十八にもなって、相も変わらず坂本は子供のような笑顔をする。それこそ、幼稚園の運動会で一等賞に輝いた五歳児のそれだ。口元を柔く曲げて、垂れ下げた眉毛は馬鹿っぽさが際立つ。それでいて男の背丈は百八十もあるのだから、なんだかアンバランスだと、こうして顔を合わせるたびに陸奥は思うのだった。
「面白そうな話を手に入れたぞ」
四時限目が終わり、ちょうど昼休み後半戦といったところか。陸奥も坂本もすでに弁当を食べ終えていて、暇を潰していると坂本がそんなことを言った。
制服の上着のポケットに手を突っ込み、坂本は何かを掴み取って取り出す素振りをする。ちゃりんと音を立てて、それは大きな手のひらから現れた。
「鍵か」
坂本が取り出したのは、鍵。若干の赤褐色のサビが目立つが気にはならない。おかしなところといえば、名前プレートこそ付いてるものの、書かれるべき場所は無記名のままであることぐらいか。
「どこの鍵じゃ」
「プラネタリウム」
なんじゃあそれ、と口を開く陸奥に向かって、「天文部を知っているかのう」と坂本が話を続ける。数年前に部員不足で一名しかいなかった天文部が廃部になり、以来その場所は使われなくなったのだと、どこからか仕入れてきた話をペラペラと喋りたてる。
ふうん、と話の合間は相槌を打つだけに留めていたが、興味の色を隠しきれなかったらしい。向こうはそれを見逃さず、「興味が湧いてきたじゃろ」陸奥を見やりながら、にやにやと口角を上げる。
「ちとまとうせ、廃部になって使われていない部屋の鍵を、おまんはどうやって手に入れたんじゃ」
「まあまあ、細かいことを気にしゆうな」
誤魔化すように坂本は目を細めて、鍵を掴んだ手とは違う手で頭を掻いた。これ以上聞いてくれるなと言いたげな目。陸奥は出所を問い質そうとした口を閉ざしながら、さては盗んで来たな、と疑いの眼差しを向ける。いつかはやると思っていた。
「ほがな目で見んとうせ。ちくっと、借りただけじゃて」
ちくっと、のあたりを強調しながらへらりと笑う。坂本の言う「借りた」は無断借用も含めるを陸奥はようく知っている。バレたらわしゃ知らんぞ、と、それだけ言うに留めた。
「行ってみるがか、プラネタリウム」
「誰が」
「おんしとわし、それ以外に誰がいる」
坂本の親指と人差し指につままれた鍵が、陸奥の前でゆらゆらと揺れる。正直言って、鍵の出所の怪しさを考えると、厄介事は御免だというのが本音である。けれども陸奥は断るつもりはなかった。いやだいやだと言いながら、幼い頃からずっと。面倒事にはいつだって付き合ってきた。だから今回もきっと、そうなるんだろう。まるで他人事のように、陸奥は考えていた。
鍵と坂本を交互に見やって、やがて、迷いなく陸奥の手は鍵を掴み取った。
「それじゃ、放課後にの」
鍵を受け取ってすぐに、授業五分前の予鈴が教室に響き渡る。鍵を陸奥に託したまま、坂本はすぐさま自分の机へ戻って行った。茶色のふわふわした後ろ頭を見送って、手の中の鍵の輪郭を確かめるように強く握る。もしも、教師に見つかって咎められることになったときには、すべての罪は坂本に擦り付けてやろう、だとか。そのような容赦ないことを自分が考えているとは、坂本は知るはずもない。
***
かちゃり、心地良い音と共に扉が開く。坂本、陸奥の順番で中へと続き、部屋に踏み入れて、鼻腔のむず痒さを一番に感じた。二番目はカビ臭さ。最後に掃除をしたのはいつ頃だろうかと考えながら、顔を思い切り顰めてやる。
正面が真っ暗闇に包まれているので手探りで壁をぺたぺた触る。指がなにかのスイッチに触れたので、強く押し込んでやれば、ノイズ音を伴いながら入り口近くの蛍光灯が点灯する。仕様なのか、それともただの故障なのか、奥の方と天井は暗闇に包まれたままだ。
「ああそうじゃ」と、酸っぱい臭いの蔓延する薄暗がりの中で坂本が思いついたように声を上げる。
「おまんはそこらへんに座っちゅうがええ」
「おまんは?」
「わしはすることがある。手伝いは無用やき、客人は寛ぎとうせ」
「……いつからここはおんしの部屋になったんじゃ」
我が物顔な言い分に文句を垂らすも、いいからと向こうは聞く耳を持たない。無駄に大きな男は、そのまま暗闇の向こうへ消えてしまった。なんとなく追う気にはなれず、坂本が指さした座席へ座ることにする。スクールザックを肩から外して隣の座席へポンと放る。
座席へ寄り掛かると、錆びた金属が軋みを上げた。朽ち折れてもおかしくない背もたれに身体を預けて、そこから薄暗い空間を見回す。入り口の光のおかげで、広々とした小さなホールみたいな場所だということがぼんやりと分かる。構造は視聴覚室によく似ていた。
座ったばかりだと言うのに、腰が痛みを訴えている。陸奥の足腰がご老人レベルな訳ではなく、腰掛けている座席がひどく窮屈に作られているためだろう。陸奥は細身であるから我慢できるが、坂本のような大男であれば無理であろう。
そういえば、あやつはどこへ行ったのか。すっかり頭から存在を忘却していたが、先程から物音ひとつ聞いていない。眼球を右へ左へ動かして探し回る。けれども暗闇に慣れきっていない目では、いつまで経っても坂本の姿を見つけ出せない。
「……、」
闇というのは、どうも人々の心を掻き立てるからいけない。心が一斉にざわめいて、得体の知れない感情が陸奥の胸に溢れる。不安やら恐怖やらが、一気に沸き立つのだ。
「さかもとぉ」
暗室の中にぽつりと響いた己の声は、どうしようもなく心もとない。語尾の間延びした間抜けな声に、羞恥を感じながら坂本の気配を探した。
すると暗幕の向こうから、今の声に応えるように、むつ、と呼ぶ声がした。
「上、見とうせ」
くぐもった坂本の声と共に、ぱちん、何かのスイッチが切り替わる。声と音の両方に導かれて、首が自然に持ち上がる。視界にピリリと光の線が走った。直後、かあっと網膜が鋭い熱を持つ。
頭上を光が埋め尽くしていた。
ああ、これは星か。そう理解するのに何秒と要した。
ゆっくり三度ほど、まばたきを繰り返す。空というよりかは海と表現する方が相応しい。大きな青い海に散らばったそれは所詮、人工的に生み出された星で、光量は本物に遠く及ばない。けれど人工の空は本物より何倍も地表に近い。この距離間を、陸奥は嫌いではない。
ただ呆然と空を眺めていれば、やがて暗闇に、不自然な白いラインが浮かび上がる。点と点が結ばれ、星座と名前がぴかぴか光る親切設計だ。高校で扱うような教材じゃなかろう、と、学校側への不満と呆れを顔に貼り付けながら。それでも、陸奥は飽きることなく浮かび上がった星座を見つめ続けた。
「あれがオリオンじゃ」
そんくらい知っちゅう。いつもならそう答えを返してやれたが、今日は違っていた。
耳元に吹き込まれた声は、完全に油断しきっていた陸奥を大いに驚かせた。びくっと肩が震えて目が丸々と開かれる。首を捻ると、坂本が背後に立っていた。いつの間に移動したのだろうか。気配もなく、足音も聞こえなかった。座席の裏側に立っている坂本が、暗がりで表情まではよく確認できないが、愉快そうに口元をヒクつかせているのが分かった。
「そがな驚かなくても良いじゃろー。びくって、おまんが肩震わして驚くところなんて久しぶりに見たのう」
「っ、うるさい」
あっはっは、馬鹿の大声が室内に木霊する。ああ、もう恥ずかしい。
「わしがライフル銃持ってなかったことに感謝するがええやか。持っていたら、背後に立たれた時点でおまんのドタマ打ち抜いちゅう」
「ゴルゴ気取りかおまんは」
ひとしきり爆笑して満足したのか、坂本はようやく笑い声を潜める。座席から見上げると、坂本は頭上を見上げていて、見習うように陸奥も首を傾けて、青暗い光の海を見やる。しばらくして、二人とも顔を上げたままに、坂本が言った。
「どうじゃ」
「なにがじゃ」
「……前に、見たいと言っちょったから」
忘れてしもうたかんの、と、拗ねた声が背後から届く。何を、と、問おうとする唇は、眼前にある無数の星に動きを止められる。ひょっとして星を、か。自分は星を見たいと言ったのか。いや待てと、陸奥は記憶を探り当てる。
プラネタリウムのような人工の星を見てみたいと、そんなことを言った覚えがある。たしか、近隣の町のホールで、期間限定のプラネタリウム鑑賞があるというポスターを見つけたときの話だ。
渡り廊下の壁にひっそりと貼りだされていたポスターに、ふと足を止めた。しばらくじっと見ていたら、行ったことがないのかと、いつのまにか隣で同じくポスターを眺めている坂本に聞かれて、素直に首を縦に振った。坂本とは天体観測をしたことがあったが、それも小学生までの話。
『造った星はどうじゃ』
『わしは、天体観測のほうがずっとええやか。じゃかて、プラネタリウムも悪い気はせんかった。空は海青色をしとって、それはもう、きれいじゃった』
『ほう』
それから、いつかわしも見てみたいと、気まぐれに言ったのだ。
プラネタリウムの場所は県境の町だったがそれほど遠出する予定もなかったので、再びこのプラネタリウムのことを思いだした頃にはポスターに書かれていた期間はとっくに終わっていた。なので、プラネタリウムを見る機会はもう失われたとばかり思っていた、のに。
「…馬鹿の癖に、覚えてるとは思わんかった」
人の名前もおぼえられない馬鹿の癖に、どうして。なんであんな気まぐれに呟いた一言を覚えているのか。何年もそばに居続けているが、坂本という男のすべてを陸奥が理解できる日はまだまだ遠いのだろう。
悪意の含まない馬鹿呼ばわりに気付いているのか、いないのか、後ろの馬鹿は「ひっどいのう」なんて言いながら相変わらず笑っているんだろう。その笑い顔をこの位置からはハッキリと確認できないのが少し残念だった。
「で、この空はどうじゃ」
「宇宙ば身近に感じられる気がする」
「なんじゃあそれは」
ふと頭上を見上げると、天の川が流れている。星々の川はやっぱり安っぽそうに、それで煌々と夜空に輝いている。ああ、なんだか。
「ふれたくなるぜよ」
思ったことをそのまま口にしてしまったが、これで良かったのかと、後ろの気配を窺う。気がつけば、坂本はぐっと座席に身体を寄せて、こちらの顔を近くから覗き込んでいた。はっと陸奥が息を飲むよりも先に、ほうかと、坂本の声。
「なら、よかった」
坂本はその答えに満足したらしい。うんうんと何度も頷いてみせる。座席に近づけていた身体を坂本が元に戻してしまえば、この位置からは、空を見上げている坂本の顎しか見えなくなった。
触れたくなると思わず出た言葉は正しいようで、正しくない。人工の星たちは、この手を伸ばせば届きそうな距離で輝いている。けれども坂本はずっと近くに立っている。あの空で輝いている星たちより輝く笑顔を貼り付けた男は、言うならば陸奥の中での一等星。大きく手を伸ばせばこの指先は、彼の喉仏ぐらいには触れられるだろうか。なんて馬鹿らしいことを考えている。どうしようもなく、今はあの一等星に触れてみたくなった。
(それでもこの手は届かない。男の思考はわしにもわからぬ。隣についていくのがやっとだった。昔からそうじゃった。できるだけ、おまんを分かってやりたいのだと、言ったら笑われるだけだろうが。)
「この鍵、借りてもいいがか」
ようやく暗闇に目が慣れてきた頃になって、座席の背後に呼びかける。ちゃりんちゃりんと手元で遊ばせている鍵は、扉を開いたそのときからずっと握りしめていたせいで、すっかり生温くなっていた。座席を振り返ろうとする陸奥の前に、にょきと坂本の手が伸びる。
「だめじゃ」
てっきり了承を貰えるかと思っていたので、突然背後から伸ばされた手には抵抗できなかった。呆気なく奪われた鍵の所在は大きな手の中に収まり、ちゃりんと、鍵とプレートが音を出す。「何をしよるか」返せ、と意志を込めて睨みつける陸奥の前に、いたずらっ子の笑顔をした坂本が待ち受けていた。
「これを貸したらおまんは、一人でここに見に来るじゃろうが。……だから、おんしがまたここに来たくなったらわしに言えばいいき。そしたらわしがまた鍵を借りてくるぜよ」
坂本はそれきり何も言わなくなった。鍵を陸奥に取られないように上着の内ポケットにねじ込む周到っぷりをみせた。陸奥はと言うと、坂本の言葉を頭の中で反芻して、なんとなく深読みしてやる。
暗に、また一緒に、と言いたいらしい。
ああやはり、馬鹿なのだ。こいつは。
一人でこの空間に来ようと思うほど、陸奥は孤独な人間じゃない。読書をするにも、瞑想をするのにも、この場所は窮屈で静かで退屈で暗すぎて、埃っぽい。とてもじゃないが、一人で来ようと思う場所ではない。相手が坂本でなかったら、二度と来る気はないし、鍵だって借りるつもりはなかった。
「わかった」
ここはひどく埃っぽくて息が詰まりそうな場所だが、まあ我慢してやろう、と心中だけで坂本に呼びかけてみる。天井のプラネタリウムがチカチカと光り、もうじき終了の合図を出す。
次にこの場所へ来るときは、自分も立って星を見ようと小さな決意をする。また後ろから急に声をかけられてはたまらないという理由は建前で、本音は男の隣で見たかったからだ。星を眺める坂本の横顔は、きっとおそろしく無邪気なんだろう。その一等星みたいな横顔に今度こそ触れてしまってもいいように、今からなにか良い言い訳を考えておきたい。
ふれたくなるね '121125