スタンディング・スタート
 凄まじい熱気の籠った会場内、今まさに、圧倒的だった下馬評を覆さんと奮闘する黒と赤のアウェイユニホームに身を包んだ選手達を、黄瀬は声を涸らして応援していた。
 バスケットボール世界選手権、予選ラウンド最終日の今日、日本は予選同グループに組したスペインを相手に、獅子奮迅の戦いぶりをみせていた。
 試合前の大方の予想では当然、苦戦もせずにスペインの勝利であろうと言われていた"消化試合"が、このような劇的な展開になるとは誰も想像し得なかった。
 引き離されては食らいつき、点差を開けられては猛烈な勢いで追いつく。そしてとうとう試合は同点の状態で40分を終え、延長戦へと突入していた。
 スロースターターとも言われるスペイン代表が、大会予選で思わぬ苦戦を強いられる事は決して珍しい事ではないが、しかしそれでもやはり欧州最強の名を冠するチームは今大会でも盤石の強さを発揮し既に予選突破を決定している。
 反して日本は、この試合に負ければ予選敗退が決まるまさにがけっぷちの状況であった。
 そのようなモチベーションの差やチームの調子など諸々の事情があったとはいえ、日本チームがここまでの戦いをするとは、と多くの関係者達が目を見張り、手に汗を握って試合を見詰める。
 スペインは今回、自国開催である。会場の大半を埋め尽くす白赤のスペインサポータを前に、いくら消化試合とはいえ負ける事などは許されない。それも日本相手になど、格下もいいところだった。
 白熱の延長戦は、第一ピリオドでも決着がつかず第二ピリオドまで縺れ込む。


 各大陸選手権、又は近年の国際大会にて優秀な成績を収めた各国代表チーム24チームが参加して行なわれる、FIBAバスケットボール世界選手権は、まず4グループに分かれての総当たりの予選を行なう。
 そのグループゲームラウンドにて、勝ち点の高い順に各グループから4チームずつがベスト16としてノックアウトラウンドに進出し、そこからはトーナメント戦で決勝までを争う。
 今回の世界選手権開催国はスペイン、バスケ強豪国らしく熱の上がった各会場内でも、一番の盛り上がりを見せているのがバルセロナのパラウ・サン・ジョルディ屋内競技場であった。自国スペインの所属する予選グループDの予選会場である。
 バルセロナ五輪開催に合わせて建設されたこのスペインを代表する屋内競技場は、あまり知られていないが日本人の設計によるものだ。独特な屋根と観客体感型のスタンドを持つ美しい競技場は、今怒号に溢れている。
 窮鼠猫を噛む、このスタジアムにいるほとんどの人間が知らぬその日本の諺を、会場内に居るたった何割かの日本人は一様に思い出していた。
 鼠なんかには到底見えないが、この場合はどうあろうと"格下"である立場の彼が――褐色の四肢の彼が、コート内を伸びやかに鋭く、空を舞った。
 汗をほとばしらせながら24秒ギリギリにリングに叩き付けられたボールは、勢いを殺さずドンと床に盛大に跳ねてスタンドの中へと入り込む。
 延長第二ピリオド、4分台を経過しての追加点だった。同点で膠着状態にあったところへ、掲示板への加点が為され数字は2点差となる。この試合たった3度目の、日本のリードであった。
 一拍の静寂の後、凄まじい歓声に場内は包まれる。チームの不甲斐なさにあがる怒鳴り声に、チームの奮闘に感動と期待の雄叫びをあげる声。対称のふたつの響きを一身に引き受けながら、褐色の長い腕で小さくガッツポーズをつくった青峰は、真っ直ぐにスタンドの一所を見詰めると、鼠では到底有り得ない、猛獣の笑みで笑った。
 その視線の先にいた金髪の男は、その容姿に見合わぬ男臭さでニッと笑うと拳を掲げて笑い返す。直ぐさまリスタートするゲーム、あと30秒足らずを、瞬きを忘れ刮目して黄瀬は目撃した。
 いや、黄瀬だけではない。バスケに関わる多くの人間が、目撃した。
 人の声に掻き消えたバッシュの擦れる音を黄瀬は確かに聞きながら、ボールの行方を追う。残り10数秒で勝負を仕掛けたスペイン6番のダンクを、モーションに入った段階で紫原がブロックする。3Pラインまで弾かれたそれを競り合いで拾ったのはスペインだった。咄嗟にディフェンスにつく火神をすり抜け2Pシュートではなく逆転の3Pにかけたその選手は、一歩下がってラインを跨ぎ、力の入ったショットを放つ。
 ブザーが鳴る。会場内の全ての目がそのボールの軌跡を追った。
 綺麗な弧を描いた軌道はしかし、火神のプレッシャーにより僅かに崩れたボディバランスの影響を直に受けてほんの僅かコースを外れると、赤いリングにガンッと弾かれた。
 舞い上がった天然皮革のボールは、ネットを潜らずコートの端に跳ね落ちた。
 ――歓喜と、落胆の瞬間に、誰もがリバウンドに向かわず放置されたボールは会場の端に転がっていくともうその存在を忘れ去られた。
 一瞬前まではすべての注目を集めていたバスケットボールは今は、黒赤のユニホームへとそのお株を奪われている。
 一帯が震えるほどの、大歓声が湧いた。

 豪快なハイタッチを火神と交わしその勢いの侭胸板を痛いほどの力でバンと合わせ合って、コート内でしばしチームメイトと喜びを分け合った青峰は、徐に振り返るとその歓喜の輪から一歩二歩と離れていった。
 予想外の大番狂わせに熱気は最高潮だった。多くのメディアが競って黒赤のユニホームをそのフレームに映そうと群を成している。
 その人波から数m離れて、青峰は立ち止まった。観客との距離が近いこのスタジアムでは、近付こうと思えば触れ合えるほどの所まで迫る事が出来た。
 思わぬ所で近距離に選手がやってきた事で、周辺が俄にざわめく。
 多言語で、青峰を賞賛する声や、最後のあのダンクを悔しがる声が寄せられた。その中で、黄瀬が驚いたように目を見開いている。

「よお」
「え、あ、おつかれ!」

 この試合を観戦に来る事は事前に知らせていたし、選手入場して直ぐに目が合った事から青峰が黄瀬の存在を認識していることは分かっていたが、試合の興奮冷めやらぬこんな直後にやってきてくれるとは思っていなかった。
 そんな様子の黄瀬に、ふっと笑った青峰があのダンクシュートを決めた直後のように、拳を掲げて近付けた。
 それを見て、その拳が爪が白むほどに握りしめられている事を黄瀬は知る。不遜な笑みを浮かべていようとも、青峰とてこの激戦に様々に思い、今まさに心を一杯一杯にさせているのだ。
 黄瀬の心にも、同様に多くの思いが溢れ返る。拳を作って、掲げる。黄瀬のそれは小さく震えていて、抑えられぬその震えを自覚したとき、黄瀬は思わず涙を流しそうになった。
 しかしそれは我慢して、笑う。心に溢れた思いの中の、喜びや感動や祝福の部分だけを抽出して、凝縮して笑う。
 コツン、と優しい力で合わさった拳。
 ジャイアントキリングを演じた日本代表は、史上始めて、バスケットボール世界選手権にて予選突破を果たした。



 今大会、決勝戦と並ぶ一番のドラマだった日本のスペイン撃破の勢いはしかし、ノックアウトラウンドを勝ち進むまでには及ばなかった。
 ベスト16にてフランスと対戦した日本は、一時は20点以上開かれた点差を追い上げどうにか食らい付いたが、結局勝利はならず、敗退となった。
 しかし、日本の戦いぶりは記録には残らずとも鮮烈な記憶として人々の脳裏には焼き付けられた。
 決勝戦に青峰と黄瀬は揃って観戦に行ったが、その時も、青峰は周囲の観客達に気付かれ口々に激励の言葉をかけられていた。大会前では青峰のことを知っている者等、相当にディープなバスケファンくらいであっただろう。そこから比べればそれは劇的な変化であった。
 決勝戦は、マドリードのエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウにて行なわれた。
 普段はサッカーチームのレアル・マドリードがホームスタジアムとするサッカー専用の競技場なのであるが、今回特別に屋内競技用に会場設営されての開催だった。
 バスケットボールの試合としては、史上最多観客動員数を記録したその試合は、下馬評の通りアメリカ対スペインの対戦となった。
 凄まじい攻防を繰り広げた両国。NBAオールスターの揃ったドリームチームとも言われるアメリカに対し、スペインとて負けず劣らず、登録選手の半数以上がNBAで活躍する選手達あり、そしてACBを象徴する選手達だった。
 一進一退のドラマティックな試合展開は、追い越し追い越されを繰り返しリードの安定しないまま終盤へと縺れ、アメリカチームの今大会最多得点王の選手がファウルトラブルでベンチに下がったこともあり、その天秤は最後の最後にスペインへと傾いた。
 自国開催の今世界選手権にて、見事優勝を果たしたスペイン代表は、ベルナベウスタジアムの美しいアーチの中央でジェームズ・ネイスミス・トロフィーを掲げた。
 予選から決勝まで、計9試合を戦い抜いたスペインの戦績に、唯一の黒星をつけたのが日本だった。

 決勝戦を、関係者席の一角で観戦した青峰と黄瀬のふたりは、目の前で繰り広げられる壮絶な戦いに試合中一言も言葉を交わす事なく見入った。
 地力では勝るアメリカ相手に、スペインは技術や戦術だけでは片付けられない底力を発揮して食らい付いた。そして、延長の末にとうとう勝利をその手中へと収めたのだった。
 コート上に立つ選手ひとりひとり、その全てが、まさに世界最高峰のクオリティを持った者たちであった。
 ここが、青峰が挑み目指す世界だ。
 武者震いで鳥肌を立てた青峰は、スタンドの一席でそれはそれは獰猛に笑った。
 未だ自分たちは、あのクオリティのチームに対しては"奇跡"でも起こさない限り勝つ事は出来ない。しかも、その奇跡を起こしたとて、勝率は10回に1回転がり込んでくる程度だろう。
 それを、"実力"に落とし込まなければならない。これからの、課題だった。
 しかし、その高い壁の課題に彼が臆すことなどないということを、黄瀬は隣に座しながら理解していた。
 嘗て若い頃の気力を失った笑みからは想像もできないようなエネルギーに満ちた顔で、青峰は表彰式の途中で立ち上がり会場を後にする。
 自分ではない誰かがトロフィーを掲げている光景など、青峰には僅かの意味も持たないのだ。

 8月の下旬から2週間ちかくをかけて行なわれた大会も無事終了し、数日のスペイン・フランス滞在を終え青峰はアメリカへと帰っていった。
 青峰・紫原以外の日本代表メンバーは一足先に日本へ帰国しており、実は選手たちは日本にて帰国会見が予定されていてそのふたりも帰国を言い渡されていたのだが、わざわざ日本までいく事を面倒くさがったふたりは勝手ながら現地に居残ったのだった。確かに紫原などは特に、現在暮らす地がスペインなだけあって会見ひとつのために帰国するなど馬鹿らしい事この上ないだろう。
 紫原・青峰・黄瀬に加え、現在イギリス在住の赤司を加えての久しぶりの再会を果たした面々は、オーソドックスにスペイン・フランス観光をしながら、それぞれの現状を報告し合ったりバスケの話をしたりと、それなりに充実した時を過ごした。
 しかしそう長くゆっくりも出来ず、青峰と紫原はすでに来季シーズンへ向けてチームの始動も近付いてきていたし、赤司も大学や会社と忙しい身の上だ。黄瀬も、この時期は立て続けて各地でファッションウィークが開催される頃であり、4人は数日行動を共にしたあと、それぞれの地へと解散していった。



 ブルックリンでの一年目は、出場機会も乏しく、ベンチを温めることの多かった青峰も、二年目になってからは次第に出場のチャンスを多くしていき、二年目シーズン終盤にはチームに外せない戦力として存在感を増していっていた。
 移転や新編成を組むなど、大胆なチーム変革を行なったチームにおいて、最初の数年とはとても需要なものとなる。スタジアム建設や移転などにより、多額の予算を使い切ったチームには、大型の補強を行なう等の資金力は数年は叶わない。初年度に集められたメンバーを土台として、その土台からの底上げを行なっていかなければチームは一気に下位へと転がり落ちる事になるのだ。出来るだけ早い段階にて"優勝"という分かり易い結果を出す。そのことが、同じニューヨークにNBAを象徴する超人気クラブを抱えたチームの、大きな課題であった。
 そうでなくてはファンも優良選手もスポンサーも、何もかもが逃げていってしまう。
 首脳陣は、変革初年度の基本メンバーの覚醒を期待していた。いずれチームを救うだろう爆発力を期待して獲得した選手も多い。オールスターにも選出されるような実力派のメンバーを多く擁しながら、しかしチームは一年目二年目と、今一歩の順位でシーズンを終えていた。最後の最後でのインパクトに欠けるのだと、あらゆるスポーツ紙は書き立てていた。
 そんなチームの――青峰のブルックリン三年目、青峰はかつてないペースでスタメンの座を獲得していた。
 世界選手権での活躍もあり、実力を改めて評価されての開幕スタメンにて見事結果を出した青峰は、以後も順調に調子を上げながらシーズンを戦っていた。
 その活躍ぶりには、多くの期待がかけられていた。NBADLにてインパクト・プレイヤーを受賞した青峰の待たれる覚醒は、チームを救う一手になると。

 そんなシーズン最中、黄瀬は仕事でニューヨークへと渡っていた。
 VOGUE Parisのニューヨークロケと、ニューヨークに本拠を置くブランドのイメージモデルとしての仕事で、2週間の滞在である。
 その間は当然ブルックリンの青峰宅に身を寄せた黄瀬は、短い間をホクホクとした気分で満喫すると、忙しくパリへと帰っていった。
 黄瀬の観戦したこの週の試合にて、青峰はNBA参戦後初の週間MVPを獲得するのだが、その原動力の存在を知る者はかつてのチームメイトのヴィルくらいであろう。
 分かり易い結果の出し方に、黄瀬とともにスタンドで観戦していたそのヴィルが、苦笑いを零していた事をふたりは知らない。
 そのようにして、濃密な2週間を過ごしたふたりはジョン・F・ケネディ国際空港の物陰にて交わしたバードキスを最後に、また海も大陸も挟んだ遠距離へと離れていった。
 あの再会を果たしてから、こうして幾度も短い別れを繰り返していくうちに、どんどんとその別れが辛いものになっていくのをふたりは感じていた。もっと一緒に、もっと近くにと、再会を積み重ねる度に欲が嵩んで行く。ふたりとも、なかなかないくらいには欲張りなたちであったから、それも当然かと寂しげな笑みを交わし合った。
 そんなことだから、普段は人前では避けるそのような接触も、ついつい、人の視線の遮られた角でとはいえ、してしまった。
 ちょん、と掠めるだけのキスであったが、そのほんの僅かな温かみに、ふたりの思いのすべてが詰め込まれている。
 アメリカもフランスも、日本と比べて随分キスに対して意識の違う国ではあったが、それでもそのキスが特に特別な関係においてかわされる"口づけ"であるということは、誰の目に見ても明らかだった。それだけ、ふたりの切ないほどの思いがそこには零れていた。
 離れ離れになってしまう、ということへのどうしようもない違和感が、またひとつ、大きくなった。このままその澱のようなものが大きくなり続ければ、それはふたりにも抱えきれぬものへといずれなってしまうだろう。そうなる前に――。




 そしてそれは、突然のことだった。

 年末へ向け冬の寒さも本格化する中、年内の仕事納めへと向け日夜撮影に励んでいた黄瀬がその知らせを聞いたのは、クリスマスを目前にしたある夜の事である。ニューヨーク滞在から半月ほどが経過していた。
 日本で所属しているモデル事務所のマネージャーからの連絡で、年明けに予定されている日本の雑誌の仕事の変更でもあったかと黄瀬はその電話になんの疑いもなく出る。
 しかし予想外に、慌てたような常にない雰囲気を電話越しに感じ何事かと構えて、冷静を欠いた相手を落ち着かせるように、黄瀬は努めて鎮めた声で尋ねた。
「どうしたの?なんかあった?」
「――――黄瀬くん、」
 黄瀬が日本で活動していた頃からの長い付き合いになるそのマネージャーは、黄瀬の落ち着いた返しにはっとすると、息を一息吸い、声を低めて突然の電話の理由を話し出した。
「週刊誌にすっぱ抜かれた。翌朝には発刊される。」
「え?」
「青峰くん、」
「――――っ、」
 その、一言で事態は把握出来た。サッと黄瀬の身体から血の気が引いていく。
 マネージャーが後に続けたたったひとつの言葉が、黄瀬の背には重く重く伸し掛かる。


「・・・・スキャンダルだよ」







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