ずいぶんと遠くまで来てしまった。薄暗い夜の森を駆け抜けて、気が付けばもう、日の差し込む朝だ。あまりにも気が動転していたものだから、道中のことはよく覚えていない。何人かの敵を殺したのは確かだが、その実感がまるでなかった。こびりつく血のにおいさえなければすべて夢のなかの出来事だと錯覚していただろう。

 私は抱えていた荷物を下ろすと、適当な木の根に腰掛けた。そうして、ゆっくりと自分の重さを手放す。大木に受け止められた体は、芯を失ったようにぐったりとしなびた。なんだかとても、疲れているみたいだ。呼吸を繰り返す度に上下する肩が不思議でならなかった。
 あんなことをしておきながら、まだ生きているだなんて。

 転がしておいた荷物に手を伸ばすと、私はその紐を解いた。風呂敷がはだけ、煤けた色の皮膚が露わになる。その裂け目から、もう一枚、本物の肌がのぞいているのを確認して、私はひとまず安堵の溜息をついた。
 間違いない、彼だ。
 とっても変装が得意な人だったから、また化かされていたらどうしようかと不安に思っていたのだ。こんなところで首を取り違えでもしたら何もかもが台無しになってしまう。
 でも、それは単なる思い過ごし。私はやっぱり、確かに彼を殺していた。旧友の、彼を。

「鉢屋」

 愛おしげにその名前を読んで、皮膚の裂け目をなぞる。死後硬直が始まっているらしく、肉には弾力がなかった。

「……ごめんなさい」

 私は鉢屋を守れなかった。例え進む道は違っても、いつかまた笑いあえるはずだと信じていたのに。

 戦況が厳しくなっていく中、どうしても倒さなくてはいけない敵というのがあって、それを煽動しているのがかつての友だった。ただそれだけの話。
 何かを守り抜くためにはもっと別の何かを切り捨てなくてはいけない。理由は何であれ、私は友情よりも忠義を選んだ。

 きっと私は地獄に行く。いくらそれが仕事であるとはいえ、いままでに何人殺めてきたかわからないし、終いには友にまで手をかけてしまった。こんなろくでなし、何度死んだって足りない。

 だからもう、こんなことは最後にしたかった。これだけのことをしておいて、なんの罰も受けずに生き続けるのは到底無理だ。鉢屋殺しの役目を引き受けた瞬間、覚悟したことがある。
 自分の死だ。
 大切な友の命を奪うのだから、当然、それ相応の対価を払わなくてはいけない。もちろん、こんな薄汚れた魂ですべてがチャラになるとは考えていないが、せめてもの足しにはなるはずだ。そう、信じたかった。
 私はただ贖罪がしたい。おそらくは他の誰でもない、自分のために。

 だけどその前にひとつ、どうしても果たしたい約束があった。

「あ」

 カラン、と音を立てて、手元から苦無が滑り落ちた。咄嗟に右腕を見てみると、ちょうど手首のあたりに針が突き刺さっている。遅れてやってきた痛みを感じながら、私はゆっくりと地面に伏した。膝に抱えていた鉢屋の首がころころと転がっていく。慌てて手を伸ばそうとしたが、もう体の自由が利くことはなかった。
 私はあれを、埋めなくちゃいけないのに。

「お前は変わらないな」

 どこかで聞いた覚えのあるような声だった。どうにか瞳だけを動かしてその顔を伺おうとするが、なかなかうまくいかない。
 ふいに地面を踏みしめる音がして、その男の足元が視界に映った。忍び装飾の色からして、味方でないことは確かだ。
 私は殺されるのだろうか。
 そのこと自体はいい。でも、あと少しだけ時間が必要だ。

 変装名人とうたわれる彼は、生前、決して自分の素顔を見せなかった。いや、見せられなかったと表現したほうが正しいのかもしれない。
 その理由もひっくるめ、すべての秘密を墓場までもっていくつもりだと彼は時々話していた。いつでも自分の顔を焼けるよう、常に火薬を仕込んでいたことだって、私は知っている。
 だけどもし、彼の判断が間に合わなかったら。素顔を隠蔽する前にその命が尽きてしまったら、そのときはお前がこの首を破棄してくれ。それが彼の頼みだった。

 でも、もうその必要はなくなったみたいだ。

「この首、きちんと確かめたのか?」

 男の問いに対し、私は心の中で首を振った。誰にも自分の顔を知られたくないというのが彼の望み。そんなことをしたら申し訳が立たない。
 それに何より、私だって鉢屋の素顔を知らないのだ。いまさら面の皮一枚めくってみたところで何かがわかるわけじゃない。

「はち、や」

 痺れる舌でそうつぶやいた。もともと、鉢屋の顔なんてあってないようなものだ。そんなもの見えなくても友の正体ぐらい看破できる。
 男は暫し口を噤むと、こう応えた。

「……どうやらお喋りが過ぎたらしい」

 ああ。生きていてくれて、本当によかった。ちょっとずつ薄らいでいく意識の片隅でそんなことを思う。結局私は無駄死にだ。でも、それでいい。最初から、誰のことも殺したくなかったのだから。

「ありが……、とう」

 こんな私を殺してくれて。もうずっと終わらせたかった。罪の意識に耐えかねて、心中を選んだ私を許してほしい。

「おひとよしめ」

 ぽつりと溢すと、友は最後の一撃を振るった。