通りがかった橋の上で、誰かがぽたりぽたりと涙を流していた。その涙の持ち主が見覚えのある顔だったので、沖田はぎょっと目を瞠った。泣いているのは神楽であったのだ。
 すれ違う人々に肩を押しやられながら、沖田はぴたりと足を止める。神楽はぽつんと橋の欄干のそばに座り込んでいる。背をちいさく丸めて、ひっくひっくと、時折肩をしゃくりあげる彼女。

(なんというか、アイツらしくない。大声出して泣いちまえばいいのに)

 そうしてくれたら、「うるせえ泣くんじゃねえ」とでも言って、沖田が近付いて、無理矢理にでも泣き止ませてられるのに。
 だが神楽は声の一つ上げるのも堪えるように、前歯を噛み締めて泣いている。似合わない泣き方をする彼女が気に食わなくて、ぐぐっと沖田の眉間に眉が寄る。
 沖田の知る限り、腕の骨をへし折られようが、足を弾丸で撃ち抜かれようとも、神楽は涙の一粒たりとも流したことはなかった。彼女が泣くところなど見たことがないし、今の今まで想像もつかなかった。
 だけれど神楽は確かに泣いている。ぽろぽろ滴る涙は止まる気配を知らない。じっと見つめていれば、なぜだか胸の辺りがチリチリと疼いた。沖田は、そこで初めて、柄にもなく動揺している自分に気付かされた。あり、と首を傾げてみる。

「いつまでそこで見てる気アルか」
「……ありゃ、気付いてたのかィ」
「そんだけずっと見てたら誰だって気付くネ」

 見せモンじゃねーヨ、と言う声は鼻水が詰まった鼻声。手の甲で乱暴に涙を拭い去った神楽が、ギロリと沖田を一睨みする。両目は充血がひどく、目元は赤く荒れていた。ずいぶんと泣き続けていたらしい。
 それらに沖田が気を取られている隙に、ガシャコンと不穏な音が辺りに鳴り響く。橋の欄干に立てかけてあった傘がいつの間にか、神楽の手元に構えられていた。

「興味本位で見てんならさっさと立ち去るがヨロシ。その頭ブチ抜かれたくなかったらな」
「誰がテメーなんかに好き好んで構うかってんだ。俺も出来るもんならそうしてェ所なんだが、どうもそうはいかなくてねィ」

 沖田へ向けられた傘の先頭からは銃口が覗いている。威嚇のつもりなのだろうが、沖田はこの程度で怯え竦んでしまうような人間ではない。相手も承知しているはずだ。

「こんな時間までほっつき歩いてるガキ共をお家に帰すお役目が、お巡りさんにはあるんでさァ」

 銃口には顔色一つ変えないままに、沖田は頭上を見上げる。橋の下の川は朱色を残しているが、日没はとうの昔。見上げた空は紛れもなく深い夜色をしていて、沖田の足元の影は大分薄まって見える。じきにこの辺りも暗くなるだろう。子供はもうお家に帰る時間だった。

「だったらさっさと他のガキを当たればいいアル。私はガキじゃないアル、もう立派なオトナのレディヨ」

 ずびっと神楽が鼻水をすする音に混ぜるように、溜息を沖田がひとつ吐き出す。どこの誰がレディだって? 今すぐ鏡を見て来いと言ってやりたい。そこにはきっと、顔を真っ赤にした立派な鼻タレ小娘が映っているはずである。
 さっさと連れて帰ろうと、沖田が神楽へ数歩近づくのと同時に、逃げるように後ろへ身を引いた彼女の、瞳の奥にちらりと動揺の色を見つけたが、あえて無視する。

「ほら。グダグダ言ってねェで帰るぜィ。万事屋の近くまで送ってってやるから」
「やーヨ、帰らないアル」
「お前の都合なんて知るかってんだ。俺は早く帰って録画しといた渡鬼の再放送観る予定があるんでィ」
「……私だって、観たいアル」

早くピン子に会いたいアル。モゴモゴと唇を動かした神楽が言った後で、持ち上げられていた傘は下ろされた。腕が疲れた、と呟く声に弱さを感じる。

(帰りたいなら、帰ればいい)

 そう、喉奥まででかかった台詞を飲み込む。帰れと言われても、彼女はそれが出来ない事情がある。だから、こうして一人、橋の上で不貞腐れているのではあるまいか。
 どうしたものかと思考しながら、手持ち無沙汰の両手を何気なくポケットに手を突っ込む。「お、」ガサリと、何かが手に触れる。 長方形型のものが手の中に収まっている。取り出してみれば、ポケットティッシュだった。歌舞伎町の巡回中、新装開店したパチンコ屋の前でアルバイトから手渡された。あのうざい長髪と白い生き物、どこかで見た気がする。ただ、眼帯を付けていたしキャプテンだとか名乗っていたから、おそらく別人だろう。

「……」

 ポケットティッシュはオレンジに水色のラインが入ったチンケなものだ。どことなく、カラーリングが目の前に座りこんだ彼女に似ている。これも何かの縁か。沖田はそう思うことにした。丁度、ズビズビ鼻水をすする音がうるさいと思っていたところだ。「おい、チャイナ」と呼びかけて、ティッシュの使い道を決める。

「オトナのレディ名乗るんだったら、まずはこれで、そのぐちゃぐちゃになった顔をどうにかしなせェ」

 相手の答えを待たずに、沖田は手元のそれをポンと放る。ティッシュは神楽の両手にキャッチされた。不審な目を寄越されたが、彼女の方も鼻水が気になっていたらしい。すぐにチーンと鼻をかむ。続いて、二枚目で涙をふき取って、三枚目でもう一度鼻をかむ。
 ティッシュの白い塊は神楽のポケットにつっこまれていった。紙の塊でポケットがぱんぱんに膨らんでいくのを、沖田はぼうっと眺めていた。
 ぐりぐりと赤くなった目を擦りながら、神楽は沖田へ向けて口を尖らせた。鼻水はまだ流れているが涙は止まったらしい。

「……こんな家出てってやるネって、言っちゃったのヨ」

 帰れない理由というものは、そういうことらしかった。ふうんと呟きながら、ああやっぱりか、と内心思っている。彼女を泣かせられるのはあの人しかいないだろうから。
 チーンと最後の一枚となったティッシュをかむ音が響く。泣いている神楽を沖田が見つけた頃は騒がしかったのに、いつのまにやら、橋の上には沖田と神楽の二人しかいなくなっていた。サラサラと今は川のせせらぎだけが沖田の耳に届いている。

「ねえ私、どうすれば良いアルか」
「謝ればいい話じゃねェか」
「それが出来たら苦労しないアル。銀ちゃんも、おう出て行け、なんて言ってたもん。銀ちゃんきっと、すごく怒ってるヨ」

 ぐずぐずと鼻水の音がしたので見やれば神楽は再び両目を真っ赤に染めていて(ああ、また泣いちまう)、思わずポケットに手を突っ込んで中身を漁ってみるも、二個目のティッシュは見つかるわけもなかった。
 チリチリ、再び何かが沖田の胸の奥を焦がす。神楽の目尻に浮いた涙の破片に、沖田の何かが痛みを訴える。

(泣いてくれるな、俺の前で)

 咄嗟に伸ばした手のひらは、神楽の瞼に触れた。透けるように薄い瞼は驚いたようにまばたきを繰り返す。ぎょろりと沖田を見つめる青の眼球。そこからボロボロと溢れ出る涙を堰き止めるように、沖田の指が神楽の瞼のあたりを浅く覆った。

「そんな悲しい泣き方すんじゃねェ、らしくねェ」

 泣くならせめて、エンエンと。子供みたいに泣いたらいい。堪えるような泣き方はどうにも沖田には苦手だった。
 畳んである傘をつかむ。ドロボー! なんて叫ばれる前に、もう片方の手で神楽の手をさらってやる。わあっ、と高いソプラノをひきつれて、小さな身体を立ち上がらせた。

「エンエンって、何のことヨ」

 悲しい泣き方ってなあに。背後から聞こえた、神楽の問いには答えることはない。沖田は黙って歩き出した。尋ねられても答えることは出来ない、そのまんまの意味だった。ボタボタ涙を流されて困るのは、沖田だということである。
 つかんだのはふっくらした手のひら。当たり前だが、酢昆布臭さもない。ああ、なんだか調子が狂う。らしくないと言ったのは神楽に向けてだったが、実際らしくないのは沖田の方だった。今の自分はらしくないことばかりをしている。
 自分はただ、これ以上涙を見たくなかっただけなのだ。それだけの理由だ。
 包み込んだ手のひらの生温さを払拭するように、強くグイグイひっぱる。早足で歩き進む沖田に、神楽は半ば引きずられるように大人しく後をついてきた。

「チャイナ」

 びくり、と神楽が身体を震わせる気配。手のひらを伝って沖田にも振動がわかった。

「てめーに一つ、良いこと教えといてやる」
「……なにヨ」

 ずずずと鼻水をすする音。全くもって色気のない。思いながら、歩く速度を落とす。ゆらゆら手を揺らしながら振り返れば、神楽が何ともいえない顔で沖田をじっと見つめていた。腫れぼったい瞼が痛々しい。あんなに泣きまくるからだ。

「旦那は怒っちゃいねェよ」
「銀ちゃんが言ってたアルか」
「いんや。言ってもねえし、今日は旦那にも会ってねェ。けど、わかる」

 沖田の物言いに、一瞬きらりと輝いた瞳は一気に精細を失う。なんでお前がそんなことを言えるアルか。胡散臭いものを見る目つきでそう言われた。黙って続きを聞いとけ、と沖田は思う。全く、女はせっかちでいけない。

「あの位の年頃はな、素直に謝ったり出来なくなるもんだ。旦那も、いい大人だから。恥ずかしいんじゃねえの、いろいろと」

 追い駆けてやりたくても出来なかった。きっと。ましてや、出てってやるなんて言われた日には(挙句の果てには、出て行けなんて言ってしまった日には)、どう触れたよいか分からなくなったんだろう。
 あの人は結構怖がりなのかもしれない。相手の一番脆いところに触れてしまったり、それを壊してしまうのを、恐ろしがっている様に思える。今頃、不安で眼鏡あたりに泣きついている頃じゃないかと思う(はやく、連れて帰ってやらないと)。

「だからなァ、そういう大人げないオッサンたちの代わりに、俺たち若者が折れてやんなくちゃなんねェんだ」
「面倒くさいアルな」
「あーホント。面倒くせえったらありゃしねえ」

 うちにも似たようなのがいるからよくわかる、と言って笑ってやる。お互い、気難しい年頃のオッサンを持つと大変だ。

「俺たちはそんな大人にならないようにしたいもんだ」


 ***


「ここでいいアル」

 素直に引っ張られてきた手が、急に強い抵抗をみせた。手を離して首を捻ってみれば、ちらりと万事屋の屋根が見えていた。

「帰ったら、出て行くなんて言ったこと、ちゃんと謝ってこい。出て行けって言ったこと、旦那にも土下座させて来い。あと好きなだけ酢昆布上納させてみろ。きっと貰えらァ」
「分かった!」

 お前にしては良いアイディアネ。にやにやと口元を綻ばせながら、神楽が楽しげに肩を揺らす。声色は出会ったときよりも幾分か明るいものをしている。

「じゃあな! 今度会ったら酢昆布分けてあげるアル」
「いらねェわそんなもん」

 遠慮しなくてもいいのに、素直じゃねーアルなー、などと見当違いのことをぼやきながら、神楽が走り出す。傘をぶんぶん振り上げて、後ろ姿は元気爆発している。

「おい!」

 沖田も踵を返したところで大きな声で呼ばれた。振り返れども、相手の姿は遠い。周りは暗く、表情も見えない、ただ暗闇でゆらゆら揺れるチャイナドレスだけが鮮明に映る。

「あ、ありがとうアル! ティッシュ! とか!」

 沖田が言葉を返すのも待たず、神楽はくるりと背を向けて再び全速力で走り出した。鮮やかな色をした背中は闇に紛れて、今度こそ見えなくなる。残されたのは沖田一人だった。遠くから聞こえる歌舞伎町の騒がしさを耳にしながら、沖田は呆然と立っている。

「……ティッシュとか、って」

 ティッシュだけかよ、沖田の呟きが空しく響いた。
 話を聞いてくれて、ここまで連れて行ってくれて、とか。色々礼を言われる心当たりがある(けれども素直に礼を言うタマじゃないことも知っていたから期待もしていなかったが)。しかしまさかティッシュでくるとは思わなかった。神楽という女が、予想の斜め上をスライディグしてくるような奴だったのを、沖田はすっかり忘れていたのだ。

「…やっぱ、可愛くねェ」

 ちくしょうめと、ふと漏らした言葉とは裏腹に、屯所までの帰り道を辿る沖田の背中は小さくない。沖田自身、よく分からないほどに機嫌が良かった。いらない、とは言ってしまったものの、今日の自分の働き分として酢昆布一枚くらいはまあ貰ってやってもいいかもしれない。そう思ってしまえるくらいには、沖田の足取りは軽い。



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