「シャチ」 「――んあ?」 キャスケット帽子の鍔の、その下。おれが持ち上げた視線で捉えたものは、ゆったりとその身に纏ういつもの甘い雰囲気を霧散させた精悍な目つき。やる気なくそれと目を合わせながらも一応は空気を読み、大人しく居住まいを正したおれに、バンダナは至極真面目な顔つきで告げる。 「愛してる」 「………キモっ」 心底からの気持ちでそう吐き捨ててやったおれに、あれ? と。バンダナは不思議そうな面持ちで小さく首を傾げた。 そんな頓馬な仕草に呆れたおれは、はッと鼻先で軽く笑ってやる。 「んだよ、まさかおれが『わーい嬉しいっ、バンダナ大好き〜』とでも言うと思ってたのか?」 「おっかしいなァ……言えた」 「ておい、無視か。おれの渾身の裏声は無視か」 瞼を伏せ、ぶつぶつと独り言つバンダナの真顔に、おれはひくひくと己の口元が痙攣するのを感じた。 「…で、何だって?」 深く嘆息した後、気を取り直して肘をどかりテーブルの上に乗せ頬杖をついたおれは、顎先を使ってその先を催促。 「んー…いや、ただ単に"愛してる"って言えるかどうか、ちょっと試してみたくってさ」 「はあ?」 訳が分からずおれはきゅっと眉間をしかめるが、バンダナはそれに構わず、すっと持ち上げた片方の手のひら、その指先に天を仰がせる。 「まず、シャチには言えただろー? 船長にも言えた、この前会ったときにはキラーにも言えたし…」 指折り数えて次々と男の名前を連ねていくバンダナのその姿に、おれは隠すことなくドン引きして見せた。 「…お前なァ」 「あ、この前冗談でワカメに言ってみたら、あいつ腰砕けになっちゃってたなァ」 そのときの様子を思い出したのか、バンダナはくすくすと可笑しそうに肩を揺らす。 想像に難くない光景だった。バンダナが好きだと広言して止まないあの物好きは、また逆上せあがって目を回したのだろう。 「冗談って…ワカメが聞いたら泣くぞ」 「それがまた可愛いんじゃん」 「…悪趣味」 けっと顔を背けたおれの視界の端で、金の色はこちらを見て苦笑を溢したようだった。 「まあつまりは、おれは誰にでも普通に言える筈なんだよね。そんなことくらい」 「そこはもう良いよ、分かった。…それで? 何でまたそんなこと試してみたんだよ」 すっと滑り込ませた、核心に踏み込む質問。おれの目の前でふっとその顔をいつもの巫山戯たものから変化させたバンダナは、僅かに憂えを含んだ吐息で溢す。 「おれ、最近変なんだよね。何でかペンギンにだけ言えないんだ。"愛してる"って」 「ほー」 「…前までは全然、普通に言えてたのに」 「ああ、そういやお前ら、同郷出身だったよな」 軽く首肯をすると共におれはそんな相槌を打ち、そのままじっとバンダナに注目を続けていれば、しかし唐突に訪れた静寂。 「………」 「………」 「………」 「どうしてかなァ…」 「…って、は?」 「え?」 「……まさかバンダナ、お前…分かってねェのか?」 あまりのことにそんな馬鹿なと俄に動揺を示したおれをふと見留め、バンダナこてり、訝しみの表情で小首を傾げる。 「分かってないって…何が?」 「………」 ぽかん。おれは、そんな効果音が付きそうなくらいに唖然としてしまった。 そしてやっとのことでその言葉を受け入れたおれは、ほうっと固まりのような息を吐き出した。 「何だ、自覚はなかったのか。そうか…」 一人、全ての事柄に納得し何度も頷くのを繰り返していれば、やがてそんなおれの顔にじとり、バンダナの不服そうな視線が突き刺さってくる。 「…さっきから何。早く説明してよ」 若干音程の低いその声に仕方がないなと音を立てずに鼻腔のみでふっと息を吐き出したおれは、紐解くような口調を意識してゆっくり話し出す。 「説明も何も、なァ…。ただ単にお前が、そんだけペンギンには本気だってことだろ」 「は……?」 妙な表情で固まったバンダナを気にせず、おれは、諭すようにして言葉を続ける。 「大体、その言葉は軽々しく使っちゃいけねェもんなんだっての。それなのにお前はそうやって思ってもないときに適当に言うから、それに重みがなくなって、結果お前はマジのペンギン相手にその言葉を使えなくなっちまったんだろーが」 つまりはそういうことだろ、と言い切り、軽く言葉を結んだところでおれがふとバンダナの様子を窺ってみれば、何と言うか。 「…………」 眦の下がったその目は見開き、また体も完全に固まってしまっている。 何してんだとは思いつつ、おれは相手の出方を見るべく黙って待ち続けてみるがしかし、バンダナは一向に動き出そうとしない。ひらひら、冗談のつもりでおれがその眼前で手のひらを揺らしてみれば、漸くとぱちり、その丸々と見開かれていたたれ目が一つ瞬いた。 「、」 「んん…?」 そして次の瞬間、漸くとその目に意識が戻ってきたかと思えば、ぱっと忽然色づいた――頬。 「おっ」 おれが思わずそう声を上げた途端、ばっと動いたバンダナの手のひらはぐしゃり己の金の前髪を掴み、それからややあってがくり、項垂れる。その奥からはあー…だとかうー…だとか、小さな唸り声が始終溢れて来ていて。 「…大丈夫か?」 尋ねたおれの声はしかしどうしてもにやにやと緩んだ頬の影響を受け、からかうような響きを持ってしまう。 「ちょ…タンマ。シャチ、こっち見んな…」 そう言ってずるり、己の額から下ろしたボーダー柄で目元を隠し、天井を仰いだバンダナに、おれはくつり思わず笑みを溢してしまった。 「何か…あれだな。イイ気味」 ふっと態とらしく口端をつり上げたおれに、手のひらの隙間を縫ったバンダナの声が届く。 「何それ、ムカつくなァ…。後で、覚悟しておいてよ」 「ちょっ、まさかおれ、死亡フラグ!?」 慌てて若干本気の焦りを滲ませ叫んだおれの声に、ふとバンダナの顔からは覆いが外された。ちなみにそこから覗いた真顔は、大層据わった眼差しをしていて。 「…あれ、ところでシャチって男との経験あったっけ?」 「まさかの貞操の危機だった!」 高らかにぎゃーと悲鳴を上げたおれの顔を見、珍しく髪を纏めるその布を手に持った状態のバンダナは不意に何の屈託もなく笑った。 「――おれがシャチに説教うけるなんて、ね…」 「良いだろ、たまには」 にやり不敵に笑ったおれに、バンダナは力なく苦笑を返す。 普段は常に余裕に満ちた笑みを浮かべ、泰然とした態度を崩さないバンダナ。その赤面なんて貴重なものを目撃したおれは、ひどく気分が良かった。 「そろそろ、真剣に向き合えよ。……向き合ってやれよ」 言って、しかし言い直したおれのその言葉に、不思議そうな様子でこちらを見上げてきたバンダナ。 しかし、おれは気づかないふり。ゆるり、口角を緩める。 おれが言葉にした事柄によって、何かが少しでも変わると良い。 随に行き着くであろうその先を待ちきれず、おれは漠然とそんなことを考えてみた。 120523
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