ひとを殺してはいけない、ということを、わたしは誰にも教えてもらったことがないんです。
 あなたもわたしも、おでこに汗を浮かべてる窓の外のサラリーマンも、退屈そうにスマホをいじっているだらしないあの女子高生も、果たして一体この世の何人が、ひとを殺してはいけないよと、そう伝えられたことがあるんでしょう。わたし、いつもそれが、気になっていました。誰も彼もが当たり前のように、ひとを殺すのはいけないことだと認識して、ニュースでひとが死んだことを知れば痛ましいと嘆き悲しむけれど、どうしてなのだろうと。
 わたし、自分で言うのもなんですが、記憶力はすこぶる良い人種なんです。なのに、わたしの記憶……、ええと、一番旧いもので三歳頃から覚えているものもありますが、その中をどれだけ探し回っても、わたしに、ひとを殺してはいけないと、教えてくれたひとはいませんでした。

 リンリ?
 ああ、あああ、はいはい、倫理、ですね。倫理観というやつですね。勿論知ってますよ、言葉だけね。無知で申し訳ないのですが、わたし、この年になっても未だに倫理というものが具体的に理解できていないんです。倫理とかモラルとか、そんな何ひとつ定まってないぼんやりとしたものを、どうやってみんな理解しているのだろうと、不思議に思うこともありますが。
 ええ、だって、倫理の具体的説明を、載せている教科書がありますか? 教えてもいないのに、あるいは、教える気もないのに、相手に任せっきりで理解してもらおうだなんて、甘えだとは思いませんか?
 言うまでもないことですが、わたしにだってその知識がまったくないということではありません。さっきは言葉だけ知っているって? ええ、確かにそう言いましたけれど、それは倫理の定義を知らないという意味ですよ。漠然とした"倫理"ということばの中に、あなたがた人間が何を見出しているのかはわたしには検討もつきません。それでも、倫理というものがあなたたちにどのような行動を起こさせるのかくらいは、まあ。

 あなたは、トロリー問題、というものをご存知でしょうか。ああ、その通り、トロッコ問題とも言います。流石博識でいらっしゃる。これくらい常識? そうですね、失礼をお許しください。
 ……そちらの刑事さんは部下の方ですか? まったくわからないというお顔をしていらっしゃいますが。……ああ、そうなんですね。では軽く、説明を。
 要は、多人数を救うために少人数を犠牲にできるかどうか、という問題です。
 様々なシチュエーションの例がありますが、名前の由来となっている例をあげましょう。
 暴走したトロリー列車の前に五人の作業員がいて、このままでは全員が死ぬ。あなたはその列車の線路を切り替えるレバーの前に立っていて、それを引くことができるが、そうして線路を切り替えれば、切り替えた先にいる一人の作業員が死ぬ。
 この状況で、刑事さんたちならどうします?
 ……ほうら、やっぱり。この状況ではね、ほとんどの人間がレバーを引くと答えるんです。一人を殺し五人を救うと。そしてそれは正しい答えになる。この世は多数派が正しいと肯定される世界ですからね。

 二つ目の例をあげましょう。これもまた面白いことになりますよ。
 暴走したトロリー列車の前に五人の作業員がいて、このままでは全員が死ぬ。あなたはその列車をまたぐ歩道橋の上にいて、さらにあなたの前には見知らぬ太った人がいる。この太った人をあなたが突き落とせば、列車は停止し五人の作業員が救われる。
 もう一度、改めて答えをお聞きしましょうか。刑事さん。あなたがたなら、この人を突き落としますか?
 ……はい、正解です。世の中の多数派は、突き落とさないことを選びます。言い方を変えれば、一人を救い、五人を見殺しにすることを選びます。そして、突き落とすと答えた少数派の人間を、さも残酷な殺人犯のように侮蔑するのです。

 前者は多人数を救うことを選び、後者は多人数を見殺すことを選んだ。
 この似たような状況で、まったく異なる判断をした。その基準となっているものこそ、倫理と、わたしは呼ぶのだろうと思うのです。
 
 ところで、このトロリー問題。特に一つ目の例で、あなたがたがレバーを引いたことは、わたしがやったとあなたがたが疑っていること、それと同じ性質を持つとは思いませんか?

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「ナマエ!」
 警察署を出たところ、すぐさま弥子の声が飛んできた。金色のショートヘアがだいぶ落ちてきている太陽の光を反射して、きらきら光っている。ピンクのカーデにスクールバッグを肩からかけて、彼女はわたしのそばまできてにこにことしていた。下校中に突然かけられた任意同行だったから、心配されるのも無理はないか。この小一時間ほどずっと待っていたのかと聞くと、近所のお店でちょっとした食べ歩きをしていたのだという。ちょっとした、の基準にはツッコまない。
「よかったあ。突然笹塚さんと石垣さんが来るだけでもびっくりなのに、ナマエに任意同行って」
「ね、わたしもびっくりした」
 警察署なんてはじめてで面白かったけどね、とおどけてみせれば、弥子も安心したようで、あどけなく笑う。帰ろう、と言えば、元気すぎるくらいに頷く。
 もう、太陽が沈み始めている。
「待っててくれてありがとね」
「とんでもないよ! あのまま帰っても心配で何も手につかなかっただろうし」
「食べ物には手ついてるじゃん」
「……」
 わずかに開けたバッグのファスナーの隙間に覗く、紙に挟まれた焼き鳥を指差す。弥子は観念した様子で、しゅんとしおれてから、それを取り出して、食べた。食べちゃうんだ、この状況で。
「ふふ、ねえ、それあの駅前の焼き鳥屋さんの?」
「そうだよ。焼き鳥はやっばタレより塩だよね〜」
「それ、頂戴」
「ええ、ナマエ焼き鳥とか食べるの? もちろんもちろん、好きなだけ食べてよ! はい、とりあえず二本ね」
「一本でいいって」
「……」
「……」
 弥子はまたしゅん、となり、わたしに焼き鳥を一本手渡した。わたしはありがとうと言って受け取って、小さく一口、肉を齧った。じゅるり、と液体が滲み出てくる。鳥の油。
「なんでそんな凹んでんの?」
「ナマエみたいなスタイルを維持するにはやっぱり食事制限が必要なのかなって……」
「制限してるつもりじゃないんだけど……てか弥子はこれ以上細くなっちゃ駄目でしょ。きもいよ。折れるよ」
 むむむ、とよくわからない唸り声をあげる弥子。年頃の女子高生はいくら痩せてても際限なく痩せたいと言うのだから、よくわからない。この世には適正体重があるということを、この子たちは知っているんだろうか。(というか弥子くらい食べてての弥子のスタイルは最早化け物だと思う。)
「ナマエってほんと完璧人間だよねえ。なんでそんな綺麗なの? なんでそんなおしとやかでほんわかしてるの? なんでそんな髪の毛さらっさらなの?」
「弥子だって可愛いし、元気で活発だし、髪の毛綺麗だよ?」
 弥子の白い手のひらが、わたしの髪に伸びる。小さい頃からずっと同じ、黒のミディアム。するすると髪の束の間を滑っていく指が、ちょっと、くすぐったい。
 やっぱりすごいさらさら、と呟きながら離れていく手のひら。
 わたしに向かって伸ばされている掌が、スローモーションで、離れていく。
 一日中忘れていた、朝の景色がだぶった。
「あ、そういえば、何の事情聴取だったの?」
「ああ、今日朝に人身事故あったっしょ。あれ、わたしホームに居合わせてたんだよね」
「まじで!?」
「そう。そのときの話を詳しく聞きたいって」
「そっか、事故の話だったんだ……事件に巻き込まれたんじゃなくてよかったけど、今日はちゃんと休んでね」
「ありがとう」

▼▲

 私が帰ったとき、ネウロは退屈そうな顔でテレビを眺めていた。ただいま、と言って、十三本買ってあった焼き鳥の空になったバッグをソファに置いた。
「遅いぞ、弥子。この間に依頼人が来ていたらどうするつもりだったのだ」
「ごめんね、友達が警察に事情聴取受けてて、心配で待ってたの」
「事情聴取」
「うん。あ、ほら、そのニュースの」
 頬杖をつき私と会話していたネウロが、私の指差した先、小さなテレビに視線を戻す。液晶では、ニュース記事を読み上げるキャスターの胸元に、ちょうど大文字でテロップの入ったところだった。
「『人身事故被害者、出所二日後』か。フン、たかが十数年の懲役でヒトが更生できるとは思わんが、随分と運の悪い人間がいるものだな」
「やっぱり、ただの事故だよね?」
「謎の気配は感じん。自殺か事故かは知らんが、少なくとも事件性はないだろう」
 ネウロはそれだけ言って、ふわあとあくびをした。最近食べ応えのある謎に出会えていないから、退屈なのだろう。
 ネウロはとうとう目をつむってしまった。太陽はすっかり沈んで、外は夜の気配を帯びてきていた。もう見ることもないと、私はテレビの電源を切った。ニュースキャスターの口はまだ閉じられていなかったけれど、その先彼女が告げる言葉など、私はどうでもよかった。
 人身事故を目撃したのならば、そのショックは大きいだろう。ナマエが、どうかゆっくり休んでほしいと、それだけを思っていた。



『また、線路から数メートル離れたところに、被害者の指紋のついた包丁が検出されました。警察はこのことから、なんらかの事件性がある可能性もあるとして、捜査を進めています……ーー』