trance | ナノ



 前任者は、この収容所で4年勤務した比較的若い男性だと知った。
 瑠良は前任者がどういう人間だったか全く知らされていない。デスクに残されたメモ類から男性であろうことは予想がついていたが、それ以外は全く。教えてもらえなかったのは緘口令があったからかと思いきやそうではなかったらしい。看守の1人が「前の人は若い男の奴だったから、そういうのが来るかと思ってた」と瑠良に向かって言ったところから色々教えてもらった。
 元々慢性的な胃痛持ちで、ちょっとしたストレスに弱い人だったらしい。この島の自然は彼の胃に優しかったそうなのだが、面倒な収容者が増えた所為で色々耐えられなくなったのだという。
 特に隠す必要がない情報なら、先に教えてくれてもよかったものを。急に決まった異動だから、前任者の身の上話をするまで気が回らなかったのしれないが。



 ところで瑠良だが。彼女は須田の言う通り、職場に慣れるための時間をあまり必要としなかった。瑠良自身はフレンドリーな性格をしていないが、周りの人たちが優しかった。

「線引さん、昼食一緒に行かない?食堂でさ、おごるよ。」

 それにはフレンドリーと言う意味もあれば、下心があるという意味もある。

「いえ、すみません。」
「今日もダメ?一度くらい一緒にどう?」
「お弁当がありますから。」
「いいなぁ、手作りの弁当。俺も欲しいなあ。」
「安く済むのでおすすめですよ。」

 これは下心がある方のお誘いだな、と、瑠良は瞬時に悟る。しつこさと距離の近さがそうであると勘が告げていた。
 異動してきて一週間経つと、なんとなく個々の性格が掴めてきて、近づいても大丈夫な人とそうでない人の違いが分かってきた。今目の前にいる男は近づいても大丈夫じゃない方の人だ。
 色んな人と仲良くしたいが、必要以上に親密にはなりたくない。ビジネスライクな関係でいたい。瑠良はしつこい男を無視して弁当を広げた。深くて大きめの弁当箱の7割にご飯が詰まっていて、上には卵と鳥そぼろが載っている。空いたスペースには詰めただけのさやえんどうとプチトマト、あとカニかまぼこ。
 瑠良はもう聞く耳持たないと察した男は、残念だと言って去っていった。新入りの物珍しさは一ヶ月もすれば収まるだろう。それまで我慢だ、自分。
 
 昼食は基本的に一人で食べている。デスクを突き合わせている用務員のおじさんは、出勤した朝と帰る直前の夕方にしか顔を合わせることがない、という日が多い。昼は同じくこの島で清掃員をしている奥さんと食べているのだという。
 本社にいた時も昼食は一人だったので問題ない。昼休みも誰かに付き合って自分の時間を潰すのは得策ではないので。
 弁当箱を空にし、歯磨きセットを持って給湯室に行く。先客がいなかったのでそそくさと弁当箱と箸を洗ってふきんて拭く。洗剤もスポンジもふきんも、全て瑠良の私物だ。ここにあるものが汚いというのではなく、経費で買った備品を自分だけが毎日使うのに気が引けたから。
 歯磨きをしながらSABOTのメッセージ機能を開く。用務員さんから草刈りを済ませてさっぱりした広場の写真、食堂のおばさんからは相談員に頼まれて作った料理の写真が送られてきていた。それぞれに返事をし、瑠良からは昼食の二色そぼろ弁当の写真を送っておく。
 「お疲れ様です」という挨拶とともに、名前の知らない看守が歯ブラシセットを持ってやってきた。瑠良は口の中を泡だらけにしたままだったので、深くお辞儀をするだけにして給湯室から出て廊下で歯を磨く。看守も歯ブラシを加えて廊下に出てくれたので瑠良は急いで口を濯いだ。弁当箱を抱えて給湯室を出る。
 午後の仕事開始まであと十分。休憩スペースの自販機に寄って無糖の紅茶でも買おう。自分で淹れてもいいが、冷えている物を楽に飲みたいので。休憩スペースには数人看守がおり、横の喫煙所には3,4人分の影がある。皆まだ名前の分からない人たちだが、唯一、一人だけ分かる人がいた。

「須田さん。」

 須田だ。彼は窓の外を見ながら缶コーヒーを飲んでいた。彼は瑠良に気づくと、いつもの人のいい微笑を浮かべて、どうも、と返事をした。

「お疲れ様です。須田さん、日勤だったんですね。」
「ええ。今日と明日は平和な日勤の予定です。」
「明後日は?」
「明後日は地獄の夜勤です。」
「地獄。」
「一緒に夜勤に入る後輩が、手のかかる新人でして……。」
「なるほど、大変ですね。」
「今から胃が痛いですよ、まったく。」
「それは早すぎる気が……。」

 そんな会話をしながら、瑠良は目的の無糖の紅茶を買う。ガコン、と、ペットボトルが自販機から落ちてくる音が妙に大きくてびっくりしてしまった。須田は缶コーヒーの中身を空にして、近くの缶用ダストボックスに缶を捨てる。

「何を教えなければいけないか、どこまで教えたか、自分の仕事以外にも考えることが増えるのは……ああ、面倒臭い。」
「後輩の育成もお仕事の一環です。」
「それはそうですけれど。」
「巡り巡って自分の為になります。」

 瑠良の返答に須田は不満そうだった。もう少し彼に寄り添ったアドバイスでもすれば良かったな、と、瑠良は反省しておく。
 連れ立って戻った詰所には誰もいなかった。午後の見回りであったり、別所での仕事であったりと皆忙しくしているのだろう。

「線引さん、話ついでに相談したいことがあるんですけど、今時間いいですか?」
「はい?」

 須田はそう言って、A4サイズの薄い冊子のようなものをいくつか抱えて瑠良のデスクにやってきた。彼は用務員さんのキャスター付き椅子を借りて座り、瑠良のデスクに横づける。瑠良の机の上に置かれた冊子は電機メーカーのカタログだった。

「これなんですけど。」

 広げられたページには、モデルルームのリビングがいっぱいに広がっていて、そこに風通しの良さを表したような白い波線が描かれている。須田の人差し指は、そのモデルルームの片隅にある白い機械を指していた。須田は続けて、ふせんの貼ってあるページを開く。白い機械――空気清浄機が紹介されている。

「空気清浄機、ですか?」
「はい。ご存知の通りここの空気はあまり良くありません。ので空気清浄機の導入を考えていただきたいのです。」
「あー……たしかにとても良いとは言えませんね。タバコの匂いとか、少し気になるものがあります。」
「そうなんですよ。」

 カタログにはメーカー希望価格で5万円ほどの値段が書かれている。瑠良は少々お待ちくださいね、と須田に断り、パソコンで財務会計システムを起動させる。3万円を超える買い物だと決済が面倒だが、予算は十分に残っているので、所長に頼めば決済を通してくれるだろう。

「……だめですか?」

 須田は可愛く小首を傾げた。その動作は「ある一定の層」に刺さるであろうことを計算してやったに違いない。

「わたしもあったらいいなと思うので、伺いを立ててみます。」
「え!良いんですか!」
「実際に買えるかは所長の判断によりますけれど。……でも所長はわたしに優しいのでお願いすれば多分通ります。」
「……ほほう。」
「なにか?」

 面白いものを見た、と言うように須田が声を上げるので、瑠良はどうしたのかと問う。須田は口元を手で隠して笑った。

「そのようなこと、言うのは意外だと思いましてね。」
「そのようなこと?」
「『所長は私に優しい』と。自覚あったんですね。しかも自覚があってそれを利用するだなんて、意外としたたかだなと。」
「一目瞭然ですからね。こういう時ばかりは女で良かったと思います。」
「良いことです。」
「……それは置いておいて。空気清浄機の件はお預かりします。期待しておいてください。」
「大いに期待しています。」

 須田はるんるんで看守受付へ去っていった。受付窓口前に座ってなにか書き物を始めた彼の背中は、嬉しそうに揺れている。鼻歌でも聞こえてくるような気がした。
 瑠良は空気清浄機のメーカーのサイトにアクセスし、須田からリクエストのあった種類の空気清浄機を確認する。事務員のパソコンは、所長用のものほどの自由度は少ないが、ある程度パブリックなサイトや安全性の高いサイトは閲覧できるようになっている。そうでないと業務に支障がでるのだ。
 メーカーから直接購入するとして、この孤島までいくら送料がかかるだろうか。――いや、本社に届けてもらってこの島へは使送して貰えば良いか。あれこれ考えて自動見積もりを取り、購入伺書を作る。購入理由には「社員の健康維持と職場環境の向上のため」と書いておいた。間違ったことは書いていないから問題ない。働き方改革が求められる今、職場環境をよくするためと書いておけば決済が下りるだろう。
 ついでに購入を頼まれていた消耗品の注文をしておく。この施設で使っているトイレットペーパーや消臭剤は、どれも妙にこだわりが強い。少し値が張っていても良いものが選ばれている。今気づいたが、それは須田の趣味ではなかろうか。あの所長はあまり気にする方ではないようだから。彼が所長の次にこの施設を牛耳っているに違いない。特に予定はないが、彼に逆らうのはやめておこうと思った。

 出来上がった購入伺書を持って所長室を訪ねる。所長は積まれた書類を相手にしていた。

「線引君!何か用事かな?」

 この所長は瑠良の中に自分の娘を見ているのだと思う。所長は高校生になる娘がいると言っていた。瑠良は高校時代など一回りほど前の話なので、所長の娘さんと比べたらずっとおば――おねえさんだ。所長は瑠良の中の娘的性質に父性を感じているのだろうか。

「購入したいものがありまして、そのご相談に。」

 実際がどうであれ構わない。害がなければ。所長はかけていたメガネを持ち上げ、瑠良の持ってきた伺書を斜め読みする。

「どうでしょうか……。」

 見積もりまで確認してもらったのを見計らって、自信がないフリをして問う。所長はメガネをかけ直して、うむ、と一言。

「空気が良いと仕事もしやすいだろう。買いなさい買いなさい。」
「わあ!ありがとうございます!所長、コーヒー淹れてきますね!」

 瑠良は少し大袈裟なくらいルンルンの態度で所長室を後にする。そのまま給湯室に向い、所長が使っているマグカップにドリップバッグをセッディングしてお湯を注ぐ。所長は砂糖もミルクもいらないので、バッグを外して盆に乗せてそのまま持っていく。所長は瑠良がコーヒーを淹れてくれたのでまた気をよくして、鼻歌で瑠良の知らない演歌を歌い始めていた。
 詰所にはまだ須田しかおらず、彼はさっきと変わらず受付窓口前で仕事をしていた。機嫌の良さは落ち着いたようだが、瑠良が声をかけると彼はまたご機嫌になった。

「空気清浄機、決済下りました。今日注文して、本社に届けてもらって……そこから使送をお願いするので、一週間くらいで届くはずです。」
「ありがとうございます、助かります。」
「いえいえ。」
「前の事務員は『必要ない』と言って聞かなかったんですよ。」
「まぁ……高い買い物ですからね。」

 その高い買い物を、瑠良の申し出と所長の一存だけで決めてしまうのは、いささか過程が少なすぎるような気がする。お金の運用を失敗して困るのは瑠良なので、その辺気をつけるつもりではあるが。

「今年度はもう大きな買い物が出来ないと思っておいてください。」
「はい、気をつけます。」

 瑠良はデスクに戻って、早速空気清浄機の注文をするためパソコンに向かった。開きっぱなしにしておいたサイトの注文受付ページに住所やらなんやらを入力する。

 その瑠良を須田は覗き見ていた。パソコンに遮られて顔は見えないが、額の部分がモニターの上に見えている。
 ――「わあ!ありがとうございます!所長、コーヒー淹れてきますね!」――須田の頭に、先ほどの瑠良の言葉が浮かぶ。所長室のドアは開け放たれていたので、どういうやりとりがあったかは薄っすらと聞こえていた。空気清浄機が買えると分かったときの、瑠良の弾んだ声。あんなに嬉しそうな高い声は聞いたことがなかった。購入を望んだのは彼女自身でないから、あの高い声はフリに違いないのだが、ああいう表現もするのか、と、須田はひとり感心していた。
 瑠良は冷静な女性だ。感情の抑揚は少なく、クールに物事を運ぶ。他の看守におだてられて礼は言えども喜んでは見せないし、ナンパを突っぱねてはいても嫌な顔はしない。しかし本当に冷静沈着で冷め切った風でないことは、今の所長とのやりとりや、食堂の皿洗いを手伝った件で察しがつく。
 多分、笑顔で礼を述べていたのだろう。その顔を見てみたかった。

 彼女には「難攻不落」という言葉が似合いそうだ。この男所帯で(ほぼ)紅一点となって浮かれないはずがない。笑顔を見せれば今以上にちやほやされるだろうに。それをしないのは聡明な判断だ。今以上に人気が出たら仕事どころではなくなってしまうかもしれない。やることの多い孤島の事務員はその道を避けなければ。
 内心何を考え、何を意図しているかはもちろん分からない。ただ一つ須田が言えるのは、そんな瑠良を少なからず「良い」と思っていることだけだった。





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