冷えた空気と真っ黒な空。枯れ木にわずかに残る葉が風に吹かれて静かに揺れている。 その寒空の下に小さな人影がひとつ。黒いスーツを身に纏ったセイバーが、深夜の闇に溶け込むように公園のベンチに腰掛けていた。
「待たせたな、セイバー」 「ランサー」
そこへ俺が静かに姿を現し、いつものように声を掛けると、その顔が心無しか綻んだように見えた。彼女は嬉しさを隠しきれない様子で俺の名前を呼び返す。 俺は彼女の腰掛けるベンチの隣まで歩いて行き、そこで立ち止まった。
「座らないのか?」 「ああ、今日は長居をするつもりは無いからな」 「そうなのか…」
俺の言葉を聞くとセイバーが残念そうに項垂れた。普段ならぴんと天に向かって跳ねている一房の髪の毛が下を向いて見えて、捨てられた子犬を見ているような気分になる。 いつでも気高く凛として、戦場を駆ける姿は強く勇ましい。そんな彼女のこのような姿を見れるのも自分だけなのだろうと、少しの罪悪感と共にこの信頼関係を嬉しく思う。けれど、それも今夜で最後だ。
「セイバー、話があるのだ」 「何を改まって。今までもたくさんここで話をして来たでしょう」 「そういう事ではなく」
どうしても言わなければいけない事があるのだ。 そう言うとセイバーは考え込むように一拍置いてから、こう俺に返した。
「ならば、私から先にひとつ言っても良いだろうか」 「それは構わないが」
綺麗な翡翠色の大きな瞳。揺るぎ無い意志を放つ瞳。こうして躊躇うことなく真っ直ぐに合わせられる異性の瞳は彼女のものだけで、俺の唯一の癒しだった。
その瞳がひたと俺を見据え、肩に手が置かれる。逃げ場の無いような状態でおもむろに、彼女の口が開かれた。
「フィオナ騎士団随一の戦士、ケルトの英雄ディルムッド・オディナ。私は、貴殿を愛しています」
時が、止まる。
痛いくらいの静けさが二人を包み込む。吹き荒ぶ風の音がどこか遠くで聞こえた。
セイバーには照れる様子も恥じる様子も無い。ただただ伝えたい事をひしと伝えて来る。その断固として曲がらない真っ直ぐな在り様は、彼女の有する宝剣のようであり、鋭く俺を突き刺した。
異性として、と言う意味で間違いは無いだろう。このようにいっそ清々しい程にきっぱりと言い放たれてはそのようなごまかしは無粋であった。
けれど、それは。 それは、俺が何より恐れる言葉だった。
その鈴の音のような声が響いたとき、
「……お前の勘違いだ。この黒子の呪いに惑わされているだけではないのか?」 「何を戯れ事を。その呪いが私に効かない事はあなたも良く知っているでしょう」
ああ、ついに来てしまったかと。 断じて彼女が俺を好いていてくれているなどと自惚れていたわけではない。彼女が俺に向けている好意は敬愛の類の物だと思っていたし、そう信じていた。
けれど、どこか胸の奥にこうなるのではないかという思いがあったのもまた事実だ。 それは不運で不誠実だった。
「貴方の話してくれたフィオナ騎士団の活躍も、貴方自身の英雄嘆も。まだまだ聞き足りないのです。それに、私も貴方に話したい事が沢山ある。だからどうかもう会えないなんて言わないで」
お前とは、もう会えない。確かに俺はそう告げようとしていたのだ。まったくもって、お見それする。 先手必勝とは戦に置いて良く言うが、戦で無くともこの場合先手を取り損ねた俺が愚かだったと見える。彼女に一度足りとも会話の主導権を握らせてはいけなかった。有無を言わさず、会うのは止めようと言うべきだったのだ。 今となっては全てがもう遅い。
「愛しているのです、ディルムッド。どうして解ってくれないのですか」
切ない声が鼓膜を震わせた。 ……そのような甘やかな声は知らない。セイバーはそんな、涙に濡れた目で俺を見ない。 やめてくれ。やめてくれ。
「解るも何も、勘違いだと言っているのだ」 「違う。確かに私は貴方と比べて異性との関係を持った経験は少ないだろう。けれど私は、自分の気持ちを履き違えるような愚か者では無い」
どうやら彼女の意志は固いようで、上手く言いくるめようとする俺の方が愚かに思えた。 結局いつだって、寸でのところで彼女には敵わないのだ。
「…俺は、お前の気持ちに答える事は出来ない」 「…っ」
肩を掴んでいた腕を振りほどき、背を向け俯いて答える。なんと不甲斐の無い答え方であろう。俺はこうやって目を逸らしてばかりだ。
すると、予想以上に強い力で腕を引かれ、くるりと状態を戻された。突然の事に驚いている暇も無く、さらに驚くべき衝撃が訪れた。
セイバーの唇が、俺のそれに強く押し当てられたのだ。
(…───私を連れてお逃げ下さい)
いきなりの口付け。戸惑うばかりの口付け。その柔らかな感触に、生前の記憶がフラッシュバックする。あの時も抵抗できずに、そして。 いけない。あのような悲劇を引き起こさない為に俺はここにいるのだ。セイバーをグラニアのような目に合わせてはならない。
「ちゃんと、"私"を見て下さい」
触れるだけの口付けを終えセイバーはそう言い放った。
そう言われて初めて、俺はその瞳にグラニアのそれを重ね合わせていた事に気付いたのだ。
けれど。彼女自身を見つめたところで俺の答えは変わらない。
「お前を好いてなどいないから、その申し出は承諾出来ない、と言ったら?」 「私とは付き合えない、と」 「そうだ」
「私の事が嫌いだと?」 「……そう、だ」
もうなりふりなど構っていられなかった。騎士道も、男らしさも捨てて。弱々しくそう返す事だけで精一杯だった。俺はとにかく早急にこの場所から立ち去らなければいけなかった。
セイバーの大きな双眸に涙が溢れる。 咲き誇る百合の花の様に気高い彼女の、鋭く敵を射る瞳が、幼気な少女の様に潤む。
今日だけでいったいどれ程に知らない彼女を知ってしまったのだろう。 俺達はもう、以前のような好敵手には戻れない。
「貴方は嘘つきだ」
小さな声が、掠れて胸を震わせる。 縋り付いて嘆くセイバーを振り払う勇気は俺には無かった。
「嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき!」
怒りと悲しみの入り混じった表情の彼女はついには風王結界を解き放ち、見えない剣で俺を追い立てる。 そのように錯乱した状態で俺を捕らえる事など不可能だろうに。どうせ本気の打ち合いでは無いのだ。破魔の紅薔薇を、間違っても彼女を傷付ける事の無いよう槍先を下に向けた状態で構え、剣撃を防ぐ。金属と金属が打ち付け合う音だけが虚しくあたりに響き渡っていた。
「俺は嘘など───」 「なら!どうして泣いているのですか!」
泣いている? 泣いているのはお前だろう?
透明な雫が、俺の胸板を濡らす。ぽたぽたと零れ落ちる涙はお前のものだろう?
その手が鎧を消し去りふわりと優しく頬に触れた。
「その様な辛そうな顔で、嫌いだなどと言わないで下さい。いくら私でも気付きます」
セイバーの掌が涙を拭う。 そこで初めて、自分の頬が濡れている事に気付いた。
「貴方は嘘をつくのが、とても、下手だ」
驚いたことに、泣いているのは俺も同じだったのだ。
そこから先に何があったのかは覚えていない。気付いた時には、主の伏せる廃工場の前に呆然と立ち尽くしていた。 情けない限りだが、おそらく自分はあの場からみっとも無く逃げ出したのだろう。 彼女は幻滅しただろうか。好いた人間がこんな奴だと知って、がっかりしたのでは無いだろうか。
……笑えるな。嫌いだ、などと言って別れておきながら、俺はセイバーに嫌われるのを恐れている。頭の中は彼女の事でいっぱいだ。
彼女はそれを見抜いていたに違いない。
ああそうだ、俺はセイバーを愛していたさ。 初めて会ったあの日から、多分もう、俺は彼女に恋をしていた。
それがいけない事だと知っていた。自分がこの時代にいる意味は、色恋に現を抜かす為では無いことぐらいわかっていた。
だから、俺が愛しているだけでよかったのだ。 想い合ったところで報われない愛ならば片想いのままでよかった。
だって、俺が想っているだけならば、もう昔のような悲劇は起こらないだろう?
俺だけが彼女が手に入らない苦痛に耐えていればいい。好きで、好きで、伝えたい、触れたい、抱きしめたい。俺が一人でこの身を焦がしていればいい。だって、けして忘れる事など出来ないのだから。どうして忘れる事が出来ようか。忘れられたら一番良かったのであろうが、だから、これは俺の我が儘なんだ。
もしも俺がセイバーを想っているのと同じくらいにセイバーも俺を想ってくれているのなら。 あれだけ言ってもまだ、俺の事を忘れられないというのなら。
自分はそれに縋り付いてしまうかもしれない。主のもとから逃げ出して愛しいあの子の手を取りどこか遠くへ。なんて甘美な罠だろう。駄目だ、駄目だ、駄目だ。そんなことを考えてしまっては。
狂おしい程の熱に乱される。彼女の存在が俺の槍を迷わせる。俺は真っ先にセイバーを倒さなければいけない。俺には果たすべき使命がある。
殺すのだ、彼女を、この手で。
「次に会った時は覚悟しておけ、セイバー」
決意の為に呟いた言葉は存外に小さく頼りなく、弱々しく夜の闇に消えていった。
「………セイバー…アル、トリア」
呼び掛けても返事など返って来る筈は無い。吸い込まれそうな黒をした夜空は沈黙を決め込んでいる。それでもその名を呼ばずにはいられなかった。遠く煌めく星たちだけが俺の声を聞いていた。
どうか今だけは。 今夜だけは、彼女の為に泣いてもいいだろうか。 墜ちていく。溶けていく。 声にならなくなっていく。
嗚咽を上げながらこの頬を拭った細い指を思い出した。 俺の記憶から、彼女に関する全てが、溶けて無くなってしまえばいい。この想いを流してしまえたらいい。
そんな願いを嘲笑うかのように、空には綺麗な月が燦燦と輝いていた。
一晩かけて愛を埋葬
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