眩い朝陽に目を細める。目覚め立てで動きの鈍い脳味噌は本能的に酸素を欲しがり、ふわぁとおれに天を仰がせた。勿論片手の甲でそこを押さえ多少押し殺しはしたものの、ぼやり滲んだ視界は誤魔化せない。
 食堂に入って、そしておれは直ぐに気がついた。いつも通りの雰囲気。取り繕われたその中にはしかし、若干のぎこちなさが残る。――船長がいるのだ。


 一日が始まる、そして、三回ある内でも最も重要なエネルギー摂取のこのとき、この場所に船長がいることは、ひどく稀だ。
 低血圧な船長は頗る機嫌が悪い。健康の為にもきちんと早寝早起きを心掛け規則正しい生活を送って欲しいという思いも確かにおれの内にはあるのだが、ただただ不機嫌を撒き散らすのみならばいつものように好きなだけ寝ていてくれとも思う。
 しかし今ばかりは現にこうして長い長いテーブルのその先で、並ぶ食器の隙間に高く持ち上げた足を組み、ふんぞり返る船長は存在しているのだ。
 何とかしてくれと気まずそうな視線をびしばし送ってくるシャチには一先ず適当に頷いておき、おれはゆるりコックの元へと向かった。


「―――船長」

「…ペンギン」

 野菜を基調として軽いものを盛り合わせた小さな皿を、おれはすっとその目の前に突き出す。途端、船長はその眉間に深く峡谷を刻み、ふいとその顔を逸らせた。呆れたおれはかたり、音を立ててそれを船長の靴が乗せられている直ぐ近くに置く。

「少しは、何か食べてください」

「おれに命令するな」

「命令じゃありません。ささやかなお願いです」

 どんなに言葉を紡いだところで、船長は頑として譲らない。全く、食事を取らないというのにも関わらず起きてさえいればこの場に居合わせようとするのは、一体どういう意図によるものなのだろうか。おれには分からない。
 しかしやはり今回もお手上げだとおれが肩を竦めたそのとき、また新たに食堂の扉を潜り現れたのは一つの長身の影。


「あー…、またやってるの?」

「…バンダナ」

 船長の傍らで憮然と立ち尽くすおれに早速目を止めたそいつは困ったように軽く金糸を掻く動作を見せ、その唇は苦さを見せつつ笑う。

「船長も、いい加減強情っすね」

「…黙れ」

 不快そうに眉を歪めた船長をバンダナはその眼差しを細めて見やり、それからおれの顔を流し見て「ちょっと待ってて」と踵を返した。そのとき丁度寝ぼすけな様子をありありと醸し出して部屋に入ってきた白熊の腕を取り、その背中はするり調理場へと消える。


「……、…」

 ちらり船長を見たときの、バンダナの柔らかな眼。それをふと思い返してみたら何故だか、心臓の辺りが妙に騒いだような気がした。




 バンダナがその姿を消して五分。
 何でもいいから食べてくれという視線を無反応な船長の後頭部に送り続けているのにもそろそろ飽きてきたところで、その金髪頭はゆるり食堂へと舞い戻ってきた。
 その手に携えられていたものは、コーヒー用のカップが二つ。
 かたり、流れるような動作でしかし態とに音を立てて置かれたそれに、船長はちらりと一瞥を送っただけだった。しかしバンダナのその顔にはにこり、自信に満ちた笑みが浮かぶ。

「船長、コーヒーです」

「要らねェ」

 にべもなく緩やかな声を叩き落とした一言にもしかしバンダナは怯むことなく、悠々とした態度で畳み掛ける。

「それ、ベポが淹れた特製コーヒーですよ?」

「!」

 がばり、弾かれたようにその身を起こした船長。おれは、成る程とひどく感心する。
 色濃く住み着いた隈を飼う藍の瞳が捉えた先には、不安げな様子で調理場の入り口からこちらを窺う図体のでかい白熊の姿が。

 ぎろり、次にその視線が向かった先は、不敵に口角を持ち上げ笑うバンダナのその顔。

「…てめェ、まさかベポに火傷なんてさせてねェだろうな…?」

 鋭い視線に貫かれても尚、その唇の弧は揺るがない。

「まさか! おれが着いてて、そんなヘマをするとでも?」

 大袈裟な仕草で己の手のひらをその肩の両横で広げて見せたバンダナを見、船長は小さく舌打ちを溢す。
 一拍の間を空けてするり、そのカップを手に取った船長の顔は、正に苦虫を噛み潰したかのよう。対照的に輝いたベポの顔と、その笑みを深めたバンダナの顔は見物だった。
 緩やかな動作で一口、その液体を煽った船長のタイミングを見計らったかのように、バンダナが自然な流れでその唇を開く。

「パンとか、一口くらい食べません?」

「…腹が膨れれば直ぐに残すぞ」

 船長の言葉にふっと和らぐバンダナの瞳は、ひどく優しく、

「今持ってきます」

 おれはまた離れていったバンダナの背中を、複雑な思いで見送る。


 …――ああ、まただ。また、いつもの光景だ。

 きっと戻ってきたバンダナはへらりと笑って見せて、船長は眉を潜めて横目でそちらを見やり、だけど満更でもなさそうにやがてその唇をにやりつり上げるのだろう。

 それから暫くして再び近づいてきたバンダナが取り皿に盛ったいくつかのパンを差し出せばやはり、おれの想像していたものは寸分違わず現実となった。


 おれは無意識の内にぎゅうと、固く唇を噛み締める。

 おれの方がずっと付き合いは長いはずなのに…、と。もやもやと渦巻く手前勝手な考えは醜く、おれは船長相手に何をと自己嫌悪に陥る。
 何故だか詰まった息はおれの呼吸を妨げ、肺を膨らませ萎ますたったそれだけのことをひどく困難なものへと変えてしまった。ああ、胸が…苦しい。

 必要性以上の言葉を交わさずとも、全てが通じ合ったかのような雰囲気。
 多分、バンダナと船長は似ている。少なくとも、おれとバンダナよりはずっと。おれには分からない、しかし、二人の間だけで通じるものがあるのだろう。


 それが羨ましくて、妬ましくて―――…


 嬉々とした表情で駆け寄ってきたベポを優しげな瞳で見上げた船長の元から、バンダナはふらり離れてこちらへと歩み寄ってくる。
 締め付けられた心臓が苦しい。上手くその顔が見れない。おれは咄嗟に視線を伏せ、そのまま踵を返さんと右足を引き――…


 そのとき、おれの視界に割り込んできたのは黒。


「はい」


「!」

 差し出されたそれは緩やかに湯気を立ち上らせ、おれの顔を湿らす。芳ばしいコーヒーの香りが柔らかく、おれの鼻孔を擽った。

「ペンギンには船(うち)のアイドル特製!じゃなくって悪いんだけど…」

 あははと軽く声を出して笑ったバンダナが持つそのカップは、先ほどからずっと持たれていたもの。

「ちょっと冷めちゃったかもしれないけど…でも、愛情だけはたぁっぷり入れたよ?」

 おちゃらけた様子で軽く首を傾げへらと笑ったその顔に、おれの唇は自然微笑む。
 ……とならない辺り、己の可愛いげのなさを改めて自覚してしまうのだが。

「…ふん」

 碌な礼、どころか何も言わず、おれはぱっとバンダナの手のひらからそのカップを奪う。
 そして熱を持った顔を見られる前にとそちらに背中を向けたおれは、早速揺れる水面に唇を付け、小さくそこを震わせて"バンダナ特製"を啜った。

 それは長く時を共にしたバンダナが間違えることなくおれの嗜好に合わせた、純粋なるブラック・コーヒー。
 今朝一口目のそれはおれの舌にとろり絡み付いて、やけに甘やかな味がした。

120407
 
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