「――バンダナ」

 揺れた空気に呼び止められて、おれはくるり、振り向く。
 そこにあったものは何故だか浮かない顔をしたペンギン、その翳る瞳で。

「早急にワカメの知識を借りたい。呼んできてくれ」

 発せられた言葉は至って簡単な仕事内容。しかし感情の感じられないその声におれは、そっと眉を潜めた。

「えー、何でおれ? ペンギンが行けば良いじゃん」

 すげなく切り返したおれに、ペンギンはくっとその眉間を歪める。


 …全く、人の気も知らないで。


 己を押し込むことに慣れた静かなその目が、おれは気に入らない。

「引き籠りのあいつを呼び出せるのはバン、お前だけだろう」

 遠い日々を思い出させるおれの略称。いつの間にペンギンは、それを使わなくなったのだろう。

「…こーゆーときだけ懐かしい呼び方するとか、狡いね」

 言った後に降りた沈黙。静かなペンギンの眼差しと、おれは視線をぴたり絡め合った。
 そして確信を込めてそっと、それを呟く。


「本当は行って欲しくない、って顔してるよ」


 瞬間、仁王立ちするペンギンのその体が揺らいだように見えたのは、果たしておれの気のせいなのかどうか。

「そんな訳がないだろう」

 淀みなく答えたその声は平坦で冷淡だった。少なくとも、客観的な目線だけで捉えていれば。

「本当?」

「ああ」

「本当の本当に?」

「当たり前だ。あいつが来なければ、おれも困る」

 強情なその人はきっと、気がついていないのだろう。今、自分がどんな顔をしているかなんて。
 不器用な表情。だからおれはいつも、放っておけなくなる。

「ペンギンって素直じゃないけど、正直だよね」

「…何だ、それ」

 言い聞かせるように穏やかな口調で紡いだおれに、ペンギンは困惑を滲ませた瞳でこちらを見やる。

「"目は口ほどに"…って、ね。ペンギン、知らないの?」

 それは、疑問符を付けた断定。
 不敵に笑うおれの表情を見留めたペンギンは、すっとその顔から一切の表情を排除した。

「………」

 黙り込んでしまったその人にしかしおれは焦ることなく、きゅっとつり上げた口角のまま見守る。
 そしてふと、思い付いたままにまた唇を開けば、再度ペンギンはその顔に戸惑いの念を宿した。

「あ、そっか。ねえペンギン、どうせなら一緒に行こうよ。―――ワカメのとこ」

「、は?」

「良いから」

 言うが早いが、捕まえた手のひら。ひやりとしたその指先を握っておれは直ぐさま、有無を言わさず歩き始める。繋いだそこがペンギンを引いて導き、躊躇する足を前へと進ませる。

「見ててよ、ちゃんと。おれのこと」

 ふっと笑めば、返ってきたのは困惑の顔。だけど、おれは気にしない。

 目指すは地下。日の当たらない、社会性を欠如したあいつの住み処だ。






「ワカメー、いるよな?」

 前方で声を張り上げた長身の男――バンダナ。そいつの目の前には、固く閉ざされた重厚な鉄製の扉があって。
 かたり、辛うじて中から聞こえてきた小さな物音が、部屋主の存在を教えてくれた。

「バ…ンダ、ナ?」

 入り口付近にまで近づいてきたのだろう。扉一枚を隔て微かに、くぐもったその声が響いてくる。

「なーんかペンギンがお前の力を借りたいんだって。ほら、出て来いよ」

「ワカメ、頼む」

 柔らかく諭すような口調のバンダナに便乗して声を上げてみれば、「ぺ、ペンギン、さん…」と少し困ったような声が向こう側で囁かれた。

「す…すみません。おれ、ちょっと、心の準備を…」

 もごもごと聞こえてきたワカメのそんな声に、やはり今すぐは無理かとおれは肩を落とす。
 するとふと、隣から感じた視線。おれが顔を持ち上げればにやり、急な角度で口端を持ち上げるバンダナと目が合った。

「準備〜? ねえワカメ、それ、10秒で良いよね」

「えっ」

 声は出さなかったものの、その一音と同じ形に開いたおれの唇から溢れるが如く、扉の向こうから聞こえてきたすっ頓狂な声。だが、それも当然だ。人との交わりを苦手とするワカメにとって、それはあまりに酷すぎる。
 しかし、そこはやはりバンダナ。

「もしそれ以内に出てきてくれなかったらおれ、ワカメと絶交しちゃうからねー?」

 そこには、微塵の容赦もなかった。

「ええええ…ッ!?」

「いーちにーさーんしー…――」

 早速カウントダウンを始めたバンダナの声は、至極暢気な響き。そこに、ひどく慌てた様子でひっくり返ったワカメの声が重なる。
 その数え方はちなみに、意地の悪い子どものするそれの如く高速で。

「きゅー!」

 間延びしたバンダナのその声が響いた、と同時に、がちゃり開かれた扉。
 その隙間から廊下に痩身を躍らせたのは、波打つ深い色の髪を持つ男だった。

「そ、それは10秒って言わないよバンダナっ…!」

 若干涙目になっているカナリア色の瞳の男――ワカメ、その様子に、気づいているのかいないのか。にっこり、柔らかく輝くような表情で破顔したバンダナはがしり、唐突とも言える動きで、帽子の上からワカメの頭を徐に鷲掴む。

「なーんだワカメ、ちゃんと出られたんじゃん。偉い偉い」

「えっ…ちょ、わわわわっ…?!」

 その手はどこのムツゴロウかという程にわしゃわしゃーっと、勢いよくその髪を掻き回す。それはもう、うねる髪からぽとり飾り毛付きの帽子が溢れ落ちるくらいに。
 それを受け入れるワカメは首を竦めて固まり、真っ赤にその頬を染めながらもしかし、僅かに微笑んでいるように見えた。くしゃくしゃになったその顔からは、ありありとバンダナ好き好きオーラが滲み出していて。

 バンダナも、それには気がついているのだろう。しかしその接し方はまるで、可愛がっているペット――決して恋愛対象とはなりえない、そんな存在――を相手にしているかのようなそれで。神経質で臆病な小型犬とそれをあやす飼い主、そんな図だ。
 おれはふとワカメからふしゃふしゃふしゃ、勢いよく振られる尻尾が見えたような気がした。

 そんな光景を目の当たりにしたおれの肩からはふっと、力が抜ける。

 思わず素直に安堵の想いを表しほっと頬の筋肉を弛緩させたところで、おれの目はぱちり、バンダナの視線と絡み合ってしまった。






 目が合った、と思えば。

 瞬間、慌てた様子を露にしたペンギン。照れるようにして伏せられた睫毛の動きが楽しい。おれは思わずにへらっと、間抜けな程に柔らかく笑ってしまう。
 向こうがそんなおれを見て、大層驚いた様子でその目縁を丸めるのが見えた。
 それからややあってふっと、その顔は再度余分な力を抜く。


 おれたちは誰にも気づかれないようにしてこっそり、互いに見つめ合って微笑んだ。

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