trance | ナノ



 空になったマグカップなどを給湯室で洗いながらまた泣いた。
 いつ、どこで、誰に見られているか分からなかった状況を思い返すとひたすら辛かった。もちろん全ては思い出せないけれど、思い出せる範囲で自分の行動を顧みる。職場で変な事をしていなかったか、買い物中隙を見せたことは無かったか。家の中では――。
 マグカップを洗いながら泣いている人間は滑稽であろう。もうマスクで顔を隠すことに決めたから気にしないでおきたい。自分で自分の状況が面白い。洗い物を終えてマスクを着け、目の周りなど見えている部分の化粧を軽く直す。鏡に映っている充血した目が情けなくてまた泣きそうになった。

 化粧を直して詰所に戻ると、須田がお帰りなさいと笑顔で迎えてくれた。

「ありがとうございました……。」

 尻すぼみに、消え入るような声で返事をすると(大きな声を出すとまた泣きそうだ)、須田は驚いたような――というか、焦った様子で、大丈夫です、と返してくれた。
 総務の男性が帰ってくるまでにやるべきことをやらねば。一度テンションが最低まで落ち切って、今は浮上している最中なようで、パソコンに向かうと途端にやる気が湧いて出た。そこからは自分でも驚く処理能力を発揮したと思う。予想していたよりも時間をかけず、今日返す必要のある書類を揃えきることが出来た。
 台車の上の段ボールに書類を詰め、所長の決裁が下りたものも詰め込み、あとは総務の男性に持っていってもらうだけになった。瑠良は満足げに鼻を鳴らす。須田が後ろからお疲れさまですと声をかけてくれた。

「それで、どうして泣いていたんでしょう。」
「……それを訊きますか。」
「ええ。コーヒーのお礼に身の上話の一つでもしてくれませんか?」
「面白くないですよ。」
「面白いかどうかは私が判断しますので。」

 須田のお気遣いモードは終了したらしい。彼はもう自分の興味でいっぱいだった。その方が彼らしいと言えば彼らしいのであろう。瑠良は須田と距離が取りたくて、足音を立てないようにススッと自分のデスクに戻る。

「本当に虫がいたんですか?」
「そこからですか?」
「念のためです。」
「いませんでしたよ、虫なんて。」
「ではなにが?」
「う……。」

 自分にはストーカーがいて――なんて、気軽に言える話ではない。暴露して助けてを求めることもひとつの手ではある、しかし瑠良はその手段を取ろうとは思わなかった。須田を信頼していない、というわけではない。付き合いは浅いが、彼は聡明で思慮深く、ずる賢いところがあるが計算が上手く、頼りになる人だ。ただそれは、ここでは一番頼りになるというだけであって、瑠良にとってまだ頼っていい人かどうか、という結論は出ていない。

「本社から、なにかとんでもないものでも届いたんですか?」
「本社から……ではあります。」
「会社からの通知では無いようですね。何かが届いたのは確実でしょうけど。」
「ウ……その……すごく個人的なことで……本当に答えにくいんです……。」

 じとっと睨まれるとまるで自分が悪いことをしたような気がしてくる。実際、隠し事が瑠良の中では悪いことに当たるから後ろめたさを感じてしまう。

「面白がられたら……いやなんですよう……。」
「あなたが泣くほど嫌がっていることを笑うわけありませんよ。」

 面白い話題として消費されたくない。須田がそんなことをする人でないと分かっていても思ってしまう。
 瑠良が一向に自分を信用しようとしないことに呆れたのか、須田は自分のデスクに向き直し、唇を一文字に閉じた。わがままが行き過ぎて幻滅されてしまったようだ。瑠良は自分のせいでそうなったにも関わらず、須田の心が離れていったのが寂しかった。瑠良は彼の様子を伺って、パソコンのモニターの上から目を出す。再びこちらを見た須田と目が合う。瑠良は慌ててモニターに顔を隠した。

「はぁ……そんな顔をされたら訊けないじゃないですか。」
「すみません……。」
「あなたがそんなに小動物みたいな性格をしているとは思いませんでしたよ。」
「な、なにだと思っていたんですか……。」
「古エジプトで飼われている猫。」

 例えが細かくて須田の言いたいことは分からなかった。須田も意図したことが伝わっていないのは判ったらしく(元から判るように言うつもりはなかったのかもしれない)、そういうことです、とだけ続けた。




 総務の男性と所長はしばらくして帰ってきた。瑠良はマスクをしていることについて訊かれ、「空気清浄機が詰所の空気をかき混ぜているようで、ハウスダストがくしゃみを……」と適当に答えておいた。総務の男性は瑠良が揃えた書類を確認する。彼のチェックは問題なく終わる、全て揃っているようで安心した。
 船の出る時間がやってくるので、総務の男性は台車を持って帰って行く。道中意気投合したのか、所長は総務の男性を気に入ったようで、「港まで送ってくる」と一緒に出て行ってしまった。再び詰所には須田と瑠良だけになってしまった。

「もし仕事が立て込んでいないようでしたら、早退してもいいんですよ。」

 収容施設から所長たちが出て行ったのを見計らって須田が言った。瑠良は返事に迷って十秒ほど黙ってから答える。

「できれば……今日は早く帰りたいです。所長が帰ってきたら、相談してもいいですか。」
「ええ、そうしてください。」
「須田さんは優しいですね。」

 次は須田が十秒黙った。

「そうですか?」
「はい。」
「あんなに苛めたのに。」
「嫌がらせはされましたけど、気遣いもしてくださったじゃないですか。」
「自分の仕事に支障をきたさないためです。あなたの為ではありません。」
「そう言ってわたしに気を遣わせないようにするところとか。」

 須田は言葉に詰まる。何かを言う代わりに大きなため息をついた。彼はそうして瑠良に見えている側の腕で頬杖をつき、そっぽを向いた。手でさり気なく隠しているつもりだろうが、耳が赤くなっているのが指の間から見えてしまった。彼も崩れてしまえば存外分かりやすい性格をしている。
 人に優しくする自分、を誰にも見せたくないのだろうか。とも思ったがそれはないか。普段を見ているとむしろ、須田は後輩や所長に恩を売るという形でなにかと気遣いを見せている。それは打算ではあれど結果として優しさになっている。ならば今だって「ええ、あなたを心配しましたよ」と言ってしまえば、瑠良が感謝してそれでおしまいだったろうに。

「私のことなんか考えてないで、自分の今後を考えてください。」
「須田さんが仰るならそうします。」

 一時間しないくらいで所長が戻ってきた。日は傾きそろそろ終業の時間で、他の看守もちらほらと帰ってきている。瑠良は須田の勧めに甘えて年次休暇を一時間もらった。
 いつもより日が高い場所にある気がする。実際にそのはず。早退するといつもより世の中が明るく見える。瑠良の心境はそうでもないけれど。雑貨屋に寄って夕飯の買い物をしようかと思ったが、今日は台所に立つ元気がなかった。瑠良の足は自然と食堂に向かった。
 持ち帰りメニューからオムライスとプリンをお願いした。食堂のおばさんは瑠良に良くしてくれる。ほかの人にも同じように優しいのだろう、しかし瑠良は自分にも優しくしてくれることが嬉しかった。厨房で料理をする音が食堂にも聞こえてくる。夕飯には早い時間なので、ほかに客はいなかった。瑠良は一人テーブルに突っ伏せて、今日のことを反芻した。
 ――鞄の中には送られてきた封筒が入っている。あれをもう一度開ける気にはならないが、犯人を探すためには仕方がない。手紙内容は他の誰にも読まれたくないので、筆跡鑑定に回してもらう用に宛名書きと手紙の名前部分だけ父親に渡す。こういう手紙は大抵、差出人がバレないよう手書きをしないものだと思っていた。犯人が失念していたのだろうか。写真は部屋の中のもの以外なら渡せるだろう。撮影日と撮影場所から犯人が捕まることを祈る。
 食堂のおばさんからオムライスとプリンを受け取って社員寮に帰る。おばさんに具合が悪そうねと心配された瑠良は、どうってことないですよ、と、答えて礼を述べてそそくさと食堂を去った。全く持ってどうってことないことない自覚がある。この時間に食堂を訪れた時点で、おばさんは何かあったかと思うはず。それを適当な返事で終わらせてしまったのは良くなかった、思いやりを無碍にしてしまった自分が憎い。

 社員寮の部屋は家具付きの狭いワンルームだ。簡単な台所がついた一部屋とユニットバスの、少し上等なホテルのような部屋。設計時の担当者の趣味なのだろうか、アンティークな家具と調度品が揃っているお蔭で綺麗に見える。が、古い建物なのであちこちガタがきているらしい。
 仕事着を脱いでベッドに放り投げ、さっさと顔を洗って化粧水だけつけ、温かいうちにオムライスをいただく。1日遅れで届く新聞を片手で開きながら、片手でオムライスを食べる。情報の少ない生活にはまだ慣れない。本社にいた頃は嫌でも政治経済あれこれ耳にしなければいけなかったのに。テレビは元々観る時間が少なかったから良い、新聞も一日遅れなら許せる、しかしスマートフォンがないのは辛い。面倒な人間関係から離れられるのは良いにしても、SNSが見られないのにはまだ慣れない。今度、こっそりラジオでも導入してみようか。ここまで電波が来ていれば良いのだが。

 食事を終えたのでシャワーを浴びることにした。ベッドに投げ出した制服を渋々ハンガーにかけて消臭スプレーを吹きかけ、ワイシャツなど洗えるものは洗剤と一緒に洗濯機に突っ込んでスイッチを入れる。人間は浴室へ。全て洗い流したい気持ちでお湯を出す。――一向にシャワーが温まらない。いつもなら二十秒出していれば水がお湯に変わるのに。一分待ってお湯にならなかった。瑠良は一旦水を止めて、もう一度試す。まただめだった。やっぱり古い建物だ。




 仕方がないので共用浴場を使ってきた。共用浴場は元々島外からやってきた人が泊まる時に使う設備で、お風呂のないゲストルームの補助的役割を担っていたが、今では風呂に不具合のある職員が使っている。浴場とは言っても、お湯はりは使う人が行うので、部屋の風呂を使うのとなんら変わりない。瑠良は女性用共用浴場を堪能すると、そのすぐそばにある休憩スペースで身体を冷ますことにした。上下紺色のジャージに身を包み、瑠良はやっと楽になった気がする、
 休憩スペースには、誰彼かが持ち込んだ本やボードゲームがあり、職員が集まって過ごすにはもってこいの場所になっている。実際に、時々ここに集まって酒盛りをする人たちがいるらしい、ら瑠良は適当に文庫本を一冊取り出して開いてみた。あまり自分の好みではないので読む気にはならなかった。

「はー……どうしようかな……。」
「どうするんです?」

 ひゃっ、と、瑠良は背を正した。独り言に返事が返ってくるとは思わなかった。よく聞く声なので誰かそこにいるか顔を上げなくても分かる。

「須田さん。」
「はい。」

 須田だ。彼は仕事を定時で切り上げて帰ってきたのだろう。下は黒のジャージに上は黒のTシャツというスタイルだ。彼は瑠良から少し離れたソファに座り、背中を背もたれにすっかり預ける。脚を組んでその上に近場にあった新聞を載せる姿はなんとも様になっていた。

「お仕事お疲れさまでした。」
「線引さんもお疲れさまです。共用浴場ですか?」
「はい、部屋のシャワーから水しか出なくて。」
「それは良くない。ほかに異常はありませんか。」
「今のところは特に。お風呂の件は明日管理人さんに伝えます。」

 瑠良は一度正した背筋の力を抜いて、再びだらんと背もたれに体重をかける。少しの間静寂が流れた。

「須田さんはストーカー被害に遭ったことはありますか?」

 そして彼女は唐突に問う。須田は目を丸くして瑠良を見た。新聞が見開き一ページ、彼の足からずり落ちて床に着いた。

「……線引さんは遭ったことがあるんですか?」

 須田は落ちた新聞を拾い上げて直しながら訊き返す。

「須田さんはあるのかなと思いまして。」

 瑠良は「はい」とも「いいえ」とも答えなかった。しかし、突然そんなことを訊くのだから、何か思い当たる事でもあるのだろう、と、須田は考えた。さっき職場で見せた動揺はストーカーが原因だったのではないか。しかし訊いた瑠良は涼しい顔をしていて、泣いた後の目の赤みも消えていたから、全然関係のない話題という可能性もなくはない。

「ストーカー……とまではいきませんが、少し面倒な人はいましたね。」
「女性ですか?」
「はい。」
「須田さん、女性関係色々とありそうですもんね。」
「心外です。」

 心外だが否定はしない。須田は一時期、何をしなくても寄ってくる女性と遊んだり、少しその気を見せればついてきた女性を捕まえたりしていたものなので。ある日突然訪れた虚無感から女遊びはぱったりと辞め、この島に来てからは全く、というのが現状であるが。
 女性に聞けば大半からは非難を受けそうな生活について、目の前の女性も嫌悪感を表すだろう。そう思うと須田は素直に言う気にはなれなかった。

「どんなストーカーだったんですか?」
「答えたくありませんね。」
「それもそうですよね。」

 瑠良は追及してこなかった。あるかないかが知りたかっただけで、具体的な内容は特に気にならなかったのだろうか。ポーカーフェイスが元に戻り自分に興味を示さない瑠良は須田にとって面白くない。もっと自分に興味を持ってくれても良いだろうに。

「あなたはストーカー被害に遭ったんですね?」

 話を続けたくて須田はもう一度問うた。瑠良の眉間に皺が寄る。須田は気にしない。

「わたしのストーカーはいませんよ。」

 瑠良はそう答えて、マフラータオルで顔を隠した。これ以上は答えない、と、暗に言っているようだった。
 しかし――どこか引っ掛かる言い方をしたのは、頭の良い彼女だから意図してのことだろう。いません、と、はっきり答えなかったのはどういう意図があってのことなのか、それは須田にはわからない。
 「わたしのストーカーはいない。」つまり、「わたし」以外の誰かにはストーカーがいるというのか。例えば姉妹か友人か、彼女が自分自身のことのように酷く怯えるくらい近しい人。

「湯冷めしますよ。」

 なんにせよ、この状況に気まずさと言ったらない。須田は白い首筋を晒して上を向いている瑠良に声をかけた。

「戻ります。おやすみなさい。」
「はいおやすみなさい。」
「またこうしてお話ししたいです、楽しいので。」
「……ええ。」

 瑠良はすっと立ち上がると、背中を少し丸めて去っていった。須田は最後の不意打ちにあてられて、瑠良の姿が見えなくなると大きなため息をついた。





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