trance | ナノ



 孤島にある収容所での勤務は、自分には縁のないものだと思っていた。

 船に乗ってやってきた島は、良く言えば自然豊かで穏やかな、保養にはぴったりの場所であった。悪く言うなら「なにもない」とバッサリ切り捨てることになるが、この地で今日から働くことになったシーハイブの事務職員――線引瑠良にとってここは良い場所かである予感がした。
 線引瑠良は、つい先週まで本社勤務だった事務職員である。庶務と呼ばれる仕事をなんでもやるOLだった。その彼女がこの孤島に異動になった理由は「前任の事務員が過労で倒れ、病気療養のために休職することになったから」だ。

 もうその時点でいやな予感しかしない。
 閉鎖的なこの島で心労を溜めはじめたら、500円貯金がこんな調子だったら楽なのにと思うレベルでストレスが溜まると思う。発散する術が見つけられなかったら、尚更。前任者はガス抜きがあまり得意ではなかったのかもしれない。
 なぜ瑠良が異動候補者の中から選ばれたか、それは追々話すことになるだろう。ただ一つ彼女の名誉のために言っておく。決してこれは「島流し」ではない。彼女が優秀でないから流れ着いたわけではない、むしろ逆だ、一人で任せても大丈夫だろうという全幅の信頼があった。

 今日から暮らすことになる社員寮を横目に、収容施設に入る。事務室に向かう途中で看守に出会ったので所長室に案内してもらった。

「失礼します。」

 所長はニコニコ笑顔の優しいおじさんだった。本社にいるさっきだったおじさん連中とは正反対で、この地でのびのびと過ごしているのが一目で分かるようだった。

「やあやぁ、線引君。来てくれてありがとう。」
「今日からよろしくお願いいたします。」
「こちらこそよろしく頼むよ。ここでの仕事に難しいことはない。『向こう』よりのびのびやれるだろう。」

 それならばなぜ前任者は胃を悪くしたのか、そんな疑問が頭に浮かんだが、それは口に出さずすぐ消した。

「今日は施設見学と仕事の下見をしよう。今から案内するから、まずは荷物を置いてくると良い。」

 所長は上機嫌だ。久しぶりに若い女性職員が来たのでそういう意味でだろう。相談員には女性が多いらしいが、収容施設に居るシーハイブ職員で、比較的若い女性は今のところいなかったと事前にチェックした職員録から読み取ってある。こことは別にあるこの島の役所のような役割をする施設は男女比が5:5なので羨ましい。

 瑠良が事務室に入ると室内がざわめいた。事務室、と言っても、瑠良の仕事スペースは看守詰所とひと繋がりの部屋の隅の一角なので、ドアプレートには事務室とあるが実質看守詰所だ。事務室――事務職員スペースには物のないデスク一つと、仕事道具でいっぱいになったデスクがある。物のないデスクは瑠良のもので、もう一つのデスクは「用務員さん」のものだ。瑠良は空いているデスクに荷物を置き、ロッカーに寄る時間はないので貴重品は引き出しに入れて鍵を閉める。用務員さんは留守にしている。若い(と言っても、瑠良と同い年がそれよりちょっと若いくらいか)看守たちは瑠良を珍獣にするように遠目に見ており、中々近づいては来ない。それもそうだろうな、と、この男所帯に思った。

「おや。」

 せめてこれからフレンドリーになってほしい、と願ったところで、近くから声がした。瑠良は自分に向けられているらしい感動詞に反応して顔を上げた。目深に制帽を被った看守がいた。米神あたりにさらさらな髪の毛が見えていて、光を反射してちょっとだけ光って見えた。

「はじめまして。線引瑠良と申します、よろしくお願いいたします。」

 進んで挨拶をして頭を下げる。

「須田です。」

 須田、と名乗った看守は、黒い手袋を外した手を差し出してきた。瑠良はその手を取ってハンドシェイク。須田はその行動に満足したらしく、にこっと人の良い笑顔を見せてくれた。

「何か困ったことがあったら、いつでも相談してください。」
「はい、その時はお願いします。」

 とりあえず一人と挨拶ができてよかった。この調子であの看守の集まりも来てくれたら嬉しかったのだが、彼らはどうやら須田に対しても緊張しているらしく、今のところ歩み寄ってくれる様子はなかった。




 所長に連れられて島を回った。社用車という名の自転車で軽く中心地を回っただけだが、これで大体全部は見て回れたらしい。役所的役割をもつ総務課の建物、食堂、雑貨屋、図書館、公園――生活に必要な場所はここを押さえておけばまず平気だろうと所長が言う。
 昼時に合わせて訪れた食堂では、美味しいオムライスを頂いた。所長に奢っていただいたので、瑠良は今後の仕事の成果でお礼をしますと感謝した。所長はその言葉が大層嬉しかったようだった。食堂はちょうど昼時だったこともあり、看守や相談員、ほかこの島で働く人が散見した。皆、この島のトップである所長と、見たことのない女性の姿に注目していた。お蔭で瑠良はオムライスを食べた気がしないくらい緊張した。

 昼過ぎのおやつどき前、詰所に人が集められ、瑠良の紹介が行われた。朝は見回りなどの仕事が立て込んでいるため、こうして挨拶をするのはいつも昼過ぎなのだという。
 看守たちに加えて、ちょうどやってきていた相談員も集まる。瑠良を一目確認しておこうと思ったらしい。来てくれた相談員は5名、皆、瑠良より二回りほど年上に見える。包容力溢れるお母さんといった人たちだった。

「本日より配属になりました、線引瑠良と申します。本社の総務部からの異動してきました。よろしくお願いいたします。」

 よろしくの挨拶のあと、看守たちは口を揃えて「よろしくお願いします」と、統率のとれた返事をした。瑠良が挨拶をして頭を下げると拍手が起こった。瑠良には不慣れな体育会系の雰囲気がある。
 少し圧倒されたが、真面目でしっかりした人たちなのだろうと思う。前任の心労の原因はまだ分からなかった。

 前任者は仕事が丁寧な方だったので助かる。業務用マニュアルの他に、前任者が作った独自の手書きマニュアルが用意されてあって、それを読めばやるべきことの1から10まで全部分かった。
 事務職員としてここに来たが、仕事のほとんどは経理と変わらない。むしろお金の管理が主の仕事になりそうだ。仕事内容に不安はあまりないが、頼りになる人がいない状況は厳しい。同じく事務職員の用務員さんは仕事内容が大きく異なるし、所長には気軽に聞きにいけない。何かあれば総務課に赴くか、本土に電話することになるだろう。




 夜。今日は営業時間を伸ばしている食堂、である。
 今夜は瑠良の歓迎会が開かれる。所長と夜勤のない看守たち、そして時間の取れた相談員たちは食堂には集まって。皆で楽しく食卓を囲んでいる。ざっと見ると30人ほどだろうか。看守が20人、相談員が10人ほどいる。美味しいお酒とワインで皆楽しそうだ。瑠良は自分が歓迎されているのが分かって嬉しかった。

「線引さんさ、恋人いるの?」

 自分より少し年上だろうか。瑠良の隣に座る看守の1人が問うてきた。彼は顔を赤くしていてお酒くさい。彼の話題提供に反応して、周囲の看守たちが身を乗り出してきた。

「本土で誰か待ってる?本社の人?」

 まあこういう話題は避けられないだろうな、と、瑠良は腹を括って食べる手を止め、看守に苦笑いを向ける。

「どうですかね。」

 少し困ったように笑って瑠良が答えると、その答えで何かを察したらしい看守たちは、なるほど、と、首を縦に振り始めた。

「可愛いんだからいるに決まってるだろ。」

 さらに年上の看守が言った。それもそうですね、と、最初に質問してきた看守が笑う。
 そこからは各々の恋愛話になった。本土に恋人を残して遠恋する者、ここに来る前に別れてきた者・別れを切り出された者、単身赴任はつらいと嘆く者――当たり前のことだが、十人十色様々な話が出てくるのは面白かった。皆お酒が入っているお蔭でだいぶ打ち解けられたと思う。日中のよそよそしい態度はどこかに行ったようなので、明日からの仕事はもっと楽になると思いたい。どうか朝になってリセットされませんように。

 歓迎会は始まって2時間ほどで解散になった。二次会、宅飲みあとはご自由にどうぞということで、これから宅飲みに移行する所長を含む1グループが先に出て行った。
 瑠良もはやく自室に戻りたかったが、テーブルに残された皿を見るとそうするわけにもいかなかった。今日は無償でご馳走になっている。おばさんが独りできりもりする食堂に、この散らかった皿を残しておくわけにはいかない。
 と、いうことで瑠良は、ほとんどの人が出て行った食堂に残り、適当に食器を片付け始めた。

「あら!ありがとう。悪いわね、今日の主役さんに。」
「今日はご馳走になってばかりですから、これくらいしないと気が済みません。」
「そんな気を使わなくていいのに、嬉しいわ。」

 お皿を重ねてトレイに乗せ、おばさんに許可を頂いて厨房に入る。厨房は宴会の最中に幾らか片付けが終わっていたようで綺麗だった。

「流しをお借りします。」
「助かるわ。」

 おばさんに「やらなくていいのよ」と言われなくて良かった。瑠良は早速スポンジに洗剤をつけて泡だて、水の中に沈めた皿を1枚1枚洗い始める。皿洗いはやっていると無心になれるから好きだ。明日からの不安を一時的に忘れられる。
 瑠良の横でおばさんも食器洗いを始める。ナイフやフォークががちゃがちゃと鳴る音が厨房に響いた。

「収容施設は女の人が少なくて大変でしょう。困ったことがあったらいつでもここにおいで。」
「毎日来ちゃいそうです。ここまで男所帯だとは思いませんでした。」
「そうよねえ。今日は来ていないみたいだけど、相談員の女の子たちもいるから、明日はその子たちと会えるといいわね。」
「会えるといいなあ……。」

 本社も男女の比率は7:3ほどで女性は少なかった。それがもっと極端になっただけだと思えば――いや、そんな簡単なものではない。ここはほぼ10:1だ、10を超えたことには目を瞑って欲しい。

「でもここは今、本社にいるよりも安全なので……。」
「本社で何かあったのかしら?派閥争い?」
「そんな感じです。」
「逃げてこられて良かったわねえ。」
「ええ。」

 三十分以上は冷水に手をつけていたと思う。全てのお皿を洗い終えて大きくため息をつくと、ドッと疲れが来た。

「今日の主役に悪いことしちゃった。」
「いえいえ。」
「でもお蔭で早く終わって助かったわ。」
「そう言っていただけるなら重畳です。」

 おばさんにウーロン茶を一杯ご馳走になる。冷えたお茶が喉から胃に流れていくのが分かった気がした。
 時間外勤務、とも言えるくらい仕事をした気がする。今の瑠良にとってはこうして手を動かしている方が心的に楽だったので問題ないと思いたい。

「まだこちらに居たんですか。」

 洗い物を終えてぼんやりしているところに、看守の制服の男がやってきた。彼の名前なら瑠良にもわかる、須田さん、だ。

「こんばんは。」
「こん……いや、挨拶はいいでしょう。社員寮に戻っていないと思って心配してみれば、どうしてまだここに。」
「おばさんのお手伝いです、お皿沢山ありましたので。」
「はぁ……。」

 須田の反応は呆れから来たものなのかどうなのか、真意は瑠良には分からなかった。どちらかというと彼は「何を言っているんだ」という気持ちの方が強いだろう。瑠良自身もそう思う。来て当日、初めて入る食堂で皿洗いの手伝いなど。
 閉塞的な社会だからこそ可能な手伝いだと思う。もし本社の飲み会で、お開きになった後「皿洗い手伝います」などと言って厨房を尋ねれば、必要ないと言って追い返されるのが関の山だ。

「暗くなって道に迷ってはいけません。帰りますよ。」
「はい。」
「ありがとうねえ、線引さん。」
「こちらこそ美味しいごはんありがとうございました。」

 瑠良は須田に連れられて食堂を出た。外に出た瞬間、須田が大きなため息を吐いた。

「すみません、勝手なことをして。」
「本当ですよ。……ただ、まぁ、今回は良い行いでしたので、特に問題はありません。」
「良くはあるけれど歓迎はされていないということですね。」
「……ええ。」

 世の中そんなことばかりなので須田の伝えたいことはわかる。なので瑠良は自分の善行を軽くたしなめられても、反抗する気は起きなかった。

「寮までの道は覚えていますか?」
「はい、大きい建物でしたから。」

 それに、大きな道には街灯が立っているから、暗い今でもよく分かる。しかし瑠良は覚えていると答えてしまったことを少し後悔した。須田がこうやって迎えに来てくれたのに大丈夫などと言っては彼の優しさに反してしまったようで。

「……でも、暗い道は心細くなります。迎えに来てくださってありがとうございました。」

 なので瑠良は丁寧に礼を述べた。その感謝の言葉がよほど良かったと見える、須田は、フフ、と声に出して笑った。

「感謝されるようなことじゃありませんよ。」

 当然のことです、と続ける須田は嬉しそうだ。瑠良は正解を引くことができて良かったと安心した。

「頼りになる先輩がいて安心です。」
「おだてるのがうまいですね。」
「そういうつもりではありません。」
「そうですか。私も素直な後輩が入ってきて嬉しいですよ。」

 須田の言葉がどこまで本当かは分からない。しかし瑠良も「素直な後輩」と言われて悪い気はしない。ありがとうございます、とだけ返事をすると、須田からはどういたしましてと返ってきた。

「にしても、悪いですね。」
「悪い?」
「恋人がいる女性と夜道を2人きりで歩くなんて。」
「恋人?」
「隠さなくてもいいじゃないですか。さっき、他の看守たちと話していましたよね。」

 一瞬、なんの話だ、と不思議に思った瑠良だったが、さっきの話をすぐ思い出した。飲み会の最中に「恋人はいるか」と訊かれたあれだ。須田は近くにいたのか、聞いていたらしい。

「そういう人はいませんので、問題ありません。」
「おや?いるかのように振る舞っていませんでしたか?」
「お話を聞いていたのでしたら分かっていただけると思いますが、わたしは『いる』とも『いない』とも言ってませんよ。」
「……ははあ、あなた、中々の策士ですね。」
「どうかこのことはご内密に。仕事をする上でこういう話題は、あるよりは無い方が圧倒的にいいですからね。」
「同感です、そのようにしましょう。」
「ありがとうございます。」

 話の分かる人でよかった。
 恋人の有無はかなり重要な個人情報に当たると思っている。いるかいないかがハッキリしていると、それによって様々な利益不利益がある。何がどう作用するかは置いておくとして、瑠良にとっては「いる」と思われている方が都合が良かった。あの場でハッキリ「いる」と言わなかったのは、後から嘘をついたのかと言われても「嘘はついてない」と逃げられるようにするためである。

「さて、今日はお疲れ様でした。」
「歓迎会を開いてくださってありがとうございました。はやく馴染めるように頑張ります。」
「あなたのような人だったら、悩む暇もないでしょう。」
「そう願っています。」

 瑠良が不安げに笑うと、大して須田は人当たりの良い柔らかい笑みを浮かべた。その表情を見ていると、瑠良の悩みは杞憂であるように思えてくる。悩んでいても仕方ない、この島に上陸した時にそう腹を括ったのを思い出した。





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