その手はひどく冷たくて、まるで真冬に触れているみたいだ、と思った。
彼の手の下で自分の鼓動が必死で喘いで、みっともないくらい生きたいと、伝えている。
彼の恍惚に光る眼がこちらを映してにやりと笑うのを、私は見る。
何が起こったのか、そしてこれから何が起こるのか分かってしまった。だけど恐怖とそれでもすきだと叫ぶこころがないまぜになって、彼を突き放せない自分に、どうしようもなく嫌悪した。



「わたし、は、」


私が見たかったのはこんな夢じゃない、








しあわせになろうね、と彼女の小さな口が大きく笑って、そう動いたのだけは覚えている。
同じ孤独を知る、そしてその痛みを互いに共有している自分達だからこそのしあわせだ。ふたりにしかわからないそのしあわせを口にしたあと、彼女は確かに気恥ずかしそうに笑った。
その後の自分の声を思い出そうとしたって、どうしても歪んでしまう。だからその後自分がなんと言ったか思い出す術はない。
けれど歪みきって途切れる刹那、彼女の短い悲鳴と共に自分の声が、きこえた。

「しあわせになれるだなんて、思うな」

その声を復唱して、ほんとうに自分の声なのだろうかと疑う。
思い出したその声、確かにそれは自分のものなのだろうけれど、怖いくらい残忍で重くて、その声の裏を何重もの劣情が被っているような、聞いていてぞっとするような声だった。
記憶の中の声を聞いて、自分に何が起こったのかはすぐに分かった。だからいま、自分が置かれている状況が理解できない。
なぜ自分の目線の先に死武専の保健室の天井があるのか、よくわからない。オキシドールのにおいが鼻につく。
手を掲げてみても包帯どころか擦り傷さえない、強いていえばなぜか背中が痛いくらいで、どこも悪くなんてなかった。
俺がこんなことになって、心身がいちばん傷ついているのは、きっとマカだろう。俺がこんなふうになったとき、いつも止めようとして彼女はぼろぼろに傷つく。不必要なくらい優しくて、脆いマカならきっと、また背負い込んでいるはずだ。
マカはどこかと、体を起こして辺りを見回したけれど、彼女の姿はどこにもない。
探しに行こうとベッドから降りようとしたその時、ドアがノックされた。
こちらの返事を待たずにドアを開けた赤髪のデスサイズは、洗面器とタオルを持ったままこちらを見ると、「起きたのか・・・どこ行くんだ」と低い声で聞いた。
「マカのとこに・・・エロオヤジ、マカどこだよ」
俺を介抱してくれていたのだろう。だけどこんなときはいつもマカが、だから余計、気になった。
デスサイズは厳しい目でこちらを見て、「ちょっと座れ」とベッドに戻るよう言った。
デスサイズはベッドサイドのテーブルに洗面器とタオルを置いて椅子に座ると、こちらを見ながら「今お前にマカを会わせることはできない」と、奴にはちっとも似合わない、真面目な声で言い放った。
「はあ!?どういうことだよ!」
それを聞いて、自分の眉間に皺の寄るのがわかる。
つい大きな声を出したけれど、デスサイズは動じていなかった。
「・・・もう四日前の事になるな。マカから死武専に連絡があった。・・・自分に何が起こったかわかるか?」
「・・・黒血だろ」
俺の中の黒血は、日に日に狂気を増幅させていた。
それがあの日(もう四日前になるという)におそらく暴走したのだ。それをきっとマカは止めようとしたのだろう。
「その黒血が、マカを傷つけたんだ」
「・・・・・・」
その言葉を予想してはいたけれど、聞いてやっぱり胸が痛む。
幾度となく彼女を傷つけてしまったけれど、何度聞いても慣れはしない。慣れてはいけないと、思う。
「でも、だから俺はマカに謝らないと、せめてそれだけでもしないと、マカは苦しんでるんだ」
パートナーとして、そして人として悪いと思ったらいつも謝ってきた。いままで見てきた彼女の傷ついた姿を思うと胸がはち切れそうだった。どんなにどんなに、彼女は苦しんでいるだろうか。
デスサイズは一瞬躊躇ったように目を逸らしたけれど、またすぐこちらに向き直った。その目に浮かぶのは同情と憐憫と、そして明らかに、軽蔑だった。
「・・・いいか、ソウル。よく聞け。お前は頭イカれてる野郎がやるみたいな最低なことを仕出かしたんだ」
ぱきり、と氷が割れるような、冷たい目だった。ぞっと背筋が凍る。
酷く辛そうにデスサイズは声を絞り出す。

「・・・お前はマカを犯した」




一瞬、何て言われているのか、よくわからなかった。
ただ言葉だけが意味を成さずに体の中で反芻して、理解したのは数秒あと。
「・・・・・・え?」
それだけしか言えなかった。酷く間抜けな声だと、自分でも思った。
鳩が豆鉄砲くらったような、(それよりもっと凄惨な、)そんな顔をしていたような気もする。
突然告げられた、想像もしていなかった言葉に驚いて疑問しか出なくて何も言えなかった、ただそう言ってはこれはただの誇張のように思う、本当はただただ、放心して何も考えられなかっただけだ。疑問すら、湧き出やしない。
小さく声を上げたきり何も言わない俺にしびれを切らしたのか、「おい」とデスサイズが乱暴に呼び掛ける。
はっと気づいて、デスサイズの方を見る。眉間に皺を寄せて、怒っているような悲しんでいるような、そんな顔でこちらを睨んでいた。
「嘘だろ」
当たり前にその言葉が口をついた。
信じられる訳がない。黒血のことがあっても、俺はマカを大切に思っていたはずだ。そんなことは決して、マカにトラウマを植え付けるようなことは決してしない。


と、思いたかったのに。
「・・・背中」
「はあ?」
「てめえの背中を見てから、言え」
保健室の中は、手洗い場にしか鏡がなかった。その前まで行って、着ていたTシャツを脱ぐ。
鏡に映るのは紛れもなく俺の背中、その首元から両方の肩甲骨の下にかけて、赤黒い線が三本ずつ伸びる。
デスサイズの話を聞いた後なら、わかる。この線をつけた、この引っ掻き傷をつけたのが紛れもなく、マカだということ。
「・・・嘘だろ」
さっきと同じ言葉を、今度は全く別の意味で発した。
デスサイズは激昂することもなく、俺に飛び掛かることもなく、ただベッドサイドの椅子に俯いて座っていた。
よく自分で告げられたものだと、尊敬さえしそうになる。自分の大切な大切な娘を犯した、しかもそれは大切な大切なパートナーだ。俺なら、俺ならきっと、


そこで思考を止めた。それは俺の言えることじゃない。

ひどく頭が重くなる。なにも考えられなくなって目を閉じた、だけどただ、背中の痛みだけが間違いなく真実だった。





***




ひとりどこかに隔離されるでもなく、かといって人が会いにくるわけでもなく、一日一日が、ただカレンダーをめくるみたいに過ぎてゆく。保健室から外出は許されず、室内の会話はカーテンの中から聞くだけだ。同級生どころか、あの日以来デスサイズまで来なくなった。
だから考える時間はそれこそ嫌らしいくらいにあって、そして俺がデスサイズに言われて、そして確かめた事実について、考えないはずがなかったのだ。
愛のために彼女を抱いたわけではないことは、もう解っていた。デスサイズが『犯した』と言ったくらいだから、きっと彼女を酷くぼろぼろに傷つけたのだろう。恋人はできたことがないといつか聞いたことがあったから、おそらく処女だったと思う。

俺はあの日まで、彼女にキスをしようと思ったことすら、ないのだ。そもそもすきだなんて、考えたこともない。彼女は俺の中で友愛や信頼の対象であっても、決して、愛情の対象ではなかった。
なのに、俺はどうして彼女を抱いたのか、大切な大切な、けれど愛情を持たない、彼女を。
そもそも両親の崩れそうなプライドと大きな家の看板のせいで、愛情らしい愛情を受け取らなかった俺が、それを持つなんて冗談が過ぎる。滑稽すぎて悲壮感さえ感じてしまうのに。
しあわせになろうね、彼女があの日言った言葉を小さな声で反復した。それも滑稽すぎて悲壮で、笑うしかなかった。




***




「マカがお前に会いたいと言ってる」
久々に人に会ったような気がする。ドアの傍にデスサイズは立って、ぶっきらぼうに言い放った。
「・・・いいのか?」
「仕方ないだろ・・・マカが会いたいって言ってるんだから」
彼女に俺を会わせていいのかと、俺が思うくらいだ。デスサイズが反対しなかったわけがない。
それでも、こうしてデスサイズが言いに来るくらいなのだから、余程引き下がったのだろう。

彼女が、会いたいと言っている。
わかった、とだけ言って立ち上がる。デスサイズは感情もなく、至って事務的に、俺を案内する。
最近一般の病室に移されたばかりなんだ、とデスサイズは聞きもしていないのに勝手にそう話した。死武専に入院施設があることは知っていたけれど、そんな何室も分けられるくらいあるとは知らなくて、多少驚いた。ただデスサイズはそこで口を閉ざしてしまったから、何の病室から移されたのかは解らなかった。どうでもいいと思った辺り、完全に色々な事を考えすぎて麻痺している。いくらなんでも、パートナーがどんな病状かくらい気にかけるものだ。どうでもだなんて、そんなことを考えてのける自分が気持ち悪くて吐き気がした。急に自分は加害者だと解ってしまったみたいで、恐ろしい。

彼女の病室へは案外早く着いた。保健室とそれほど離れていないことに驚く。いくらなんでも無用心じゃないか、そんなことさえ思った。
デスサイズが、ドアを開ける。カーテンが引かれていないようで、室内から射す外の明かりが目に染みた。
白い、病室を見て、まずそれを思った。清潔感のある、綺麗な白だ。だけれどだからこそ、病的なものすら感じてしまう。人間味が全く、ないのだ。
「マカ」
デスサイズが彼女を呼んだ。こちらを振り向いた彼女に合わせて、キャラメル色の髪が揺れる。見覚えのある色だ、そして一瞬あとに追いつく、綺麗な綺麗な翡翠、

違和感を、感じた。
その瞳の色はいつも見ていた、あの翡翠だ。なのになぜだか、違って見える。まるで一枚靄を被せたみたいな、そんな瞳。
まるでこの病室のような、まるで人間味の無い色。絶望、失望。そんな言葉が頭をよぎった。
そしてそれよりも驚いたのは、それを見た自分の、気持ちだ。
その目を見て、沸き上がるのは悲しみでも憐憫でももちろん怒りでもなくて、喜び、だったのだ。
「ソウル」
マカがこちらを見た。その目はやはり霞みがかっている。

ぶつり、音がする。
そうだ、と思った。なぜ彼女を、ずっと思っていたその理由がなんでもなく、解った。ごく自然に解ってしまったのだ。


俺は彼女を、絶望させたかった。あいつは俺と同じ絶望を知ってる、なのにそれなのに、しあわせになろうだなんて、しあわせだなんて意味のわからないことを言うから。
俺は、知らしめてやりたかったのだ。しあわせなんかになれやしないと、俺と同じなのに希望にあふれた彼女が許せなかった。
だから俺は、絶望で希望を無くした彼女を見て、喜びに満ちたのだ。ああこれでやっと、彼女も。

彼女は立ち上がって、こちらに近づいてくる。「マカ!」とデスサイズが制止したけれど、マカは何も言わず、ただ歩みだけは止めないで、こちらに向かってきた。
「ずっと考えてた」
彼女は俺から数歩前で止まると、そう言って話し出した。
「何でだろうって、ソウルは何が厭で、私を犯したのか、ずっと考えてた」
彼女は霞んだ瞳でうすく微笑む。
「夢を見てたの、」
その言葉が耳に届いた時、なぜだかひやりと、空気が冷えた気がした。
「私は夢を見てた、こんなにも絶望を知って、孤独に塗れて、今でもトラウマに泣くのに、しあわせになりたいだなんてどうかしてる。ソウルに傷つけられて、やっとわかったの」
彼女は俺の目を見た。次に発せられる言葉がきっと、俺が一番、望んでいた言葉だ。
「私達はしあわせに、なれやしない」

ああ、声が漏れるかと思った。そうだ、俺達はしあわせなんかになれやしない。俺とお前は、きっとずっと一生。
ひとを愛することさえ、可笑しくて笑ってしまいそう、無理なのだ。
「ソウルは諦めの悪い私が厭だったんでしょ?だからこんな事をしたんでしょ?」
彼女は俺の考えている事が解るのか、笑んで言った。
「私は、ソウルをすきだったけど、ソウルがそうじゃない理由も分かった。だから、もうそんなことは思わない。思いやしない。だって私とソウルが恋人になったところで、未来なんか見えやしないから」
彼女は笑う。
きっとその気持ちも幻想だったのだと、彼女も思ったのだろう。彼女はらしくないくらい、現実と明らかな未来を、みている。
気づいていた、彼女が俺に好意を向けていた事を知っていた、だから犯した。余りにも愚かしかったから、滑稽で、許せなかった、俺には彼女の言うしあわせが解らなかったから。
だけどそんな夢見がちな彼女がいま俺のように完璧に絶望をして諦めをつけて俺のようにひとを愛する事を打算と明らかな観測で無駄だと笑うようになった、幻想を信じられるほど彼女はもう、夢を見ない。お得意のそれが顔を出す前に理性が忠告をして彼女は、もう二度と、そんなものは見なくなる。
自分の顔がこれまでの人生の中で一番というくらいに、笑顔になる。どうして彼女を引きずり込みたかったのかどうして彼女が自分と同じでないのが厭だったのかどうしてそんな彼女に見切りをつけずにわざわざ手引きまでしたのかどうして、ああもうそんなことはどうだっていい、彼女がやっと絶望したのだ、俺と同じになっただからこの上なく俺は嬉しくて、だから未来が見えないと言われたときの吐き気もすきでないと言われたときのこの胸の血が出るような痛みもぜんぶぜんぶぜんぶきっと気のせい、













「ソウル」
相変わらず霞んだ翡翠でこちらを見る彼女が俺の頬に手を伸ばす。







「どうして泣いてるの?」


















理性が先走って彼女は夢を見ることをしなくなった







(だってだって今更だ俺がそう仕向けたんだなのに今になって気づくだなんて滑稽で滑稽で滑稽で、)













(わらえる)















***

月夜さんから相互記念で頂きました。

なんと私がこの間書いたヤマアラシのジレンマの続きの小説らしくて超テンションが上がりました!(この興奮は長いおメールでちゃんと返信済みです)
月夜さんの暗くてどうしようもない可哀想ソウマカ文には及びませんが(褒めてるのかなんなのか)、重ねて見て頂けると面白いんじゃないかなと思います!

本当にありがとうございました!
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