素直になればいい
縁談の話を貰ったのは、つい最近のこと。持ち掛けてくださったのは幸村が心酔している主・武田信玄その人であった。
それ故に幸村には、【縁談を断る】という選択は無い。
彼を良く知っている人間たちは、誰もがそう思っていた。
それは縁談を持ち掛けた信玄すら思っていたことである。
「その縁談、丁重にお断り申し上げます」
深々と頭をさげ畳に額をつけ、幸村は信玄に拒否の言葉を述べた。
目を見開き唖然と見つめる信玄の小姓たち。
そんな中、静かな沈黙と重々しい空気が充満していきそれに耐え切れぬ小姓たちは小刻みに震えた。
静かな沈黙を破ったのは、静かな声だった。
「何を馬鹿な事言ってるの?」
その声は誰も居ない筈の―――幸村の背後から聞こえてきた。
ふと、信玄が視線を上げると先ほどまで誰も居なかった其処には一人の迷彩色の服を身にまとった忍びの姿があった。
「幸村の旦那、あんた馬鹿?折角大将がアンタの為にゆくゆくは真田のためになる縁談を持ち掛けてくれたっていうのに。断る理由なんぞ無いでしょうが」
主君に対する言葉にしては、とても乱暴な云い方。
だけど何処か泣きそうな声。
その声に反応するかのように幸村はゆっくり上半身を上げると、視線は信玄に向けたままゆっくり立ち上がった。
「何?アンタは何がしたいの?!」
昂る感情を抑えきれず込み上げる想いをそのまま口にして吐き出す忍びに、幸村はゆっくり手をあげる。
そして視線は信玄に向けたまま忍びの橙色の髪に手を添え、忍びの頭を自分の胸元に引き寄せた。
ぐきっ
間接が鳴る音が聞こえたと同時に忍びは呻き声をあげたが、幸村は気にもせず信玄から視線を離さすことなく。
ゆっくり深呼吸をして、口を開いた。
「某には、幼少の頃から傍に居て守り続けてくれた大切な存在がおります。それはとても素直ではなく某のためにとお館様まで巻き込んで、このような無粋な事をしでかす大馬鹿ものです。お館様が佐助に頼まれ、某のような若年者にこのような名誉な話を持ちかけてくださった事は存じております。しかし、某は……此処にいる佐助以外を娶るつもりは毛頭ございません」
淡々と、だが芯が通っている声に信玄は笑いを噛み殺しながら耳を傾けていた。
信玄の視線の先には、幸村にがっちり頭を抱え込まれ逃げようとしても逃げられない佐助の姿があった。
耳が哀れなほど真っ赤に染まっている。それは、尚更信玄の笑いをかき立てる。
「……成長したのお、幸村。そして、いい加減あきらめてしまえ佐助」
信玄の言葉に、ぱっと表情を明るくする幸村。
対照的に、佐助の表情はだんだん暗くなってくる。
大きく成長を遂げた幸村の腕力には到底かなわないと諦めた佐助は、彼の腕の中で小さな小さな声で呟いた。
「……誰がこんな子に育てちゃったんだよ。忍びを娶るって…前代未聞だよ」
「お前じゃろうが、佐助。往生際が悪いぞ諦めい!」
「……俺様だけじゃないでしょ。大将の影響だって受けたんだから!」
「よく言うわい!お前が自分好みに育てた結果じゃろ!」
真っ直ぐ成長してしまった若武者に、どうやら捻くれた忍びは敵わないようだ。
やれやれと諦めた忍びは開放されると同時にその場に座り込み、三つ指立てて恭しく頭を下げた。
「ふつつかものですが……宜しくお願いします」
佐助の言葉に幸村は素直に受け取り喜んだ。
その様子を見守っていた信玄は、我慢できなくなったのか噴出し笑い出した。
prev bkm next