■ ツークツワンク #2

 こき使われるのは慣れている。
 鏡に向かって口紅を引き直しながらクロエは溜息を漏らした。
 約二年間勤務した法律事務所ではパラリーガルとは名ばかりの雑用係として低賃金でこき使われ、次いで始めた住み込みの家庭教師は収入こそ安定していたが朝から晩まで我儘な子供たちの世話に追い立てられて過ごした。
 やり甲斐を求めて挫折し収入を求めて失敗したクロエだったが、今度はそのどちらも諦めて安定性を選んだつもりだった。実際のところ安定はしている。何といっても雇い主は個人ではなく公的機関であり、拘束時間は基本的に九時から五時まで、給料もしっかり支払われる。独身女性の働き口はあまり多くないことを考えると文句をつけられる立場ではないこともわかっている。
(でも上司がなぁ)
 鏡を覗き込んで前髪を直してからレストルームを出ようとしたクロエは、ドアノブを引こうと思った途端に猛烈な勢いでこちら側へ開いたドアに突き飛ばされ、後ろにあった個室の壁に身体をしたたか打ちつけた。
 衝撃に声も出せずにいると、頭上から「おや、失礼」と呑気な声が降ってくる。
「ここにいるかな、と思って」
「……います。それより団長、婦人用の化粧室を声もかけずに開けるというのは如何でしょう」
 よろめきながら背筋を伸ばすと、鏡のなかの前髪がぐちゃぐちゃになった自分と目が合った。
「私の部屋のすぐそばの婦人用化粧室なんて使うのは君くらいのものだよ」
「つまり私は入ってる可能性があるっていう……実際入ってたし」
「なかで個室にわかれてる」エルヴィンはクロエの後ろの個室を指差し、「君が焦って個室に入る前に下着をおろしたりしない限り、見られて困る部分が私の目に触れることはありえない」
 一瞬言い返そうかとも思ったクロエだったが、言葉を飲み込んで無理に笑みをつくった。
「それで、わざわざ探しにこられたということはお急ぎの御用があったのでは」
「ああ、そうだった。君、料理は作れるね?」
「は? ええ、一応」
「それはよかった」
 エルヴィンはクロエの都合も聞かずに彼女の背に手をあてがうと廊下へ促し、そのままそばの執務室へエスコートした。
 部屋に入ると真っ先に目に入る大きなデスクの上には書類が散乱しており、昨日そこを片付けたばかりのクロエは眩暈を起こしそうになったが、額に手を添えたところでデスク上の小箱に気がついた。蓋付きの見慣れないそれは縦・高さ15センチ、横30センチほどの大きさで、見ようによっては郵便受けのようでもある。
 とはいえいくら行動の読めない上司であっても郵便受けを玄関から引き千切って持ってくるとは考えられず、クロエは崩れた前髪を手櫛で直しながら「何です」と説明を促した。
「これなんだがな」
 エルヴィンは椅子に腰を下ろし、小箱を手元に引き寄せた。
 蝶番がくの字に折れて蓋が開くと、エルヴィンはデスクの上を滑らせてクロエのほうへ向けた。
 箱のなかには薄茶色の卵が二列に十個詰められている。
「さっき出入りの八百屋がサービスに置いていったんだが、この量じゃ皆に平等に分配することもできないだろう。かといって私がひとりで持って帰っても食べきる前に腐らせてしまうし、どうしたものかと思ってな」
 エルヴィンは顎の下で両手を組んで考え込んでいるが、デスクの前に立つクロエは硬直している。あの調査兵団の団長が、余った卵の用途で真剣に悩んでいるのだ。笑ってよいのかどうかもわからない。
「それで……私に料理させるかどうか悩んでいらしたんですか?」
 無論料理などはクロエの仕事ではない。仮にも元パラリーガルだけあって契約書は隅々まで読み込んだ。確かに職務内容に「その他雑務」とは書いてあったが、一般に料理はそれに含まれないはずだ。
「うん? いや、何を作ってもらうか悩んでたんだよ」
 クロエに何か作らせること自体は既に決定事項だったらしい。
「あの、どこで……」
「兵舎の炊事場が空いてる」
「材料は……」
「食料庫のものを融通してもらえるようにするが、あんまり大っぴらにがめるわけにはいかないな。最小限で頼む」
「……オムレツ?」
「いま何時だと思ってるんだ」
 既に昼食は済んでいる。確かにおやつとしては重く、かといって夕食としては軽すぎる。
 料理でも何でも勝手にしろ、という言葉を飲み込んで、クロエは小箱を手に取った。
「牛乳と砂糖は使えますか」
「許可しよう」
「じゃあプリンを作ります」
「それはいい。プリンにしよう」
 あとは宜しく、と言ったきりエルヴィンはいつものように書類に目を落としてしまった。既に決まった事柄に関して彼は驚くほど無関心だ。クロエはこっそり肩を竦め、ワンピースの裾を翻して部屋をあとにした。
 約一時間後、炊事場で十一個のカップを見下ろしながらクロエは頬の内側を噛んでいた。実に面倒臭い仕事だった。プリンの調理法は火加減さえ間違えなければ簡単だし、家庭教師をしていた頃に子供たちのために何度も作ったことがあるので手慣れたものだ。つまるところ、この面倒臭さは実際の手間というよりもむしろ精神的なものに起因するのであろう。
 あとは傷みやすいものなどを保存している地下の食料庫にしばらく置いて冷ますだけだ。そう考えてトレイにカップを並べていったがどう工夫しても八個までしか載らない。ということは二つのトレイに分けなければ運べないということになり、普段ならば何でもないその手間が猛烈に腹立たしい。思わず高めのヒールを床へ打ち鳴らして「もう!」と声を漏らすと、出入口のほうから「ひゃ」と小さな声が聞こえた。
 声につられて目を遣ると、ダークヘアの少年が驚いた顔でこちらを見ている。
「ああ、驚かせてごめんなさい。ちょっと苛ついてしまって。どうぞ気にしないで」
「はあ……ん? いい匂い……」
 子犬のようにスンスンと空気を嗅いだ少年が妙に可愛らしく思え、クロエは表情を和らげて手招きした。少年は手にしていた使用済みの食器の載ったトレイをカウンターに置くと、警戒することもなく厨房のなかへ入ってくる。
「よそで食事をとったの?」
「いや、オレじゃなくて同室の奴が風邪引いて寝込んでるんで昼食を運んでやったんです。プリンですか? 甘いものなんて久々に見た……」
 少年はずっとクロエではなく並んだカップに視線を注いでいる。涎でも垂らしそうな顔に思わず噴き出しそうになりながら、クロエは「お願いがあるの」と言った。
「これ、団長に作らされたの。これから冷やすために食料庫に運ぶんだけど、ひとりじゃ持てなくて。もしよかったらトレイをひとつ持ってくれる? そしたらお礼に一個あげる」
「えっ、いいんですか? 勝手なことしたら怒られるんじゃ……」
「あー、あのひと十個の卵からプリンが何個出来るかなんて知らないから大丈夫」
「やった」
 布を軽く被せたトレイを地下へ運んだあと、クロエはカップを一個少年に手渡した。
「冷ましてから食べるのよ。カップはあとでちゃんと戻しておいてね。それと、ほかのひとには内緒」
 人差し指を唇にあてて秘密の仕草をしたクロエに、少年は頷き返してカップを持った手をジャケットのなかに入れた。思わず撫でてしまいたくなる子供っぽい仕草だったが、胸のエンブレムが彼もまた立派な兵士であることをクロエに思い出させる。
 それじゃ、と踵を返したクロエの背に「あの!」と声がかかった。
「エルヴィン団長の秘書のひとですよね?」
「そういえば名乗ってなかったね。私はクロエ。あなたは?」
「エレン・イェーガー」
 へへ、と笑いながらエレンは二、三歩後ろへ下がり、それからくるりと振り向いて小走りに去っていった。
 執務室へ戻りながら、クロエはついさっき地下室でトレイを棚の上に置いた時に嗅いだ匂いを思い出していた。肩が触れるほどの距離に寄った時、エレンからプリンの甘い香りとは異なる子供っぽい匂いが一瞬立ち上ったのだ。間もなく青年期に差し掛かろうという年齢の少年、特に男の子からはあともう僅かなあいだしかしない匂いだ。似た匂いを、昔自分のクローゼットやベッドで嗅いだ記憶がある。もう随分前のことだ。いまは自分の身体からは大人の女の匂いと、コロンの香りしかしない。
(あとプリンの匂い)
 すっかり服に染みついた甘い匂いに気づいて再び腹立たしくなったクロエは、執務室に戻ってエルヴィンの散らかした書類を整理しながら不意に香った整髪料の匂いに一層眉間の皺を濃くした。
 二時間ばかり経ち、西日がやや強まった頃にエルヴィンが外出から戻ってきた。入ってくるなり「プリンは?」と尋ねてきた上司にカチンと来たが、クロエは「そろそろ熱もとれた頃と思いますが、召し上がりますか?」と澄ました顔で返した。団長としての職務以外においてはまるで子供のような男だと思えばよいのだ。子供の扱いならば家庭教師の経験から慣れている。
「何個作ったんだい」
「ぴったり十個」
「ひとつ頂こう」
「じゃあお持ちします」
「あ、クロエ」
 後ろ手にドアを閉めかけたクロエをエルヴィンが引き止めた。
「紅茶も頼む」
「はぁい」
 今度こそドアを閉め、クロエは満面の笑みを浮かべた。そうでもしないとやっていられなかったからだ。たまたま廊下を通りかかった若い兵士が怯えた顔でクロエを見ていたが、笑みを浮かべたまま「何か?」と問うと何やらもごもごと言い訳をしながら去っていった。
 数十分後、クロエはカップとスプーンを手に無表情で椅子に座っていた。
 すぐそばにはやはり椅子に座ったエルヴィンが、デスクに向かって何やら難しい顔をしている。やがて彼はペンで何やら書きつけ、ごく自然な動作でクロエの方に顔を向けてきた。視線は手元の書類に注がれたままだ。するとクロエはプリンを掬い、スプーンをエルヴィンの口に突っ込んだ。再びエルヴィンは顔を前に戻す。
 スプーンを持った手を膝元に戻しながら、クロエは確信した。
 これは「子供みたいな男」ではない。まさしく子供だ。
 ただし母親を求めているわけではないから、子供がするように全身で甘えてくるわけではない。甘えられたらそれはそれで気持ちが悪いが、まだ納得がいく。しかしエルヴィンは子供さながらの我儘ぶりで身の回りの雑事をすべて他人に丸投げしているだけだ。究極のコストカットといえなくもない。
 とはいえエルヴィンも部下の兵士が事務方を務めていた頃はまさかプリンを口まで運んでもらうような真似はしていなかったであろう。要するに、彼はクロエのことを舐め腐っている。
 死んだ魚のような目をしているクロエの脳裏に、昼間出会ったエレンの姿が浮かんだ。
(可愛かったな、あの子……)
 残念ながら、クロエがお世話をしなければならないのは可愛げのある少年少女ではなく、目の前のおっさんだというのが現実である。
 法律事務所勤務、住み込みの家庭教師、団長秘書。転職に成功したといえるのかどうか、いまはまだわからなかった。


BACK
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -