あまやかな孤独



「芥川くん」
 彼女は僕をそう呼んだ。
 芥川くん、そう呟く唇は終ぞ動かなくなってしまった。
 彼女の細い首を力の限り締め上げ、彼女は呼吸を止めた。自分の手には彼女が抵抗してつけた爪痕が残っていた。
 彼女の腕が力なくだらりと垂れさがる。動かなくなった体を抱きしめ、彼女の胸に耳を寄せる。何も聞こえない。
 それを確認したとき、心臓がぎゅっと小さく締め付けられた。まるで彼女の小さな手で、直接触られたようだった。
 達成感と安堵が胸を覆っていた。少しだけ寂しいような気もしたが、それは己の傲慢だろう。

 僕は愛しいナマエを、殺した。




「ナマエちゃんを殺したのは芥川くんでしょう」
 彼女を殺して丁度三日後、太宰さんにそう言い当てられた。その口振りからは、何の感情も読み取れなかった。
 組織内で彼女は行方不明とされていた。様々な人間に好かれていた彼女は直ちに捜索された。誰も彼もが血眼になって探した。しかし見つかるわけがない。僕が殺して隠したのだから。だがこの聡明な人が、彼女の行方を悟るなんてことは、造作も無かったのだろう。
「……はい」
 言い逃れすることができず、しかし太宰さんの顔を直視することもできず、ただ犬のように返事をした。拳か銃弾が飛んでくると思った。しかし何も来なかった。ただ長く細い溜息が返されただけだった。
「君は想像以上に、愚かだね」
 その声に、やっと太宰さんの顔を見た。その瞬間、背筋が凍った。底冷えのする瞳で、太宰さんは僕を見下していた。その顔には怒りも呆れも悲しみも、何の感情も浮かんでいないのが、一層恐ろしかった。
『太宰さん』
 確か、彼女も僕と同じように太宰さんをそう呼んだ。彼女がそう呼べば、太宰さんは侮蔑の眼差しも向けず、微笑んで返事をするのだ。少しだけ眉尻を下げて、優しい声色で彼女の名前を呼ぶ。マフィア内に彼女が嫌いな人間は存在しなかった。彼女は聖母の如く寛大で平等で優しかった。誰も彼もが、彼女を愛していたし、彼女も全員を平等に愛していた。
 その愛情は例に漏れず、僕にも太宰さんにも同じぐらいの愛情が振りまかれた。
 僕のような木偶に笑いかけ、名前を呼び、頬を撫でてくれたのは、自分にとっては彼女だけだった。
「嗚呼、芥川くんは、本当に馬鹿だね」
 太宰さんのその瞳には、僕に対する侮蔑以外のものが浮かんでいた。少しだけ寄った眉根は少しだけ苦しそうだ。
 誰も彼もが、彼女を愛していた。それは太宰さんも例外ではなかった。聡明で偉大な太宰さんも、組織内の有象無象と同じように彼女を血眼になって探したのだろうか。
「そんなことしたって、意味なんかないよ」
 太宰さんのその言葉は、存外弱々しかった。僕が彼女にしたことなど、とっくに見通しているに違いない。
「……馬鹿なことをしたね。きっと、君は後悔するよ」
「……それは、在り得ません」
 黙っていよう、と思っていたのにもかかわらず、口からはぽろりと言葉が零れた。太宰さんが笑ったように短く息を吐いた。
 次の瞬間、太宰さんの拳が飛んだ。
 骨と骨がぶつかる固い音がした。その力に押されるまま、地面に倒れ込んだ。
 太宰さんが無遠慮に無抵抗な僕をいたぶった。蹴って殴って、僕はされるがままだった。


 でも、太宰さんだって、彼女が欲しくて欲しくて仕方なかったでしょう。
 
 必死で、その一言を飲み込んでいた。





 彼女の死体は、防腐処理をした。内臓を捨て、時を止めた。美しいドレスを着せ、花で飾った。
 終わった。全て、終わった。
 これで彼女が誰かに微笑むことも、誰かの物になることも無い。
 自室で管理している彼女は美しかった。目を閉じてただ深く眠っているだけのように見えた。
 彼女の手を取り、優しく握る。
「ナマエ」
 返事が無い。呼吸の音もしない。鼓動も聞こえない。全部、自分が終わらせたのだと思うと、一種の満足感すらあった。誰からも好かれる、誰のものでもない彼女を自分の手で終わらせ、自分のものにした。その事実に高揚する。胸がいっぱいになるような、甘い感動があった。ずっと、喉から手が出るくらい欲しかったものを、やっとこの手に掴んだ。
 静かだった。静寂が部屋を支配していた。孤独だ。二人でいるのに孤独だった。しかし、この孤独も、僕だけの物。僕が手に入れたものだ。他の男でも、太宰さんでもなく、この僕が。
 動かない彼女の体を抱きしめる。固い体にしがみつき、首筋に顔を寄せ、まだ僅かに残る彼女の香りを肺に満たした。
「……ナマエ」
  返事はない。以前のように微笑みも返してくれない。手も握り返してくれない。抱きしめ返してもくれない。寂しい。孤独だ。でも、彼女は自分のものだ。
 彼女の体を抱きしめる。僕だけが名前を呼ぶ。何度も何度も。
 不意に太宰さんの仄暗い瞳を思い出した。後悔なんてするわけがないのに、少しだけ視界が滲んだ。

 僕はただただ、このあまやかな孤独を浪費していた。



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