女ではないのだから別に、それほど気にする必要はない。しかし、何故だか気になった。
 ふ、と。左手の人差し指、その第二関節の裏辺りで確かめるようにして触れた己の唇は、瑞々しさに乏しいかさついたもの。最近、忙しかった所為だろうか。少し、荒れ気味になってきている。
 ひらり、防寒帽の隙間から溢れた横髪が、不意にそよいだ塩っ辛い風に揺れる。ぴり、それによって齎された痺れるような刺激が、唇に沁みた。

 そこからは唐突な連想ゲームだった。何故そんなことをおれの脳は勝手に繰り広げ出したのか、それは、自分自身でもよく分からない。


 切れた唇……唇……キス。

 きす、と。


 おれははた、唐突に体の動きを止めた。その一瞬で、頬の辺りに微量ながらも熱が集まってきたのが分かる。
 何を一人唐突に赤面しだしているのだろうか。おれの中の冷静な部分が、呆れたように肩を竦める。この光景は第三者から見れば、ひどく滑稽なものなのだろう。

 キスなどという行為、それを、よくまあ自分からしようなどと思えるものだ。おれはぼんやり感嘆とも呆れともつかない心情で、物思いに耽る。いやしかし、バンダナにとってはそんなこと、全く以て大したことではないのかもしれない。そう考えたおれは、少しばかり沈んだ。
 しかし、と。おれは直ぐに気を取り直す。こんなことを一々気にしていたら切りがない。奴は最早、おれとは全く別の世界に住む住民なのだから。おれは、自分で自分にそう言い聞かせた。そうすれば幾らかは気も晴れる。しかしよくもまあ、あいつはあんなにも恥ずかしげなくあんなことを言ったりしたりできるものだ。おれには到底、不可能なこと。
 あちらこちらに飛んでいく纏まらない思考にしかしおれがのめり込んでいたところに…――ぐん、突如、感じた殺気。

 はっとおれが顔を持ち上げたときには、もう遅い。

 網膜を通して認識した世界に、おれは漸くと今自分が戦闘の最中にいるという状況を思い出す。
 戦闘中に余所見をするなどといった初歩的なミスをやらかしてしまうなんて、油断するにも程がある、と。おれは今さらながらひどく自分を恥じた。


 迫り来るサーベルはもう、目と鼻の先。

―――避けられない。

 一瞬にしてそれを悟ったおれは潔く、己で己の目を瞑って――…。



「―――大丈夫? ペンギン」


 …どさり、数秒の後に聞こえてきたものは、木造の甲板を打った重たい音。
 おれはゆるり、瞼を持ち上げた。


「貸し一つ、ね」


 にっこり。そこに立っていたのは、清々しいまでの笑顔を見せたバンダナ。
 その眩い金糸を前に、おれは死を覚悟した数瞬前よりもずっと速く、己の顔からさっと血の気をなくしたのだった。





 …最近、弛んでいるなという自覚はあった。
 しかし、今回のこれは何もおれ一人の所為ではない筈。何故ならおれがあんなにも無防備にキスというただの唇と唇の接触行為について考え込んでしまったのは偏に、バンダナが以前に一度その接触行為を仕掛けてきたことがあったからであって。
 よってこれは自業自得とは言わない。寧ろ、全てはバンダナが悪いのだ。


 …なのに、


「………断る」

「いや、あのね? ペンギン、これはおれからの"お願い"じゃあないの」

 にこにこと至極楽しげな表情でじりり、僅かながらもしかし確実にこちらとの距離を縮めてくるバンダナ。その唇が紡ぐのは、軽いながらも有無を言わさぬ口調で。

「"貸し"だ――って。おれ、言ったよね?」

 ぐっと言葉に詰まったおれの顔を見、バンダナは勝利を確信した表情でその口角を持ち上げて見せる。
 反論する余地もなく、言い返せないのが悔しい。貸し借りが嫌いなおれの性分を十分に理解した上でのバンダナのこの責務の提案は、最早おれにとっては決して逆らえない命令に違いなかった。

 しかもその提案というものが実にタイミング良く、


「ほら、早くキス――して?」


 まるでお前はおれの頭を覗きでもしていたのかと疑いたくなる程にピンポイントな事柄――バンダナはあろうことかこのおれにキス、を要求してきたのである。


 透き通る双眸がじっと、渋るおれの両目を頓に見つめる。分かってはいた。こうなったバンダナはもう、梃子でも動かない。
 おれが腹を括るしか……ないのだ。

 外方を向かせていた顔はそのままで、しかしちらり、横目でそちらを見やれば、バンダナにはそれだけでおれの考えが伝わったようだった。
 心得たような顔をしてゆるり、こちら側に乗り出していた身を落ち着け、バンダナは打って変わって待ち構える体勢に。そのままおれを穏やかに見つめ、ふっとその眼差しを細め笑って見せた。そしてこてり、金髪頭は俄に小首を傾げる。

「キスって言ったって勿論おでこにちゅーとか、そんなんじゃ駄目だよ?」

「うっ…」

 内心で企てていた苦渋の妥協策さえもを断ち切られたおれにはもう、逃げ場がない。
 きょろきょろ、おれは出し抜けに辺りを窺う。人気はなし。ここにいるのはおれとバンダナ、二人だけ。

「っ、目を瞑れ…!」

 …ああ、逆上せそうな程に顔が熱い。

「はいはい」

 やけくそな思いで声を張り上げたおれの姿を見、バンダナは小さく苦笑いに肩を揺らしていた。

 すーはーすーはー、深呼吸。あちらこちらに視線をさ迷わせるおれは今正しく、挙動不審という言葉を体現しているのだろう。

「…薄くでも目を開けたりなんてしたら、お前の脳天を撃ち抜く」

 羞恥を圧し殺す為に低くおれが脅しの言葉を掠れた声で呟けば、

「分かったってば。――ほら、早く」

 バンダナは一瞬だけぱちり片目を開いて小さく微笑み、また直ぐにその顔から一切の表情を消して無言でおれを責っ付いてくる。
 整った顔だ。おれは内心でたじろぐ。もう、あまりの恥ずかしさにいっそ気を失ってしまいたかった。

 がしりっ、おれは八つ当たるようにして粗野な動きで目の前の胸ぐらを掴み、その体ごと引き寄せる。

 こうなったらもう、勢いだ。


 どっどっどっどと早鐘を打つ心臓。
 ぐるぐると目が回ってきてしまいそうな錯覚。
 じわり手のひらに滲んだ僅かな汗にさえ、おれは羞恥に駆られる。

 ぷしゅぅと湯気の出る己の顔を自覚しながらもおれはぎゅうと固く目を瞑ると、一息に唇を突き出した。


120405
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