trance | ナノ



 金曜日、である。
 来て欲しくないと願っていた金曜日がやってきてしまった。今日の収容施設は妙に落ち着きがない。総務課もきっとこんな感じなのだろう。視察はよくあるといえども、都議会レベルは稀である。所長は今まで見たことのないネクタイをしている。きっといいところのブランドのものなのだろう。足元は内履きサンダルではなく艶々の革靴で、気合が入っていることが伺える。
 瑠良はいつもと変わらない。化粧に気合を入れることも、服装を変えることもしなかった。むしろ「逃げやすいように」と、今日は内履きではなくスニーカーを履いているくらいだ。

 十時過ぎ。十時にやってきた定期船に乗った、都議会議員たちがやってきた。受付に居た看守が、施設奥の会議室に議員たちを案内している。詰所にいる看守陣が立って挨拶をしている中、瑠良はそそくさと所長室に入って所長を呼ぶと、議員たちが会議室に入るまでその場に隠れた。詰所も会議室も扉を開けたままのようで、詰所には会議室の笑い声が聞こえてきていた。看守たちはそれを聞いてソワソワしているし、瑠良も別の意味でソワソワしていた。

「織部さん、事務機の営業の方が見えてます。」

 気を取り直して仕事だと思った出鼻を挫かれた。看守が瑠良を呼びにきたのだ。瑠良は分かりましたとちょっと疲れた返事をして、詰所の受付に向かった。
 事務機の営業、と名乗ったらしい男は三人いて、瑠良を見つけると頭を下げた。ああ、これは父親の部下だな、と、瑠良はすぐ気付いた。

「お世話になっております。」

 瑠良が頭を下げると、「営業」三人もお世話になってますと頭を下げた。一人が周りには見えないよう気を遣いながら名刺を差し出すように、警察手帳を差し出してきた。父親のものと同一で、所属も同じだった。

「織部瑠良さんですね?お忙しいところすみません。」
「いえ、こちらこそ、このような場所に……。」
「巻き込んだのはこちらですから。」

 三人の中でリーダー格らしい刑事が受付に乗り出して瑠良に顔を近づける。

「同じ船で河南を確認しました。その時点で押さえることが出来れば良かったのですが。」

 彼は申し訳なさそうに眉を曲げるが、疑わしきは罰せず、だ。瑠良も分かっている。本拠地を叩くのが先だ。

「あっちは何時から?」
「幹部が集まるのを確認してから、なので、多分昼過ぎでしょうか。……懸念しているのは、向こうの騒動が河南に知られることです。この島から簡単に出ることはできないでしょうが。」
「収容施設にいる間は、携帯電話を回収しています。なので大丈夫だと思います……多分。」

 絶対に大丈夫なんてことはない。
 都議会議員の集団と瑠良はすれ違わなかったが、きっと今、同じ建物に河南が居る。そう思うと、背筋がぞわりとした。刑事と話をしていると、ふいに廊下が騒がしくなった。会議室から議員たちが出てきたのだ。瑠良は咄嗟に逃げようと一歩後ろに引いたが、そこで意識的に止まった。足を戻し、受付に立ち続ける。刑事の一人は顔を廊下の向こうに向けながら目だけ瑠良を見た。他の二人は廊下の向こうから来る集団を見ている。賑やかなおじさん集団だ。チラホラと議員らしい知命くらいの女性や、付き添いらしい若い女性もいる。瑠良は不自然にならないよう、集団を見てお辞儀をした。顔を上げた時、集団の中の一人だけがこっちを見ていた。他の人たちは皆話をしたり、内装を見たりしている。集団の最後尾に須田がいて、彼は面倒くさそうな顔をしていた。

「あれが河南です。」

 集団が外に出て行ったのを見計らって、刑事が言う。あれ、とだけ言ったが、それが誰か瑠良には分かっていた。刑事も瑠良が分かった、と気付いたのだろう。河南はあの、瑠良を見ていた男だ。瑠良よりも十歳ほど歳上に見えるが、確か35歳だったか。あの集団では若手の男だった。スーツの下に筋肉があるのがよく分かるようなガタイをしていて、切長の目は涼しげと言うよりは狐のようで妙に嫌な感じがした。

「来ていたんですね。」

 瑠良はそれだけ言った。

「ええ。我々は仕事のふりをしてあの集団を追います。織部さん、河南からの接触があったら、必ず電話をしてください。」

 刑事が指し示した名刺には、携帯電話の番号も書いてあった。瑠良は懐から自分の名刺を出すと、それに自分の電話番号を書いて差し出した。




 議員たちの予定表を見る。午前中は一時間ほど島の散策をするだけのようだ。そのまま食堂で昼食と休憩、午後は総務課の建物を見学した後、収容施設に戻ってきて所長から説明を受けてから見学、会議室での総括に終わる。収容施設に戻ってくるタイミングさえ掴めば、瑠良は河南と接触することはない、と思いたい、心から。お茶の準備は看守たちがする習慣に感謝しなければ。
 十二時。瑠良は食堂で嫌々お昼をとってるであろう須田に同情しながら、一人弁当を広げた。
 午後。なんでことのない自分の仕事をこなしたり、看守から持ちかけられた相談に答えたりしていると、またガヤガヤと受付辺りが騒がしくなった。議員集団が帰ってきたのだ。看守たちは仕事の手を止めて議員たちに頭を下げる。瑠良は受付から死角になっている物陰に隠れた。看守たちはお茶の準備に走って行った。瑠良が注文した小さな羊羹や茶器セットを持って看守たちが出ていくと、事務室は急に静かになった。

「やれやれですよ。」

 落ち着く間も無く須田が帰ってきた。彼言葉の通り疲労を溜めているようで、いつになく疲れが全面に出ていた。

「お疲れさまです。」

 仕方ないな、と、瑠良は給湯室で須田愛用の湯呑みに(他にも愛用のカップとソーサーやマグカップもある)瑠良が愛飲する緑茶を淹れた。約束の羊羹と一緒に持っていくと、須田の目はきらきらと輝いたように見えた。

「よっぽど大変だったんですね。」
「精神的に。到底理解し難い雲の上の人々ですよ。」

 ゴルフ場に良いとかうちの別荘にこんな森が欲しいとか、そんなハイレベルな会話が飛び交ったのだそうだ。もちろん施設の話もしっかりしたと思うが、須田にはそれが印象的だったのだろう。ついでに須田は「私もゴルフぐらいはできますけど」と謎の付け足しをしていた。ちなみに瑠良には経験がない。

「いただきます。」

 文句ばかりだった須田の顔が羊羹で綻んだ。

「あんな楽しくない会食は久しぶりです。織部さん、口直しに夕飯付き合ってくださいよ。」
「夕飯は家で食べる派なので。」
「外食しないんですか。今日くらいいいでしょう。」

 今は夕飯のことなど考える余裕がないのだから許して欲しい。瑠良の脳内は河南のことで疲れているのだ。

「奢りますよ、喫茶店のマスターが分厚いフレンチトーストをメニューに入れたそうです。」
「食べたいんですか?」
「ええ。」

 フレンチトースト、甘いもの、きっと仕事終わりの自分は脳が疲れて甘いものを欲する。ご馳走になるのも悪くない。瑠良は一度河南を頭の隅に追いやってフレンチトーストのことを考えた。卵と牛乳とパンと砂糖、甘くてふわふわで美味しいフレンチトースト――。

「いいですね、フレンチトースト。ぜひ――」

「織部さーん。」

 頭の中が淡い黄色に染まったのに、受付方向から自分を呼ぶ声がして一気に脳が色褪せた。瑠良は真顔になる。須田はそれを見て肩を落とした。
 瑠良は仕方なく返事をして受付へ向かった。歩きながら顔を上げて、受付を見る。誰が自分を呼んでいるのか――。

「……ぅ。」

 瑠良は小さく唸った。そしてピタリと足を止める。対象との距離はわずか五メートルだった。

「その顔は、俺が誰だか分かってる顔か。」

 細い目が胡散臭い男だった。笑っていると余計に細く見えるのに、その切れ目からは、黒目がこっちを向いているのがはっきりわかる。ああ、河南だ。瑠良の心はすっかり冷えてしまった。それでもなんとか愛想を残そうと上がっている口角は引き攣っている。

「父親の件で話がある。終業は五時半だな?」

 瑠良は返事をしなかった。代わりに顔を下に向けたまま、目だけは河南を睨みつける。

「船着場に来い。」

 河南が指示したのはそれだけだった。彼は他に何も言わず会議室へ戻っていく。
 瑠良はずっと彼を睨むばかりだった。自分はもっと怖がるものだと思っていた。最初、彼を目にした時、手紙あの写真を思い出してゾワゾワと背筋に鳥肌が立ったのは確かだが、今はそんなものはなかった。あの手紙を書きあんな劣情を自分に向け、あんな写真を撮るためにあんな姿の自分を見たあの男――考えると怖くもあるが腹が立ってくる。ストーカー、と、うすらぼんやりとした存在だった時は怖かったけれど、こうして実体があると分かるとぶん殴ってやりたい気さえした。

「すみません、やはり今日は。」

 須田に向き直って瑠良は謝った。須田は眉をハの字にしてシュンとして見せている。寂しい柴犬のように見えるのも彼の演技なのだろうが、それは瑠良の心臓にしっかり刺さった。申し訳ない。

「今の男は誰ですか。」

 まだシュンとしたままの須田が問う。さっき「ぜひ」と言ってフレンチトーストを受け入れかけていた瑠良が、あの男と話したせいで「すみません」と言ってきた。あれは須田には到底許すことのできない男だ。誰であろうと自分と瑠良の間を裂くものが憎かった。

「……父の知り合いです。会いたくなかったですけど。」
「いやそうな顔。」
「ええ……まさか会いに来るなんて。」

 嘘を言っていない。瑠良はそう自分に言い聞かせる。あの男は父親の「知り合い」だし、瑠良は会いたくなかった。しかし須田は怪訝そうな顔をしている。瑠良の言うことを疑っているからなのか、瑠良の気持ちに寄り添ってくれたからなのか、その顔の理由は分からない。

「だから今日はコソコソしていたんですか。」
「あ、ばれていました?……そういうわけで、今夜はすみません。また今度フレンチトースト行きたいです。」
「明日にしましょう。」
「明日、いいですね。」

 明日、明日は休日だ。そのことを考えると少しだけ目の前が明るくなった気がした。休日だと思うと反射的に気分が明るくなるだけなのだが、瑠良にはなんでもよかった。





 瑠良はあの後すぐ、もらった名刺を頼りに刑事へ電話を掛けた。彼らは今、別行動をして様々な角度から河南の様子を見張っていたらしい。収容施設の出入り口を見張っていた一人は、河南が受付に来ていたのを見ており、話し相手が瑠良だと分かるとその行動に納得していた。終業後の船着場、そこが河南を引っ捕える場所になる。アジトの捜査は始まったばかりとのことだったが、夕方にはより一層「ヤバい」罪状が揃うだろうとのことだ。
 刑事たちはこの騒動を大ごとにしたくないようだった。――揃うものが揃った時点で会議室へ飛び込むことだって可能なのだが――電話口の刑事が申し訳なさそうに言っていた。理由は河南が秘書を務めている議員にある。議員の方は後ろ暗いところのない、公明正大な男なのだそうだ。そんな男が麻薬のバイヤーを雇っていたなど、信用失墜行為でしかない。もちろん、河南を捕まえれば自ずと知られることである。しかしこの島で、他の議員――言わばライバルたちの前でことを明らかにさせるのは避けたい。
 瑠良は刑事たちの思うところがしっかり分かったと思う。だから彼らの提案を受け入れ、自分と同じように巻き込まれることになった議員に同情した。その議員は良い隠れ蓑だったろう、悪いところのない人の元なら、河南も自分がそうであるように振る舞えたのかもしれない。どこか別所から圧力がかかっているのではとも思ったが、瑠良も大ごとにしてほしくないのは一緒だったので迷うことは無かった。

 できればずっと来てほしくなかった終業時間がやってきた。いつもなら嬉しいはずなのに、今日はそうでもない。議員たちはすでに解散している。今日中に本土に帰る人は夕方五時発の船に乗って帰っているし、一晩泊るメンバーは社員寮のゲストルームの部屋を借りている。生憎、河南と河南がついている議員は一晩泊っていくのだろう。
 瑠良は普段と変わらず定時で上り、さっさと船着場に向かった。行きたくはないが足が重いとは感じなかった。再び河南に会えば全て解決する。本土にある奴のアジトはもう終わっている。だからこれが最後だ。
 船着場では河南がタバコを吸っていた。船着場にはほかに誰もいない。船が発着する丁度合間なのだろう。

「来たな。」

 河南は笑っていた。彼はオーダーメイドのスーツを着ている。濃いグレーで、腕や脚にピッタリ沿った作りだ。羽振りが良いのか、議員が良いものを着ろと言うから着ているのか。

「ほかに何をするつもりですか?」

 訊きたいことは沢山あったが、瑠良は先ずそう言った。河南にとっては運よくこの島での仕事があって、わざわざ瑠良に接触をして、あとはどんな牽制をしてくるつもりなのだろうか。
 指紋がついた手書きの手紙をよこしたのは、差出人が誰か分かるようにするためだというのは父親たちの見解だった。送り主が誰か分かった先にはあの組織がある。あの組織は刑事の家族を狙っている、そう気づかせるようにわざとしたのだ。
 その河南が今ここにいる。距離を置いた嫌がらせだけではなく、接触をしてきた。河南は「自分の存在が警察に知られている」と分かっていた。ならば今日ここに来ることも警察はつかんでいる、と、彼なら思う――いや、知っているだろう。なぜみすみす捕まりに来るようなことをしたのか。議員秘書をするくらいだ、それなりに頭はいいのだろう、と、瑠良は思う。捨身の行動は自らやったのか、それとも組織からの指示か。

「何だと思う?」

 河南はタバコを携帯灰皿の中で潰した。





 今日の織部さんは悩み事を抱えた顔をしていた。と、そう感じたのは看守の須田だった。須田は瑠良がまた面倒ごとを抱えている気配を察知したので、終業後の彼女を追いかけることにした。彼女は父親の知り合いと会うと言っていた。しかし進んで会いたい相手でないのは一目瞭然だった。どんな関係なのかは分からない。ただ、瑠良が嫌そうにしている、それだけは事実だ。ついでにいうと、一緒にフレンチトーストを食べに行く約束を取り付けられなかったのがその男の所為であるのも事実である。

「既成事実をよ、作って来いって言われてんだ。」

 男は笑っている。

「……は?」

 須田は瑠良のこんな顔は見たことがなかった。相手を心底軽蔑した顔、できればあんな顔は自分には向けて欲しくない。ゴミを見るようなという表現が似合う。しかし男の方は瑠良の表情を見ても何とも思っていないようだ。須田は船着場近くの低木の影から瑠良と男の二人を睨んでいた。彼の場所からでは二人が何を話しているか分からない。表情から、瑠良がひたすら嫌がっていることだけはわかる。瑠良は一歩、二歩とゆっくり後退している。その瑠良と距離を空けないように男は前進している。

「そうすればお前の父親も傷つけることができるだろ?」
「そ、そんな理由で?強姦なんてしたら人生終わりでしょう。どうしてあの議員の元で真面目に働かないの。」
「組長のためなら何でもやる、俺がどうなろうと。」
「忠誠のつもり?」
「ああ、そういう世界なもんでな。……それにお前みたいな上玉なら俺だって積極的になるさ。」
「気持ち悪い……!!」

 瑠良の叫びが須田の耳に飛び込んだ。瑠良は男に腕を掴まれている。男は瑠良の腕を引っ張って船に入ろうとしている。これはまずい、男の考えている事が手に取るようにわかる。だから須田は飛び出した。瑠良があんな男に穢されてはならない。

「織部さん!!!!」

 須田が叫ぶ。瑠良は脚を振り上げる。

「か、確保だ!!」

 飛び出してきた刑事が叫ぶ。
 瑠良のつま先が男の鳩尾に刺さる。須田は織部を抱え込むように抱きしめる。刑事たちは三人で河南を捕まえる。河南は鳩尾の痛みに耐えることで精一杯になって抵抗をしなかった。

「え、ええと、須田さん……?」

 瑠良は戸惑っているようだった。彼女は刑事たちが河南を捕まえたのを確認して脚を下ろす。バランスを崩して、須田に全身を任せるような形になると、彼女は赤面した。

「あ……大丈夫です、この方たちは刑事さんで、わたしの父の――」
「そうじゃないでしょう。」

 須田の返事の声色が想像よりも低かったから、瑠良は驚いて肩に力を入れた。須田は明らかに怒った顔をしている。怒っている理由は瑠良にも分かっていた。

「……ご心配をおかけしました。」
「本当ですよ。なにが『大丈夫です』ですか。私がこの男たちの素性を気にしているとでも思ったんですか。」
「だって、あの……まさか須田さんがいらっしゃるとは、思いませんでしたから……。」

 瑠良は須田の目を見ようとしない。彼女自身後ろめたいことだらけなのでそうもなるだろう。須田は瑠良を捕まえたまま、彼女の顔を正面から見ようと首を回した。瑠良は逃げようとしている。

「で、何があったんですか。一つでも嘘をついたり隠したりしたら許しませんからね。」
「許さないって、ど、どうなるんですか。」
「どうなると思います?」
「いえ、聞きたくありません。あれはわたしのストーカーで、議員秘書としてこの島に乗り込んで、今現行犯で刑事さんたちが捕まえてくれたところです。」
「端的な説明ありがとうございます。なぜあの男がやってきた時点で私に一言がないんです?」
「だって……あの……刑事さんたちが……。」
「はぁ……。」
「わたしは警察の娘です。どんなことも覚悟の上で生きていますから、周りを巻き込んでばかりではいられないんです。」
「そこまで強がらなくていいんですよ。手、震えてるじゃないですか。」

 須田は瑠良の片手を取って、その手を瑠良の目の前に上げて見せた。手は小刻みに震えている。瑠良はそれを目の当たりにすると、崩れ落ちるようにしゃがんで背中を丸めた。





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