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2.一瞬の認識


 約1年後、1890年9月24日である。明日はついにSBRレース当日を迎える。セオとブリュメールは船旅を終え、スタートであるサンディエゴビーチにやってきた。受付を済ませて『B-326』のゼッケンを貰った。
 晴天、今日このまま飛び出しても構わないような気分。院試も突破し、レース後には大学院生として戻ることも約束されている。イギリスからの旅には疲れたが、それも吹っ飛ぶような爽快さだ。

 会場付近には沢山の人が集まっている。選手たちの中にはテントを張って明日を迎える者もいるようだ。

「ラーム。」

 セオは自分の相棒を呼んだ。ラームはサラブレット種で青鹿毛色のオス、太陽の光を反射した黒色の毛並みが美しい。ラームはヘブライ語で雷を意味している、彼に出会った時に丁度読んでいた本に出てきた単語だったのでこれを名付けた。
 井戸水をバケツにすくってラームの目の前に差し出す。息遣いが水分不足の時のそれになっていた、日の照っているビーチは慣れない場所だ、彼の体調は普段以上に気を使わなければいけない。

「君、ちょっとそこ良いかい。」
「……あ、失礼しました。」

 井戸の前で水を飲ませるのはよくなかった、後ろにいた人の水汲みの邪魔になってしまった。ラームの手綱を引きながら、バケツを井戸から離して場所を空ける。そして目線をあげて、吃驚。

「ブランドー選手?」

 思わず声に出してしまう。

「ん?いかにもオレはディエゴ・ブランドーだが。」

 ディエゴ・ブランドーだ、イギリス競馬界の貴公子。セオも父の取材について行って顔を見たことがある。バチッと視線があった、美しい獣のように鋭い眼光に、思わず一歩引きさがる。

「やっぱり。すいません急に名前をお呼びして。吃驚してしまったので。」
「嬉しいよ、お嬢さんに名前を知っていてもらって。君もレースに出場するのかい?」
「はい、順位関係なしに走りきることを目標にしてます。」
「そうかい、良いレースになることを願ってるよ。・・・それじゃあ。」
「ありがとうございます、わたしもブランドー選手が最高の走りが出来るよう願ってます。……では。」

 会話は一瞬で終わった、ディエゴは水の入ったバケツを持ち、馬の手綱を引き去っていく。彼が背を向けたのと同時に、セオはがちがちに緊張した身体をゆるめる。はあ、と、大きくため息をついてしまった。

「吃驚した……まさかブランドー選手とはち合わせるなんてね。」

 ラームも、強く気高い馬に畏怖の念を抱いたらしい。脚の筋肉がぴりぴりと張っている。

「あんなに強い選手も出ているんだ、それはそうだよね。……改めて頑張ろう、ラーム。」

 セオはバケツを持ち、ラームにまたがった。ホテルにはセオ以外にも選手が多く宿泊するということで、特設の厩が設けられている。ラームには今晩そこで過ごしてもらうことになっていた。





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