※物語の根幹に関わる部分の捏造注意
「何時からだ」
ソラウが身嗜みを整えるのを部屋の外で待ってから、入室を許可されたケイネスは尋ねた。 彼女へ贈る筈だったケーキは落とされ、踏み潰されて、繊細に飾り立てられたクリームも色鮮やかなフルーツも台無しになってしまっていた。
「何が?」 「とぼけないで欲しい。先程のような事をしているのは、いつからだと聞いている」 「・・・・・・貴方と初めて会った日の夜から、かしら」
まるで昨日の夕食のメニューでも思い出すかのように少し考え込んでからソラウは言う。
その言葉を聞いた瞬間、ケイネスは頭を抱えた。
……嘘だと言って欲しかった。
自分は今まで一体どれだけ彼女の傍にいたというのだ。あの日から、何年も何年も、ずっと彼女だけを見ていた筈だ。
それなのに気付いてやれなかった。
彼女を幸せにしたいなどと、どの口が。 馬鹿の一つ覚えのようにただ会うだけで満足していた。何も成果など無かった。ソラウはずっと酷い目にあっていた。
吐き気を覚えて、目が眩んだ。いつだって自分を完璧だと思っていた彼が自らを憎いと思うのは、これが初めての事であった。
「君は、それでいいのか」 「いいも何も、こうある事が私の役目だもの」 「そんなのは……!そんなのは間違ってる!」 「じゃあそう言う貴方に、私をどうにかできるのかしら?」
やっと搾り出した言葉も軽くあしらわれてしまう。ケイネスは、冷めた瞳で問い掛けるソラウに返す言葉を持たなかった。
自分では恩師である彼女の父を止めることなど出来ない。こんなのは、当主の立場を有利にするために、旧家なら受け継がれていてもおかしくない常套手段。政略結婚の延長のようなもの。 ケイネスとソラウは婚約を交わしただけの間柄であり、まだ婚姻には至っていない。余所の事情に口を挟んだところで普通相手にしては貰えないし、最悪の場合婚約を解消され講師の座すら取り上げられるだろう。
まさに打つ手無し。
彼女とこのまま連れ添うには諦めるしか無いのか、とケイネスは歯を食いしばる。 肌を焼くような沈黙が部屋を包み、時計の針の音が大きくなる。先程引っ込んだ冷や汗が再び額から流れ始める。
「そう。出来るわけないのよ。お父様から逃げることなんて」
何も言わなくなったケイネスに対してか、空に向かっての独り言かはわからないが、ソラウがそう呟いた。
その言葉にケイネスが顔を上げる。
愛する彼女が悲しい顔をしているように見えた。 まるで自虐するように、哀しく笑っているように見えた。
気のせいかもしれない。光のせいや、角度のせいで、たまたまそう見えただけかもしれない。 けれど、そんなのはわからない。
ただそれだけで、彼には充分だった。
彼はずっと、愛しい人に、ただ明るく笑っていて欲しかったのだから。
若き魔術師は心を決めた。
「日本に逃げよう」
我ながらよくもまあ、とんだ妙案を思い付いたものだとケイネスは思う。 目を見開いたソラウは彼が言う言葉をまだ理解していなかった。
「もうすぐ日本のフユキと言う町で魔術師同士の戦争が行われる。私はそれに参加しよう」
「何を──…」
彼女が口を挟む間も与えない。喋り初めてしまえば思い付いた『計画』は止まらない。彼は、伊達に時計塔の講師を務めているわけでは無かった。
「そこまで行けば君がこんな目に合うことも無いだろう。お父上だって納得する筈だ」
「何のメリットがあるというの?私はこのままの生活で満足しているわ」
嘘だ、と思った。 そんな満足は偽物でしかない。彼女はそれに気付かないフリをしているだけだ。
けれど自分には強がりな彼女を咎めることなんて出来ない。
「ただの私の我が儘だよ、ソラウ」
気が付くと、今まで触れた事もなかったその体を、驚くほど自然に抱きしめていた。
柔らかい体が腕の中に収まる。 例えその心が凍えていようと、放つ言葉が冷たかろうと、こうして抱きしめてしまえば彼女はとても温かい。 つまり彼女は氷でも道具でも無くて、しっかりと血の通った温もりのある人間なのである。その身を人で無いように扱う事が許されるわけが無い。 彼女は、こうして生きているのだから。
「私について来てくれないか」
「……」
「魔術師同士の競い合いに私が負けるわけなどない。聖杯を手にした暁にはお父上だって更に私を認めてくれるだろう」
魔術師の夫が戦いについて来いと言うならばそれに従うのが妻の役目である。ケイネスの婚約者として育てられたソラウに、彼の申し出を断る権限などそもそも無いのだ。ケイネスはそんな二人の関係を利用して、ソラウが断れない事を知りながら、それでも問うた。ついて来てはくれないか、と。
彼が言っているのは聖杯戦争の事なのだろう。彼女は小さな頃に叩き込まれた知識を思い起こす。 六十年に一度冬木に現れる聖杯を奪い合う戦い。決して生半可なものではない。町は壊れ、死者だって出る。彼ほどの希代の魔術師ならば勝ち残る事も可能だろうが、危険と隣り合わせである事に変わりは無い。
始まりの御三家の悲願である聖杯の根源への到達、もしくはその聖杯が持つ願望器としての能力。その熾烈な戦いに魔術師達が参加するのは、そういった目的の為である。
聖杯の成就などに興味は無いだろうし、聖杯にかける強い望みも持たないだろうケイネスがその戦いで得るものは、更なる名声や地位ぐらいのものだろう。 そんな百害あって一利なしの戦いに、彼は、一人の女を救う為に身を投じようと言うのだ。
本当に、この人は──…
「馬鹿ね」
笑っちゃうくらい。
「ああ、馬鹿でいい」
……そこは怒るところでしょう。
目の前の薄くて頼りない胸にそっと額を寄せる。抱きしめる腕が僅かに震えたような気がした。 彼は洋皮紙とインクと整髪剤のにおいがした。それはあまり得意な香りではなかったけれど、この顔を見られたら困るから。私のなかにある何かが崩れてしまうから。
「私、性格悪いわよ」 「うん」
ぽつり、ぽつり。
「きっと貴方に迷惑をかけるわ」 「いいんだ」
落とした言葉にケイネスがひとつひとつ答える。
「貴方の事なんてこれっぽっちも好きじゃないし」 「知っている」
優しく、受け止めるように、受け入れるように。
「全て終わったら結婚しよう。君は私の屋敷で暮らすんだ」
既に婚約が決まっている人への、形だけのプロポーズ。 その時ソラウがいったいどんな顔をしたのか。 どんな気持ちでその言葉を聞いたのか。 それは、誰も知らない。
「別に、感謝してるわけじゃないわ」
けれど。
「……でも……ありがとう。」
消え入るような声で彼女が言ったその言葉は。 作られた個性でも、偽物の愛の言葉でも無く、 まるで二人が初めて会った日の言葉のように、 清らかに透き通った真実だった。
(むかしむかしのはなし) (今度は私が君を守るよ)
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