デススト | ナノ
 Distortion _ 08 /

 西へ向かう旅は険しいものだった。一度全ての文明を無にされてしまった大地は人に優しくはない。充分な量の資源と車両、能力者とBBがあっても、旅はひたすら困難だった。
 第一次遠征隊、その行手を阻んだのは時雨やBTだけではない。ミュールやディメンスと言った人間すらも脅威になっている。今ではグラウンド・ゼロ湖以東にはディメンスの姿は確認されていないが、セオたち第一次遠征隊が出発した頃は、ある地域に存在していた。グラウンド・ゼロ湖に到達するまでの道の中で、そこが1番の難所だったと思う。

 キャピタル・ノットシティ西配送センター手前でディメンスに出くわした。その時セオはのちにレイク・ノットシティで一緒に残ることになるウィリアム・レイクはじめラボの仲間たちと共に、最後尾のトラックで移動をしていた。ディメンスの応戦には、そのメンバーと武装した兵たちが参加した。1人1丁ずつポーラガンを持ち、ディメンスを捕らえる。人を殺してはいけない。ここで捕らえたディメンスは、キャピタル・ノットシティに送還される。
 セオは女性なのでポーラガンを受け取りながらも後衛を任された。相手は実弾を使ってくるので、もし弾に当たった人がいたら、その人を手当てする役割が必要であり、セオはそれを任された。実際に被弾して血を流すメンバーがいた。怖くて仕方なかった。覚悟して志願したが、初めての実戦に震えが止まらなかった。
 1人の職員を手当てしていたときのことである。突然セオとその職員に影がさした。誰だろうと思って顔を上げると、そこにいたのは全身黒尽くめのディメンスだった。ナイフを構えていて、その切っ先をセオに向けている。危ない――そう思った時にはもう手が動いていた。
 ポーラガンを掴み、思いっきり振った。この距離では発射される縄が広がれないと思ったので、本体で殴ったのだ。ディメンスは倒れ、動かなくなった。うまく気絶させられたと思ったのだ。怪我をした職員は無事で、敵を退けることができて、セオは満足していた。
 しかしその安心はすぐに消え去ることになる。手当てで手が離せないセオは他の職員に敵の処理を任せた。その職員が一言呟いたのだ。「死んでる」と。セオの顔から血の気が引いた。手当てを一旦止め、立ち上がり、横たわるディメンスの顔を確認する。ヘルメットの内側に赤い血の色が見えた。開かれた目はどこも見ていなくて、呼吸もない。恐る恐るヘルメットを外すと、こめかみから出血しているのがわかった。
 ああ、セオは悲鳴こそ上げなかったが、いやだ、そんな、ごめんなさい、と、うわ言のように呟くのを繰り返し、腰の力が抜けてぱたんと座り込んだ。血の出るこめかみに手を当てる。生暖かくて生々しくて、セオはじんわりと涙を流した。
 リーダーのウィリアム・レイクが近くで指揮をとっており、彼は一通りディメンスが片付いたのを確認してから、異変のあったセオに近寄った。

「わたし……人を……殺した……。」

 レイクの脚にすがって、セオは弱々しく言った。レイクはセオを上から抱きしめ、大丈夫ですと言って背中を叩く。ついにセオは大泣きを始めてしまい、落ち着くのに数時間はかかってしまった。

 セオが手当てをしていた職員は「あれは間違いなく正当防衛だった」と証言した。状況からしても仕方のないことだったとレイクも他のメンバーも納得してくれている。
 ただ1人、セオだけが自分の行いに納得していなかった。
 他にも、倒れた時に頭の打ちどころが悪く命を落としたディメンスが1人居た。2人の死体はキャピタル・ノットシティの死体処理班に任せて、セオたちはまた西へと向かう旅に戻った。




 セオの愛車は快適なドライブを続けている。空の色がどんどん濃くなり、オーロラの量も増えていく。思い出したくないけど忘れてはいけない過去を回想したセオは、今の空を美しいと思って見上げた。
 ヒッグスは黙って道の正面を見ていた。何があったのか、と、問われなくて、セオはほっとしている。

 世界最後の日に何をしたい?そんな問いを、旧世界で作られた映画でよく耳にした。恋愛が絡む映画なら「あなたと一緒にいたい」そうでないなら「穏やかに過ごしたい」「好きなことをして終わりたい」。旧世界の人たちは、自分の身にはやって来ないであろう世界最後の日を想像した作品を多く生み出した。しかしそんな彼らにも世界最後の日がやってきた。
 今、セオは自分に問う。世界最後の日に何をしたいか。何をしたいか――わたしなら、予定通り国道の復旧作業をして、配送センターのプライベートルームに帰って、シャワーを浴びて眠りたい。できることなら浴槽に浸かって、うとうと気絶したい。いつも通りでいい。残念ながら「あなたと一緒にいたい」と言いたい相手はいない。恋愛でなくていいなら、ラボのメンバーと一緒にいたかったけれど。
 だからこのまま国道を走って、セオは予定通り資源を運ぶ。それにヒッグスがついてきているのは、単なる成り行きだ。

「ここです。」

 1時間ぶりに口を開いた。復旧している国道の1番端に車を停めて、セオとヒッグスはトラックを降りる。セオがフローターを繋ぐのを見て、ヒッグスは金属とセラミックを下ろしてくれた。1人1つずつフローターを引っ張って国道復旧装置に近づく。

「……あれ。」

 装置に近づいて、いつもと何かが違うことに気付いた。装置は起動するのだが、資源を受け付ける機能が動いていない。赤い文字で通信障害と表示されているのを読んでセオは全て理解した。

「カイラル通信……あぁ……あああ……。」

 カイラル通信が機能していない今、カイラル・プリンターで国道を復旧しているこの機械も機能しないのだ。全く気付かなかった。これでは国道の復旧が出来ない。世界最後の日にしたいことが叶わないではないか。

「なるほどな。」

 ヒッグスもモニターを覗き込む。彼はニヤニヤ顔でセオを煽った。

「なんですか、そのお顔は!」
「残念だったなぁ。」
「ウウ!」
「さて、やることがなくなったから配送センターだ。」
「悔しい……ここまできたのに国道を全開通させることなく絶滅なんて……。」
「絶滅しないんじゃなかったのか?」
「……そうです!絶滅なんてしませんからね!」
「忙しいな、お前は。」
「置いて行きますよ!!」

 ヒッグスの人を馬鹿にした笑い方が気に入らなくて、セオはそっぽを向いてさっさとトラックに戻る。置いて行くぞと脅したって、セオにはそんなこと出来ないというのはヒッグスもセオ自身もわかっている。だから先に資源を積み直して運転席に座ったセオが助手席に戻るヒッグスを待っていると、ヒッグスは「置いて行くんじゃなかったのか?」と再びセオを煽った。セオはヒッグスの肩を殴った。
 サウス・ノットシティが目と鼻の先に見えているのに辿り着けなくて悔しい。なんなら、マウンテン・ノットシティまでの道も作りたかった。世界最後の日にやりたいことができなくてセオはイライラした。いや!違う、世界最後の日ではない!――セオがあれこれ考えては頭を振り、百面相をして運転するものだから、ヒッグスはずっと吹き出すのを我慢するはめになった。




 レイク・ノットシティ南配送センターに入る坂道を下り、トラックを車庫に納める。カイラル通信はここも駄目になっていたけど、電源は生きているので車庫もプライベートルームも普通に使える。つい最近まで、この辺も通信が繋がっていなかったのだから、少し不便な頃に戻ったと思えばいい。
 ヒッグスが配送センターの領域に入った時、ピーター・アングレールとしてID認証されたのにはホッとした。サザーランド代表にはヒッグスのことを「道で拾ったので」と適当に理由をつけて説明して、一晩部屋を貸してもらうことにした。
 2人でリフトに立ち、プライベートルームが並ぶフロアへ降りる。いくつかの部屋はすでに在室になっていた。通りかかったポーターが避難しているのだろう。

「ではわたしはこの部屋にいるので、……ええと、アングレールさんは隣を使ってください。」
「わかった。」

 セオはプライベートルームの扉を開け、久しぶりに来るこの部屋に入りながらグーンと両腕を伸ばした。長いこと同じポーズでトラックに座っていたから、手足が伸ばせて嬉しい。

「へえ、ここはいつもお前が使ってる部屋なのか?」
「……や、ちょっと入って来ないでくださいよ。隣って言ったじゃないですか。」
「絶滅の時に1人は嫌だ。」
「絶滅しませんってば。」

 同じ部屋に入ってきたヒッグスを押し出そうと、セオは彼の肩を両手で押すがビクともしない。さすが元ポーターは体幹がしっかりしている。――そうじゃなくて。
 ヒッグスは部屋の中をぐるりと歩いて隅々を見て回った。彼のいう通りこの部屋はセオがいつも使っているプライベートルームだ。部屋が全て埋まることなどまずないから、サザーランド代表はよく来てくれるセオのためにと一部屋リザーブしておいてくれている。だからこの部屋にはセオの私物であるぬいぐるみや本が置いてあった。

「クリプトビオシスのぬいぐるみか。好きなのか?」
「食べはしませんけど見た目が可愛いので。……ちょっと待ってください、座る前にシャワー浴びてください。アングレールさんすごく汚れてるんですから。」
「わかった。」
「……ここじゃなくてあっちの部屋で!!」

 おもむろに上着を脱ぎ始めるヒッグスをセオは全力で止めた。ここで脱がれたら困る、とても困る。どこを見ればいいのか分からなくなる。ただでさえあのシャワールームは曇りガラスでもほぼ見えているというのに。

「あっちに行ったら俺を締め出すだろ。」
「当たり前です。」
「最期の時に独りは嫌だ。」

 ヒッグスは両腕を広げ、ゆっくりとセオに近づいた。セオが下がらないのを見た彼は、そのままセオを両腕の中に閉じ込める。

「一緒がいい。」

 切なげな声でそう言われ、セオは参ってしまった。悲しむ人を放っておけない善人ぶりがセオに災いして、ヒッグスの功を奏した。

「……分かりました。じゃあ扉はアングレールさんのIDでも開くようにしておきますから、まずは汚れを落としてきてください。あっちの部屋で!こっちはわたしが使うので!」
「一緒に……、」
「通報しますよ!」
「そんなことしないくせに。」

 ヒッグスは肩をすくめて出て行った。
 扉が閉まったのを確認して、セオは素早く服を脱いでシャワールームに飛び込んだ。ヒッグスが戻る前に全部済ませて元の状態になっておかないと。人生最期かもしれないシャワーなのに、焦って入らないといけないなんて。あれもこれも上手くいかなくて凹んでしまう。
 セオは絶滅なんてしない・したくないと主張するが、本当は分かっていた。ザワザワする心中は、夢で見た絶滅の時がもう直ぐやってくるのだと理解していた。絶滅なんてしないと声に出すのは、そうしないと気が狂いそうだからだ。
 シャワーを浴びていると余計なことを考えてしまって良くない。セオはさっさとシャワールームを出て部屋着に着替え、ヒッグスが戻るのを折りたたみ式ベッドに腰掛けて待った。仰向けになってベッドから脚を垂らし、首の下にクリプトビオシスのぬいぐるみを挟む。金属の灰色をした天井を見ながら、手錠端末を起動させる。天気予報は相変わらず情報を更新しないし、メールは送受信ができない。お腹の上に両手を乗せて腹式呼吸を繰り返していると、段々に眠くなってきた。寝てはいけない、ヒッグスを待たなければ。
 山の方に住む写真家が作った写真集が近くにあったので手に取って広げた。写っている写真はどれも、苦労して雲の晴れ間を探して撮った写真だ。全体が青空とはいかないが、すべての写真は一部でも空が青色をしている。今は国道や橋が作られて景色が変わっている。この写真は、何もなかった頃の記録として将来大切にされるだろう。

 ヒッグスが戻って来ない。いくらなんでもシャワーだけに時間をかけすぎだ。セオは何かあったのか不安になって起き上がると、隣の部屋に向かった。
 セオのブリッジズIDで隣の部屋も開くことになっている。扉を開け、全裸のヒッグスがいるかもしれない可能性を避けるために、顔を入れずに「アングレールさん」と呼ぶ。返事はなかったがシャワーの音がする。セオはゆっくりとプライベートルーム内に目をやった。

「アングレールさん!?」

 セオは部屋に飛び込んだ。ヒッグスがシャワールームに座り込んでいるのだ。セオは外部についた緊急停止ボタンを押し、シャワーを止めて扉を開ける。ヒッグスは胡座をかいて俯いていた。セオは備え付けられていたタオルをヒッグスの脚の上にのせ、ギリギリ「あれ」が見えないように対処する。

「アングレールさん、起きてください。」
「……セオ?」

 ヒッグスは顔をあげ、ぼんやりとした表情でセオを見た。顔の汚れも、体の汚れも綺麗に流れ落ちていて、やっとまともになっている。のに具合が悪そうだ。

「とりあえずそれお腹に巻いて、立ち上がってドライヤー浴びてください。」

 セオはヒッグスの腕を上に引っ張って、彼に立つよう促す。ヒッグスは立ち上がってセオのいう通り腰にタオルを巻いて、シャワールームから発生するジェットドライヤーで身体を乾かされた。セオはその間に、部屋に備え付けられた寝巻きを引っ張り出し、ヒッグスの乾いた肩にかける。ヒッグスノロノロとそれに袖を通し、しっかりとボタンを止めた。マキシ丈の寝巻きは、着るとヒッグスの膝まですっぽりと隠した。下も履けますか?とセオが差し出したボトムスを見て、ヒッグスはそれを受け取って履く。ボトムスの下に何も履いてない気がしたが、それは言わないでおこう。
 ヒッグスは折りたたみ式ベッドに倒れ込むように寝転んだ。うつ伏せになって深く深呼吸をし、体の右側を下にしてうずくまる。腕はこまねいていて、セオがシェルターを訪問した時と同じポーズになった。この体勢が落ち着くのだろうか。

「のぼせました?」

 セオはヒッグスの頭の方に座り、ドライヤーで乱された髪を撫でた。

「少し。」

 ヒッグスは正面にある空のショーケースを見ながら答えた。セオが水を取ってこようと思って立ち上がると、ヒッグスはセオの手を掴んで離れないよう引き留めた。水を取ってくるだけです、と言ってセオがその手を叩くと、ヒッグスはつまらなそうに手を放してぼとんとベッドの上に落とした。
 セオはヒッグスのために用意した部屋を出て、その隣の自分の部屋に戻る。備え付けの冷蔵庫にミネラルウォーターをいくつもストックしてあるから、それをヒッグスに飲ませようと思う。冷蔵庫を開けたところで、部屋のドアが開く音がした。セオが音のした方に目をやると、ヒッグスが壁に寄りかかってズルズルと座り込むところだった。

「ベッド使ってください。床に座っては身体によくありません。」

 せっかく座ったところを引っ張られてヒッグスは不機嫌になる。口をヘの字にしていて子どもっぽい。彼はヨタヨタと自分で歩いてベッドに座り、セオから受け取ったペットボトルの蓋を開けて口をつけた。顔も腕も赤くなっていて見れば見るほど調子が悪そうだ。しかも血とタールがすっきり流れ落ちたので傷の跡がはっきり見えるようになった。寝巻から覗ける首や手足は、痣や縄で拘束した跡、切創、殴打痕、怪我という怪我を身に刻んでいる。傷口は乾いているが、まだ真新しい。サム・ポーターと争ったのはいつだろう、ヒッグスはどれくらい独りでいたのだろう。彼がここ数日でどんな経験をしてきたのか、想像するとまたつらくなる。争いになったサム・ポーターもヒッグスによって同様に怪我だらけになったと想像できるが、彼にはブリッジズのメンバーがついているはず。

「傷の手当もしましょう。」
「できるのか?」
「任せてください。応急処置なら。」
「『応急処置』か?」
「ちゃんとした処置は医者に行ってください。でも今は行きたくないですよね?」
「行きたくないな。」
「じゃあわたしが手当てします。」

 救急箱を取り出してヒッグスの隣に置く。ヒッグスは腕まくりをして、どの傷の話をしているんだと言いたそうにしている。全部に消毒をして回るなら、ヒッグスを消毒液に浸した方が楽な気がする。そうはいかないのでセオは脱脂綿をピンセットでつまみ取り、消毒液をビタビタにかけた。

「全体を確認したいので上脱いでください。」
「なんだ、積極的だな。そんなことを言われると興奮する。」
「いいですか?ここはブリッジズの施設内で、アングレールさんはもう能力がない。」
「全てお前の思い通りになるってことだな。」

 ヒッグスは寝巻のボタン上2つを外すと、長い裾を持ち上げて首から脱いだ。ボタンを全部外せは良いのに。
 しっかり確認すると、切り傷よりも打撲痕の方が目立った。あちこちに青痣が現れていて痛々しい。セオはとりあえず首から下に向けて順に脱脂綿を押しつけ始める。

「痛かったら別のこと考えててくださいね。」
「痛っ!できるか……。」

 消毒をし、傷には大きい絆創膏を貼っていく。お腹まで診察が終わって顔を上げたら、表側は絆創膏まみれになっていた。最初はわざとらしくウーだのイタイだの言っていたヒッグスだったが、セオは問答無用だと気付いて静かになった。続いてセオは背中を見る。
 背中側も傷だらけなのだが、前と比べて少し様子がおかしい。切り傷が治るときに膨れ上がって皮膚が張ったような、古い傷がたくさん見える。いつ出来たか分からないが、今回サム・ポーターにやられたのではない、古いものであるのは確かだ。

「傷痕か?」

 黙って動かなくなったセオにヒッグスが声をかけた。図星だったセオは自分がいけないものを見ていたような気分になり、ヒッグスの問いかけにビクッと反応してしまう。

「古いもの……ポーター時代にミュールやディメンスにやられたんですか?」
「いいや、もっと昔だ。」
「なにがあったんですか?」
「……今は話したい気分じゃない。」
「ごめんなさい。」

 跡が残るくらいだ、よほどのことがあったのは分かる。ヒッグスにとっては触れて欲しくない話題のようだったので、セオは謝るだけにして作業に戻った。

「怪我なんか治したって、どうせ全部消える。」
「消えなかったとき困るでしょう。」
「お前は困らない。」
「悲しくて困ります。」
「どうして悲しむ?俺はお前の『敵』なんだ。」
「敵か味方なんて関係ありませんよ。そういう関係性が決まる前に、アングレールさんは友人になったんですから。」
「俺はお前をからかっただけなのに友人?」
「自覚あったんですね。」

 セオが笑うと、ヒッグスも笑ったようだった。処置をしている背中が小さく上下していて、声を出さないように笑っているのがバレバレだった。
 背中を絆創膏まみれにさせたあと、セオはヒッグスの両腕を診た。消毒液で傷口を叩いて、絆創膏を貼るの繰り返し。ヒッグスは目の届く範囲に来た処置をじっと眺めていた。「そんなに見ても治りませんよ」と、見当違いなことを言うセオのことをヒッグスはまた笑ったが、セオはもう馬鹿にされ慣れてしまってなんとも言い返さなかった。

 カイラル物質を遮断する施設の中にいるお蔭か、ドライブ中よりずっと気分がいい。ヒッグスに振り回された所為で気づかなかったが、一通り傷の手当てを終えて、そういえば自分の体調はどうだろうかと振り返った時に気付いた。
 プライベートルームにいると、さっき体感した違和感が全て遠のく。絶滅が近付いているなんて嘘のようで、今夜も明日もいつも通りの日が送れると思い込んでしまう。手錠端末の不調と、寝転がっているヒッグスを見ると否が応でも現実を突きつけられてしまうが、気分は穏やかなものだ。
 ヒッグスは手近にあった写真集を眺めている。部屋に戻ってくださいと言っても、彼は戻らないだろう。絶滅の時に1人は嫌だなどと駄々をこねるに決まっている。本来なら――いや、ヒッグスの思惑では、今頃彼はアメリと共にビーチで絶滅を迎えているはずだったのだろう。それがアメリに「拒絶」されて、今こんなところにいる。拗ねて意地になる気持ちはよくわかるから、セオは強く突っぱねられないでいた。
 タオルケットと枕が足りないから、ヒッグスの部屋から持ってこよう。セオがそう思って立ち上がると、またヒッグスはセオの腕を掴んだ。

「タオルケットと枕を取ってくるだけです。」
「戻ってくるだろうな。」
「戻ります。」
「……一緒に寝るつもりか?」
「そうしないとアングレールさんうるさいじゃないですか。」
「まるで俺が聞き分けの悪い子供みたいに言うな。」
「だって離れたら怒るじゃないですか。」

 図星のヒッグスは黙った。セオはその隙にタオルケットと枕を取りに行く。
 ヒッグスは絶滅を待ち望んではいるが、独りでは居たくないのだと思う。独りシェルターで暮らしていても、今まではポーター仲間やフラジャイル・エクスプレス、アメリがいた。しかし今は誰もいない。ちょうどよく現れたセオがいなかったら、彼は最後の最後まで独りだったのだろう。
 かく言うセオも、ヒッグスに教えてもらわなければ今ビーチで起きていることも、これから待っていることも何も知らずに逝ったかも知れない。何も知らずに国道復旧をしようとして、復旧装置が使えないことを疑問に思って、配送センターに戻って――。ここの代表であるトーマス・サザーランドは今起きていることについて何も知らないようだった。レイク代表も絶滅について詳しくは知らないようだったから、ブリッジズの中でも本当にごく一部の、キャピタル・ノットシティにいる中央部の人たちしか、現状を把握していないだろう。

 折りたたみ式ベッドは2人寝転がるのにも十分な広さがある。セオはベッドの半分に自分が持ってきたタオルケットを広げ、もう半分に元々備わっていたタオルケットを広げた。いつもの就寝時間より早い時間だが、今日は心身共に疲れたので早く眠りたい。それに、もし絶滅なんてものが本当にやってくるなら、眠ってるうちに――自分の知らない間に終わって欲しい。

「もう寝るのか。」
「疲れました。電気消すので早く寝てください。」
「肝の座った奴だ。この状況で寝るなんて。」
「他にできることはありませんからね。後はなるようになるとしか。」

 と、流れに身を任せようにもこれから起こることへの不安で興奮して眠れる気がしない。セオはビタミン剤の瓶に入れてカモフラージュしてある睡眠剤に手を伸ばした。これを飲めば眠れるはずだ。絶滅夢を見たくない時にはよくお世話になっている。飲んでも夢を見ないわけではないから気休めにしかならないのだが、夢を見るかどうかではなく眠れるかどうかが重要なので問題ない。
 ヒッグスもベッドに横たわったのを確認して、セオは手錠端末の遠隔操作機能を使って部屋の電気を落とした。

「おやすみなさい。また明日。」
「……また明日。」

 明るい明日が来ますように。セオは目をつぶって祈りながら、微睡の中に落ちていった。







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