デススト | ナノ
 Distortion _ 10 /

 テーブルの上のエネルギーバーは殻だけになっていたが、ヒッグスはセオが入眠するときと変わらない格好で眠っていた。
 セオは昨日の朝、ヒッグスが不機嫌になったことを思い出し、まあいいやと忘れることにし、ベッドから起き上がる。一歩踏み出したところで動けなくなった、服が何かに引っかかっているらしい――振り向くとヒッグスがこっちを見ていて、セオの服の裾を掴んでいる。

「おはようございます。」
「おはよう。」

 ヒッグスは夜中のうちにブリッジズの上着を脱いでいて、何をどうしたらそうなるのか上はヨレヨレのシャツ1枚になっている。

「どこに行く?」
「昨日と同じです、外を見に。アングレールさんも一緒に行きましょ。」

 不機嫌、というよりは、眠いだけのようなヒッグス。彼はゆっくり起き上がって伸びをし、上着を着て立ち上がる。

「手。」

 ヒッグスが手を出す。セオは笑ってその手を取った。生身の人の手を触るなんて、いつぶりだろう。起きたばかりのヒッグスの手は温かくて、セオは思わずギュッと握った。ヒッグスもそれに返事をするように、ギュッと指に力を入れていた。

 できれば寝ている間に全てが終わって欲しかった。今から15時間近く、起きている間に何かが始まらないかとヒヤヒヤする羽目になってしまった。配送センターの坂道を歩いていると、「いってらっしゃい、お気をつけて。セオ・フェレ、ピーター・アングレール」と声がした。
 上がる途中で空が白い雲で覆われているのが見えた。赤い空も、緑色のオーロラもなかった。いつも通りの冴えない曇天で、セオにはそれがありがたかった。特別、安心して腰が抜けたり、嬉しくて涙が出たりなんてことはなくて、ただただいつも通りの空を見た。

「いつもどおり……。」

 多分、絶滅とか、ビーチで起きていることとか、そういうあれこれが――セオには曖昧にしか知らないが――解決したのだと思う。多分。車両止めが上がっていたので、セオはそこに腰掛ける。地上に比べて上空は風が強いのか、雲の流れが速い。いつも通りの空で安心するような気がした。曖昧なのは、今の複雑な心境に自分がついていけないからだ。

「何もなかったですね。」
「……何もなかったな。」
「残念そうです。」
「ああ。」

 ヒッグスもセオと同じように車両止めに腰掛け、背中を丸めて地面を見た。本当に残念そうで情けなく見える。あの尊大な態度は完全になりを潜めていて、生きる気力も残っていないんだろうなとセオは思った。

「レイク・ノットに戻ります。空がいつも通りになったので、あっちも問題ないと思うんです。」
「俺は?」
「来ますか?」
「まさか。」
「じゃあシェルターまで送りますね。」
「……もう会えなくなる。」
「会えないことなんてありません。ビーチが安定したらカイラル通信が復活して、またメールも電話も出来ますし、休みの日には遊びに行きますよ。」
「……。」

 とにかくマイナス思考というか、ヒッグスはネガティブな雰囲気を纏っている。待ち望んだ絶滅が回避された(らしい)から無理もない。

「俺にはもう生きる希望がない。お前がレイク・ノットに帰ったら、それこそ『無』だ。」
「わたしがあのシェルターに住めば解決とでも言いたいんですか?」

 自信過剰かもしれないけれど、ヒッグスの言い分だとセオにはそう受け取れた。ヒッグスは目を大きくして、少し頬を赤くして、そして目を逸らした。まるで乙女のようで、セオは可笑しくなって吹き出してしまった。
 ヒッグスはアメリを失って、新しい依存先を自分に見出しただけなのだ、と、セオは思う。アメリを使った野望は消え、あとは死ぬだけだった人生に今更何も希望が持てないのは当然で、ヒッグスにはそこにちょうどよく自分を救ってくれるセオが現れた。そこになにか――運命だかなんだか、セオには分からないが――を見出したのだ。ヒッグスのシェルターを見た感じ、彼はアメリに依存しつつサム・ポーターにも執着していたようだが、サムの方はどうなのだろう。サムにはビーチでコテンパンにされて、その後は会っていないのか。ヒッグスがどう思っていようと、サムにとってヒッグスはボコボコに殴るほど許しがたい敵、だとしたら会えるわけもない。
 面倒な人に好かれたな、と、セオは心の中でため息をついた。物事に依存するのを悪いとは言わない。周りに迷惑をかけなければ、依存というのは生きる希望を持てる大切な現象だ。しかしそれが自分に向くことになるとは思ってもみなかった。人と人との繋がりが希薄な現代で、セオは母親以外に密になる「他人」ができることになるなど考えたことがなかったのだ。ヒトは異性に惹かれるもの、というのも少し前時代的な考えで、異性(同性、ほか他人)に対して欲のないヒトも多い。セオは自分もそうだと思っているが実際どうなのか分からない。

「す、住んでくれるのか。」
「いえ……。」

 とっさに返事をした後で返事を間違えたとセオは後悔した。反射的に「いえ」と言った途端、ヒッグスの表情がみるみる雲っていった。

「付き合っているわけでもないのに。」

 傷付けたついでに続ける。

「それもそうだ……。」

 言い過ぎたと反省はするが撤回はしない。今後気をつけよう。
 もしヒッグスに告白されたらどうしようか。セオはそんなことを考える。彼のことは嫌いではない。好きとは言わない、嫌いじゃないだけだ。彼のやったことは許せない、ミドル・ノットシティの件も、フラジャイル・エクスプレスでの行いも、今回の絶滅に関するあれこれも。しかし、何度も言うが、セオは彼の中に見出してしまった闇に触れてしまったので、今は慈悲に近い感覚がある。罪は償うべきだが、アメリの「裏切り」によってヒッグスは十分傷付いているし、サムにずたずたにされたのもある意味折檻になっただろう。追い討ちをかける必要はない。――なら、恋人同士になれるか?――セオは自分に問いかける。不可能ではない、と思う。そんなこと、実際に告白されなきゃ分からないし本気で考えられない。

「電話します。出られない時はメールをください。わたしも遊びに行きますが、ヒッグスもレイク・ノットに来てください。わたしたちは繋がっているんですから。」

 セオがヒッグスのためにできるのは、そう言ってなんとか「繋がり」があることを彼に自覚させることだけだ。貴方は1人ではないと伝えるのがこんなにも難しいとは思わなかった。
 ヒッグスは、あぁ、と返事をして、正面を眺め続けるだけだった。上の空なわけではなく、ただ照れているだけのようである。

「さぁ、早く出発しないと。日が暮れる前に帰りたいです。」

 レイク・ノットシティは遠い。早くしましょう、と、セオが立ち上がると、ヒッグスも立ち上がって素直に帰り支度をしてくれた。

 今朝も配送センターに人の影――ホログラムの影はなかった。お世話になりましたの一言を伝えたかったので残念だ。
 リフトから上がってきたトラックが、昨日車庫に入れた時と何も変わらない姿だったのをみて、改めてブリッジズの忙しさを感じた。車体整備をしている余裕はない、ということなのだろう。時雨に遭遇していないおかげで、トラックは跳ねた泥で車体が汚れたくらいで大した損傷はない。このまま帰っても問題はない。しかしセオ自身には、サウス・ノットシティの職員たちが忙しくしているだろう姿を想像し、レイク・ノットシティに思いを馳せ、また申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 カイラル通信はまだ復活していない。セオの手錠端末は一昨日の状態で止まっている。サム・ポーターが大陸を横断して繋いでくれた通信が、この件のせいで無駄になって欲しくない。なんとか復活してくれることを願う。
 ヒッグスは眠そうにウトウトしている。昨日の疲れがとれていないのだろうか。彼はセオが朝食にと差し出した袋に入ったエネルギーチャージゼリーの容器を咥えて、チビチビと飲んでいる。減っているように見えないから、本当に咥えているだけなのだろう。
 結局彼は、トラックがクラフトマンのシェルター横を通り過ぎるまで口を開かなかった。ずっと起きてはいたようで、時々ゼリー飲料が入ったままの袋型容器を口から落としそうになるたび、手で押さえていた。数時間、いや、半日以上そうしていて、ヒッグスはだいぶ疲れたのではなかろうか。

「本当に行くのか?」

 ヒッグスが半日以上ぶりに発声する。セオは質問の意味を考えた。本当にシェルターに向かうのか?ということなのか、セオは本当にレイク・ノットシティに帰るのか?ということなのか。

「ヒッグスをシェルターに送って、わたしはレイク・ノットに帰ります。今日の予定はそれだけです。」

 返事はなかった。
 セオは気にせず岩場を走って、ついにヒッグスのシェルターに到着した。トラックごと敷地内に入って、シェルターの入り口目の前で停まる。ヒッグスのIDを確認したシェルターが入り口のシャッターを持ち上げた。ガラガラ……と少し錆びつきを感じる音がトラックの中にも響く。ヒッグスが降りないので、セオは先に降りてぐるっと周り、助手席側のドアを開けた。ヒッグスはゼリー飲料に蓋をして、それを握っていた。

「ヒッグス。」

 セオが呼ぶと、ヒッグスはちらりとセオを見た。彼は渋々トラックを降りる。

「ほんとにレイク・ノットに引っ越してきません?」
「無理だ。」
「じゃあ、遊びに来ます。連絡ください、最初の時みたいに。」
「本当にか?」
「ええ。」

 ヒッグスはセオの手を取って、その手の甲をじっと見つめた。なぜ手の甲なのか、その理由はないと思う。ただ、セオを離したくなくて、でもどうすればよいか分からなくて。叱られた子供が、大人の方が諦めてくれるのを待っているような、そんなだんまりが続く。

「落ち着いたら、アメリも会いに来てくれますよ。」
「アメリはもう、俺のところには来ない。」

 そんなこと分からないでしょう、と、セオは心の中で言う。声に出してはヒッグスを傷つけてしまうと分かっていた。
 ヒッグスはセオの手をパっと放した。優しさのない手放し方は、ぶっきらぼうで彼らしく思えた。

「じゃあわたしが来ますから。お互いしっかりやりましょう。」

 セオはそう言って、ヒッグスを一瞥しただけでトラックに乗った。エンジンをかけ、バック走行で敷地を出る。名残惜しく思っても、後ろを振り返って手を振ることはしない。いつまでも離れられなくなってしまうから。




 レイク・ノットシティに帰ってきたのは、日付が変わった頃だった。スーパーセルも、悪天候もなにもない、穏やかな夜の景色が広がっている。セオは泣きそうになりながら配送センターから施設に下る。配送端末をいじってトラックを車庫におろすと、端末から「セオ!」と男の人の声がした。セオが属するラボのヘッドだ。

「ヘッド!」

 久しぶりに見る職場の人の姿に、いよいよセオの涙腺は危うく崩壊するところだった。泣いてはだめだと自分を叱り、セオはぐっと我慢をする。

「無事でよかった!はやく降りてきなさい、皆心配している!」
「今下ります!」

 セオはヘッドのホログラムが消える前に端末を切り、リフトに飛び乗った。

 もう夜中だというのにラボには人が残っていた。事務員たちが追われているのはいつもの仕事内容ではなく、カイラル通信のテストだった。サム・ポーターが繋いだ生命線たるカイラル通信は、今では無くてはならないものになっている。だから昼夜を問わず、24時間体制で通信復活を待っているのだ。
 セオが知りたいことは、ヘッドが説明してくれた。カイラル通信の不調は、ビーチが原因だということ。それを教えてくれたのは、通りがかった――というか、フラジャイルジャンプで現れたフラジャイルとハートマンだということ。曰く、ビーチで起きている"何か"のせいで、カイラル通信が不安定になっているということ。スーパーセルにサム・ポーターが巻き込まれ、一時騒然としたが、彼は今キャピタル・ノットシティにいること。現状についての詳しい説明は、キャピタル・ノットシティで全容を確認し、カイラル通信が復活し次第、全ブリッジズ施設に説明するということ。など。
 セオはヒッグスから聞かされていたから、今レイク・ノットシティで知りたがっている情報のほとんどを答えられそうだと思った。もちろんセオは何も言わない。言った方がブリッジズには有益なのはわかっている、しかしセオは自分とヒッグスの益のために口を開かない。これが今最善の行いだ。

「セオはどこで凌いでいた?あのスーパーセルを見て帰ってこれなかったんだろう。」
「はい。なので南配送センターに一泊して、次の日はサウス・ノットシティまで行きました。」
「独りでか?」
「途中で帰れなくなっているプレッパーを発見したので、その人と。ピーター・アングレールという、ミドル・ノット近くに住む男性です。」

 ヘッドはセオの話を聞いて、デスクトップパソコンを使ってピーター・アングレールを調べ始める。彼はアングレールのシェルターの場所を地図で確認して、あぁ、と理解したように返事をした。

「レイク・ノットにあったスーパーセルがどう動くか不安だったので、一緒に南配送センターに行って、翌日も天気の様子を見てサウス・ノットシティまで一緒に行きました。」
「彼は?」
「天候が回復したので、シェルターに送って別れました。」
「そうか、彼も無事ならよかった。」

 下手に同行者のことを隠すと怪しまれる。セオはアングレールについてきちんと答えた。彼の存在を隠そうとしても、ID認証でアングレールが同行していたことはすぐに知られてしまう。隠せば何かあるだろうと疑われ、ヒッグスのことがバレてしまうかもしれない。幸いヘッドはセオの行いについて褒めるだけでこの話は終わった。

 セオはこのまま休みを貰い、シフト通り明日の朝から仕事に復帰することになった。自室に戻り、ベッドに倒れこむ。とにかく色々な疲れが重なって、今日はもう動く気にならなかった。ずっと心配していた絶滅は無かったことになりそうで、それが分かった今、あとのことはどうでもよかった。
 もう寝てしまおう。朝起きたら仕事だ。




 夜中。
 「ロンドン橋」のメロディで目が覚めた。セオは飛び起きて、久しぶりに蛍光ブルーが震える手錠端末を起動させる。カイラル通信が復活したのだ。一番にメールを開くと、未読のメールがこんもりと溜まっていて、いつもなら面倒くさくなるその光景が今はとても嬉しかった。律儀にタイトルがつけられたメール、タイトルはどれも「大丈夫?」「今どこ?」「戻ってきてください」など、こちらもセオの安否を心配してのものだった。着信履歴も沢山ある。どれもブリッジズメンバーからの着信で、時間的にセオが出かけている間に心配してかけてくれたものだ。
 メールの、最新の一件だけは違う。差出人はピーター・アングレール。送信時間はついさっき。無題のメールを開くとそこには「寂しい」とだけあった。
 メールの送受信をする。通信速度は遅かった。カイラル通信が不安定なのと、ブリッジズ職員が皆一斉に手錠端末を使っているであろう状況からきている通信速度だと思う。この様子だといつ届くかは分からないが、ヒッグスからのメールに返信をしておこう。
 タイトルは無しで、本文には「また会いに行きます、生きててください」と。送信ボタンを押して、送信完了と表示が出るのを待つ。普段よりずっと長い時間がかかった。やっとのことで送信は出来たが、受信するのにはまた多くの時間がかかるだろう。セオは続いて天気予報の画面を開く。こちらはまだ更新されていないようだ。読み込み中のぐるぐる渦巻きが動くばかりで何も変わらない。こっちはまだまだかかりそうだ。バッテリーが無駄に消費されるだけだから、端末を落としてもう一度寝よう。
 事態はいい方に向かっているが、両手を挙げてハッピーだと喜びきれない。せめて寝て起きたら、今よりもっと良くなっていますように。セオはそう祈りながら、再び目を閉じた。







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