*微グロ(蟲)注意
(なにも、みえない)
突然だった。 気付いたらそうなっていた。
いつもならここに放り込まれてしばらくすると手足の感覚がなくなって、皮膚を這い回る蟲もナカを貪る蟲も一緒くたになって生きているのか死んでいるのかわからないくらいにぐちゃぐちゃになって、ただなんとなく目に見える蟲達の数を数えてみたりするのだけれど、今日はそれが叶わなかった。 真っ暗な闇だった。勿論とうに痛みの感覚は切れている。じゃあ私は死んだのかな。でも溢れ出す程の魔力はそこらじゅうに蠢いていた。
「桜ちゃん」
声がした。
呼び返そうと開いた口はあっという間に望んでいないもので塞がれて埋め尽くされて、んぐ、とこれまた望んでいない声が出る。 喉の奥に数匹で侵入ってくるそれは器官に入ってしまう前にいっきに飲み込むのが一番楽な方法であると、私は最初のうちに学んでいた。咀嚼すると、踊り食いなんて生温い事を言ってられないくらいにそれらは舌の上で暴れ回り、この世のものとは思えない味が口の中に広がって、ああ私にもまだ味覚なんて残っていたのか、なんて思った。 そうして私はもう一度口を開いた。
「…雁夜、おじさ…ん?」
「そうだよ。今、出してあげるからね」
姿は見えない。でも声は聞こえる。 ふらりと手を伸ばすとおじさんが私を掴んで、ここから引きずり出そうとして、一度、手放した。いつもおじさんはここから私を出そうとしてくれるけれど必ず何度か失敗する。だってそんな力この人の右手には残っていないもの。手に取るようにわかる。この人はもうすぐ死ぬ。
何度も落とされるのはもう痛みすら感じないけれど少しだけ面倒臭い。それなら乱暴なおじいさまに素早く引きずり出された方がまだ楽だった。
二度、三度と手を取り落として。
四度目でやっと私を抱き寄せた。
「どこか痛いところは無い?」
「…ううん」
痛いのはあなた。 いつだってそう思う。 口に出しはしないけど。
「そっか。じゃあ行こう」
声の聞こえる方へ歩く。あっ、と思わず声が出た。段差に躓いてしまったのだ。ああかっこわるい。心配をかけたくないのに。
「どうしたの?大丈夫かい?」
「…なにもみえない、の」
「っ、魔術回路が暴走してるのかもしれない」
息を呑む音が聞こえた。おじさんは焦っている。私にはそれが不思議で堪らない。二人で頑張って行こうとか、二人なら堪えられるとか、そういうのはいらないのに。
だっておじいさまにはそういう風に教わった。
「他に、体におかしなところはある?」
「わからない。何も感じない」
「大丈夫、大丈夫だよ、桜ちゃん」
頭を撫でる感触。優しい声。 そして唇に何かが触れた。
「ごめんね、おじさんの魔力をあげるから」
ごめんね、ごめん、桜ちゃん。 今楽にしてあげる。
何度も謝りながら入って来る舌には何も感じなかった。ただ不器用だと思った。彼は怯えていた。 すると、少しずつだけれど目に明かりが戻って来た。神経が回復しているからなのか、五感が一斉に還って来て、同時に体中の痛みが私を襲う。苦痛で声を上げないように。完全に視力が戻るまで唾液を与え続ける拙い舌を、虫のように噛みちぎって飲み込んでしまわないようにと、ただただ気をつけていた。
「雁夜くん」
花だ。花が舞っている。
「綺麗ね……」
あたたかな陽射しを受けて、花に囲まれた女性が笑う。
「……葵さんも、綺麗だ」
一面に溢れかえる桃色の花は追憶の匂いがした。
「あら、何か言った?」
むせ返る程に甘い、それはあの人の記憶。
「ううん、何も」
彼女の笑顔に彼もまた笑い返した。
昔の夢を、見ている。
「ねえ、雁夜おじさん!あのお花取って!」
次に見たのは、私より少し小さな歳頃の女の子がはしゃいでいる場面だった。
「うーん。それは駄目だよ。このお花は取っちゃいけないんだ」
困ったような顔をする雁夜おじさんは今よりずっと元気で、髪も黒かった。多分、知らない人から見たら今のおじさんと同じ人だとは思えないだろう。
「えーっ、お花、取りたかったのになあ…」
「こら凜、わがままを言うのはやめなさい!」
おかあさ…、違う、違う、遠坂の家のあおいさん、と、りん、さんだ。そう。練習したでしょう。葵さんと凜さん。大丈夫、呼べる。私にはなんの関係もない人達だ。
それに、こんなの知らない。私はいないけれど仲間外れとも思わない。間桐桜がいたらおかしいのだから、これで合っている。
「写真ならおじさんが撮ってあげるから」
「本当!?やったあ、ありがとう雁夜おじさん!」
「ごめんなさいね、凜ったら…」
「大丈夫だよ、気にしないで、葵さん」
まるでテレビの中の遠い国を見ているような感覚だった。
つまらない。どうでもいい。 勝手にやっていればいい。
「それにしても、凜ちゃんはどうして花を取ろうなんて思ったのかな?」
関係の無い事なのだから、目を逸らして無視してしまおう。 そう思った矢先にその言葉は飛び込んできた。
「だって、この花、 “サクラ”って言うんでしょう?」
どくり。
心臓が高鳴った。ふわふわ浮いていた意識が、そちらに引っ張られる。
「桜、今日はお稽古で出かけられないからね、」
“サクラ”
「持って帰ってあげたら嬉しいかなって思ったの!」
それは、花の、私の、名前。
咲き誇る花の名前を貰った。 この国で一番有名な花なんだと。 大好きなお父様がそう言った。 大好きなお母様がそう笑った。
「凜ちゃんは優しいんだね」
「えへへ」
嬉しそうに笑うのは 紛れも無く私のお姉さんで、
「そうね、何かお土産も買って行きましょう」
優しい顔をして笑うのも やっぱり私のお母様で、
「わあ…!ありがとう、姉さん!」
とびきり幸せそうに笑うのも、 間違いなく私だった。
髪もまだ黒くて、今よりずっと健康そうで、今よりずっと笑顔だった頃のわたし。姉さんとお母様に貰ったお土産を大事そうに抱えている。
「これが私が作った花びらの押し花の栞で、こっちが雁夜おじさんの撮った写真よ」
「すっごく綺麗。雁夜おじさんもありがとう!」
「どういたしまして、桜ちゃん」
そこで夢は途切れた。
泡が水面へ浮かんで行くように、意識が段々はっきりとする。
深海から地上へと。 天国から地獄へと。
あれは、私があの日遠坂に置いてきた記憶だ。
要らないモノだった。 甘い甘い夢だった。 この手に余るような、幸福だった。
「……ああ、お母様、さくら、は」
どうして今、私にこんなモノを見せるのだろう。
「あっ、お母様、いや、あそこは、いやなの……っ」
どうして今、こんな記憶を与えるのだろう。
「っ、いや……いや……!助け、て、ねえさん、お父様……!」
夢から醒めたくなくなってしまう。 希望を、望みを、持ちそうになってしまう。
「やだ、ぅ、あ、ああ……!」
「桜ちゃん!?」
「おじ、さ……っ、」
「どうしたの?怖い夢でも見たの?」
「ちがうの……ちがう、ひっく、ちが、っあ、あ、」
「桜……!!」
涙は涸れきった筈だった。 嗚咽は搾りきった筈だった。
なのに後から後から雫は溢れ出して止まらない。ぽろぽろ、ぼろぼろ。ただ涙を落とすだけの人形に成り果てた私を雁夜おじさんは抱きしめた。涙はますます止まらない。籠もる力は強くなる。
なんて人だ。なんて幸せな夢を見る人だ。
あんな、満ち足りたものを見てしまったら、後が辛くなるだけだろう。
どうしてくれる。
幸せなんて、家族なんて、望まないで生きていられたのに。 一人で耐えていられたのに。
どうしようもなく欲しかった。
どうしようもなく乱されてしまった。
桜の花は、散り様まで鮮やかで美しかった。
散るから桜と名付けたのか。
散るために生まれた花は一体どう生きれば良いのだったか。
「ぁああああああああ……!!」
(苦しい)
(生きたい)
(帰りたい)
そう私に思わせてしまったのは間違いなくあなた。
きっと、それは、
幸福致死罪
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