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鞭と鞭


 いつも大きなレースが開かれる競馬場の厩舎に、新しい調教師がやって来たことが噂になっている。
 ディエゴ・ブランドーはその競馬場に、明日行われるレースのためにシルバー・バレットをつれてやってきた。同じレースに出るジョッキーたちが、新しい調教師について噂している。耳に届いてきたのは、どんな馬でも大人しく言うことを聞いていてすごいという話と、それが女性だという話。それを聞いたディエゴは、漠然と、いい女だと良いな、なんて考えた。

 おっ、あいつだ、と、周りがざわめいた。目深にかぶった帽子に、長いであろう頭髪を収めた調教師が、バケツを手にスタスタと歩いている。目元は見えないが、鼻筋の通った感じや、厚い唇なんかが、いい女なのだろうなという雰囲気を醸し出していた。露出した腕は程よく焼けていて、ちょっとだけ生傷がある。
 俺も調教されたい、俺も乗られたい、という気持ち悪いつぶやきが聞こえた。まああんな美人ならな、と思わなくもない。……本人に今の声が聞こえていなければいいのだが。あれで不愉快になってそれの所為で仕事に支障が出られたらとんでもない。言った本人たちは自業自得でも、こっちに迷惑がかかってはたまったものではない。

「ねえねえ調教師さん、」

 バチン!

「イタッ!!」

 すごく痛そうな音が響いた。その場にいた人たちの背筋が伸びている。

「なんですか?」

 女性調教師は、何事もなかったかのように問うた。痛いと叫んだ男は涙目で、自分の尻を強く押している。女性の手には馬用の鞭が握られていた。なるほど、と、ディエゴは理解する。

「い、いえ……なんでも……。」

 男は怖気づいてそれ以上なにも言えなかった。鞭で叩かれたことを怒れず、それに触れることもできず。男は尻を押さえながら、生まれたての馬のようにヒョコヒョコと去って行った。
 周りの男たちが戦慄している。誰も目の前の女がやったことをとがめなかった。声をかけただけで鞭で打つなど正当防衛でもなんでもないから、誰かが起これば女は謝罪せざるを得ないだろうに。しかしそうしないのは、帽子のツバの下に見えた女の眼光があまりにも鋭いからだろう。
 ディエゴは女が馬用の鞭をさしたバケツの中に「セオ・フロレアール」と名前の書かれた手袋があるのを見つけて、口の端を少しだけ上げた。声を掛けたらどう反応してくれるだろうか。

 女……セオは厩舎に戻っていった。ディエゴはシルバー・バレットに用事があるのを装ってついて行く。
 セオは見回りに来ただけらしかった。長い厩舎をゆっくり歩きながら馬たちを見て、指差しをしながら干し草や馬水桶の中身を見ている。

「ミス・フロレアール?」

 ディエゴはシルバー・バレットの傍らに立ち、セオの背中に声をかけた。セオは直ぐには振り返らなかった。ピタリと止まって俯き、下から睨みあげるように、ゆっくりと振り向く。凄みのある視線だった。

「何か御用事ですか?」
「なにも?手袋に名前が見えたから、呼んでみただけさ。」

 セオは自分の持っているバケツを見た。厚手の大きい手袋には、自分の名前が刺繍してある。他の人の手袋と混ざらないように、と、ここに来て施したものだ。初対面からあまり良い印象を持たれてはいなさそうだが、セオは手袋を裏返して名前を隠したり、眉をくっつけたりなどとあからさまな嫌悪感は表に出してはいない。していないのだが、セオは特に返事はせずに作業に戻ってしまった。ディエゴは柄にもなく慌ててセオに駆け寄った。

「愛想が無いな、何か言ったらどうなんだ。」

 気障ぶった話し方はやめてディエゴは再び声をかける。

「呼んでみただけならお返事することもないなと。」
「や、なにか、雑談でも。」
「なにか話すことがおありですか?」
「……いや、でもせっかくだから、」

 バケツの中から鞭を取り出すセオ。ディエゴは両手を上げて、首を振った。これ以上は近づきません、と、彼は1歩さがる。
 
「それでは。」

 セオは再び仕事に戻ってしまった。同じ空間に居るのに、まるで別々の厩舎に居るようだ。これ以上声をかけても無駄だな、と悟ったディエゴは、多分セオにも聞こえる声量でシルバー・バレットに「こんな時もあるよな」と投げかけた。ディエゴは自分の諸々だらしない部分に自覚がある。だから今回は仕方ないと"今は"彼女を諦めつつも、明日のレース後声をかけてみよう、と、懲りずに考えていた。


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2019年4月リク企画
いとま様より
ディエゴ
何か競馬の道具 / 競馬場 / 競馬場の人
(ディエゴが嫌いな夢主)
でリクエストいただきました
ありがとうございました!






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