまれて持ち上げられていた。

「ちょっ、は、離すアル!」

 掴まれてない足をじたばた振り回せば、身体を引いて沖田が蹴りを避ける。その隙に手が離れてくれたので、慌てて足を懐まで引き寄せて、もう触らせるもんか!と神楽は体育座りをした。そんな神楽を、沖田はどうしてか呆れたような目で見つめている。

「いや別に、変なことする気はねェよ」
「変なことって何ヨ」
「逆に聞くが、オメーはなんだと思ったんで?」

 にやっと笑う沖田には本当に腹立った。しかし口を開けば墓穴を掘ることが明らかだったので、神楽はぐっと黙り込むしかない。
 神楽が悔しげにしている様子を、沖田はしばらくの間それはそれは楽しそうに見ていたが(このドS野郎が!)やがて、神楽の足元を指さした。

「オメーの足」
「……あし?」
「よく見ろ。先っちょのとこ、赤くなってんだろィ。それが気になって」
「あっ、ホントアル」

 神楽が見下ろせば、自分の足は指が擦れたように赤くなっていた。沖田が神楽の足を掴んだのはこれを近くで見るためだったらしい。だったら最初から言ってくれたらいいのに、紛らわしい奴だな、と神楽は思う。

「痛くねえの?」
「特に」

 尋ねられて、強がりなしに神楽は首を横に振った。自分で気づかなかったくらいなので痛まないし、爪先の腫れだって酷いものじゃなかった。
 むしろ神楽が気にしているのは、先ほど沖田に握られた足首だ。手のひらの温度がまだ残っているようで、なんだか少しむずがゆい。

「でも、おかしいアルな」
「おかしいって?」
「だって私、ちっちゃい怪我ならすぐ治るはずネ。そもそも怪我した覚えもないアル」
「怪我っつーかそれ、擦れた痕じゃねーのか」
「怪我じゃないアルか?」
「たぶん、靴が合ってねェんだよ」

 沖田の言葉を聞いてすぐに、神楽は庭から自分の靴を拾い上げに行った。屯所にはいつも庭から侵入しているから、靴は玄関ではなく縁側の隅に揃えてあるのだ。
 そうして持ってきた靴を見つめて、ほら、と沖田が言った。

「靴がボロくなってんぜ。長いこと履いてたんだろ、そりゃサイズも変わらァ」

 沖田の指摘を率直に正しいと受け止めて、神楽はウンと頷いた。ぐずぐずになった靴の縁を神楽の指がなぞる。

「こんなボロボロになってたなんて、私気づかなかったヨ」

 昔はぴったり足にフィットしていた靴も、最近は踵と爪先がすこし窮屈だった。神楽は気にするほどじゃないと放っておいたが、大きくなった足を無理やりねじ込んでいるせいで、知らず知らずのうちに靴が痛んでいたらしい。よく見れば、中の布の部分は剥げているし、靴底は今にもぽろりと取れてしまいそうだ。

「新しいの、旦那に買ってもらったらどうでィ」
「えー?」

 我が儘だとはわかっていたが、神楽の口は不満の声を漏らさずにはいられなかった。ボロボロの靴は早く買い替えたほうが良さそうだが、長年一緒だったこの靴には結構な愛着が湧いていたからだ。なにより、神楽はまだこの靴を普通に履けているのだ。

「いいヨ、履けなくなったわけじゃないアル。まだ使えるネ」
「貧乏性」

 ぼそっと呟れたそれを神楽は聞き逃さなかった。キッと目を吊り上げて沖田を睨みつけてやる。

「誰が貧乏性アルか」
「うわァ地獄耳」

 聞こえちまったか、とわざとらしく驚いた顔をしてみせる沖田は確信犯だろう。「コイツって人をイラつかせる天才じゃね?」と思うのと同時に、神楽は自分の頭の中でぷっつんと音がするのを聞いた。

 仕事が終わるまで放っておかれたこと、屯所中の隊士から避けられる原因を作ったこと、その他もろもろの鬱憤が溜まりに溜まっていた。気がつけば神楽は隊服の襟首に掴みかかっていて、そこからは全部いつも通りだった。殴り合いの蹴り合いをしていると、騒ぎを聞きつけた山崎が飛んできた。それから彼を巻き込んで三人で揉みくちゃになった。
 最終的に一番大けがを負ったのはどういうわけか山崎で、ごめんねを言いながら神楽は沖田と二人して彼の手当をした。

「……なんというか、アレですね」
「山崎ィ、テメーなに笑ってやがんだ。そういう趣味でもあんのかィ」
「いや違いますよ」
「だって怪我して笑うなんて変ヨ。ジミーもさっちゃんの仲間アルか?」
「ええっと、さっちゃんってのが誰かは知りませんけど、多分それ違いますから。俺が言いたいのは、なんかアンタら見てると怒る気もなくなってくるってことで……」
「はァ?」

 やっぱりコイツМじゃねーの、と沖田が神楽の隣で呟けば「だから違いますって!」と山崎はヤケクソのように言い返した。

「これで付き合ってるっていうんだから、不思議ですよねホント」

 ははは、と泣き出しそうな笑いをこぼしながら、頬に絆創膏を貼り付けた山崎が言った。



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