■ パパに似ている

 機嫌の悪い馬が一頭首を振り,荒々しく吐き出した息が真冬の空気に触れて一朶の白い靄となった。乗り合い馬車の発着所のあちこちから,人や馬が吐き出した同じような靄が立ち昇り,白けた空に溶け込んでいく。出発時刻の迫った馬車の扉に手を掛けた職員が,胴間声を張り上げて乗客を急かしていた。
 人馬や荷物の間を掻き分け,エルヴィンはやはり白い息を零しながらある顔を探していた。多少知られた顔であるために噂を避けて帽子を深く被っているが,鍔の下に見え隠れする蒼い瞳は焦燥を映している。馬車がまた一台,車輪と蹄の音を残してデポットから出ていった。
 人違いで肩を掴んでしまった娘にひと言詫びてから,エルヴィンはまた注意深く視線を左右へ走らせながら混雑のなかを足早に歩きはじめた。
 まだのはずだ。まだその馬車の時刻にはなっていない。エルヴィンは思い詰めた表情で唇を引き締めた。歩き続けたせいか,それとも焦りのせいか,厚い外套の下の背中がじんわりと湿ってきている。
 一番端の乗り場にその人の姿をみとめた時,安堵したエルヴィンは思わず「ああ」と声を漏らしていた。左右を見て他の馬車の来ないことを確認し小走りで道を渡りだすと,彼女もこちらに気づいて美しい瞳を瞠った。間に合ったのだ。書類仕事を放り出して駆けてきたのは正解だった。この機会を逃せば,今度はいつ会えるかわからない。
「クロエ」
 エルヴィンが辿り着くと,クロエは駆け寄って彼の腕のなかに飛び込んだ。華奢な身体をきつく抱き締めながら,エルヴィンは視線を上げた。荷物を積み込む手続きをしているクロエの母親が,何か言いたげな険しい目つきでこちらを見つめている。エルヴィンは小さくかぶりを振って,
(連れ戻しにきたわけじゃない)
という意思を母親に伝えた。
「もう来ないものだと思った」
 エルヴィンの胸からようやく顔を離したクロエが口を尖らせた。
「迷っていたんだ」
「道に?」
「いいや。来るべきかどうか」
 クロエは何か言いたげな顔をしたが,応えずに口を噤んだ。
 エルヴィン自身,何をしに来たのかわかっていない。別れの挨拶をしにきたというのが一番相応しい表現なのだろうが,胸の奥の息苦しさをあらわすにはそんな言葉では生易しいように感じた。
 とはいえ,引き止めに来たわけでもない。エルヴィンにはその権利がない。彼女たちは新しい仕事のために北の町へ行くという。特殊技能を持つわけでもない女にとってはこの上ない好条件の職であるというし,別れた夫の家も近い。いざという時にたのみとする約束をしていないエルヴィンのためにここに留まるという選択肢が,彼女たちのなかになかったのは致し方ないだろう。
「出発まではまだ少しあるだろう。すぐそこの店で紅茶でも飲まないか?」
 振り返ったクロエに,彼女の母親は仕方なさそうな顔で「時刻までには戻ってちょうだい」と頷いた。
 それでエルヴィンはクロエの手を引いて角の喫茶店に入り,紅茶をふたつ頼んだ。運ばれてきた紅茶が熱すぎたのか,湯気の向こうで鼻を赤くしながら少しずつ飲んでいるクロエを,エルヴィンは目を細めて見つめた。
「クロエは憶えているかな。初めて会った日もこうして一緒にお茶を飲んだんだよ」
「去年の冬でしょ。憶えてるに決まってるわ」
「そうだね。たった一年前だ……」
 昨年の冬,エルヴィンはクロエたち母娘に日用品店で出会った。出先で何となく新聞が読みたくなったエルヴィンは目の前にあったその店のドアを開いた。その時カウンター越しに店主と話していたのが彼女たちだ。
 どうやら揉めているらしいということはすぐにわかった。母親は店主の冷ややかな視線を受けながら,バッグを引っ掻き回して何かを探している。支払いの現金が足りないらしい。あるはずなの,お給料を貰って確かにここに入れたはずだから,必ず……。弁解しながら紅潮した顔でバッグのなかを探る横顔を見て,エルヴィンの勘は彼女がシングルマザーのようだと告げていた。
 それからエルヴィンはそばのラックから新聞を取って,ポケットのなかから小銭を取り出しながら歩み寄り,新聞を持ち上げてみせて店主に話しかけた。
「そちらの会計と一緒に」
 カウンターの上に置かれた商品は案の定どれもありふれた日用品で,大した額ではない。母娘の服装も清潔にはしているがひどく質素で,その懐事情を窺わせるものだった。
 一瞬呆気にとられた女性は,すぐに「そんなわけにはいかない」と断ろうとしたが,店主のほうは誰の支払いだろうと商品代が手に入れば構わないという気質らしく,女性をよそにエルヴィンから金を受け取って釣りを返した。
 店を出たところでエルヴィンは彼女たちをお茶に誘った。この国の経済状態は安定しているとはいえず,困窮した人々を目にすることは珍しくもないが,何故この母娘にここまで興味を引かれたのかエルヴィン自身もよくわからなかった。半ば強引に店に連れ込んで話を聞くと,案の定彼女たちは二人暮らしで,相当切り詰めた生活を送っているらしかった。
 今月分の給料は落としたか盗まれたか行方知れず,来月まで何のあてもないなかで「品代は必ずお返しします」と恥じ入るシングルマザーに,よもや金を請求する気は起こらなかった。
 だからほんとうはその場で「幸運を」と言ってそれきり別れるべきであったのだが,エルヴィンは口にはしないもののその些細な厚意を口実に,その後も母娘と頻繁に会った。そして今日に至るまで一年の間続いたが,それも今日で終いだ。
 クロエがようやく温度の下がってきた紅茶を飲みながら,床にぎりぎり届かない脚をぶらつかせて言った。
「ママは私たちが会うのをあんまり嬉しく思っていなかったみたい」
「そうだろうね。説明のしづらい関係というのは,基本的にあまりよくないものだから」
「『お友達』ということじゃいけないのね」
「きっと友人以上の関係になりたがっている私の心を,君のママは気づいていたんだろうね。賢いひとだから」
 エルヴィンは目を伏せ,カップに唇を寄せながら微笑した。
 エルヴィンとクロエはよく似ている。瞳の色を共有している。クロエの髪の色はエルヴィンのそれによく似ている。子供の髪色は変わるから,もしかすると成長して長い脚でスカートの裾を翻す年頃になればダークカラーに落ち着くかもしれないが,いまはまだ同じ輝きを持っている。クロエは太陽の色だと良い,それを聞いてエルヴィンは喜んだ。
 初めて会った日,その場限りの出会いに終わらせたくなかったわけを,今ならばエルヴィンは自覚している。
 エルヴィンはクロエの父親になりたかったのだ。
 初めて会った時から,他人のような気がしなかった。口から出した言葉の何倍もの考えを頭のなかに抱えているこの複雑な子どもを,エルヴィンはずっと見ていたかった。
 表面上エルヴィンはクロエの母親にやさしく接したが,決して愚かではない彼女はエルヴィンの執着が自分自身の上にはなく,じっさいはクロエが目当てだということを感じ取っていたのだろう。貧乏暮しで背に腹は代えられずエルヴィンの援助を受け取ってはいたが,宙に浮いたような不自然な関係をいつかは終わらせねばならないと思っていたに違いない。それで今度の引っ越しに踏み切ったのだ。母親としては正しい判断だとエルヴィンも思う。
「そんなにパパになりたいなら,どうして結婚しなかったの?」
「君のママと?」
「違う。誰とでも」
 クロエのブルーの瞳は聡明だ。無邪気なのではなく,その質問が不躾であることもわかっている。エルヴィンはクロエに対して説明する責任がある,といっているのだ。
 エルヴィンは頬杖をつき,手のひらで口もとを隠して考え込んだ。
「結婚したかったこともあるよ。でもクロエを見るまで,そこまで本気で良いものだとは思ってなかったんだろうね」
「ママはいつも言うの。ちゃんとご飯を食べない子にお菓子を食べる資格はありませんって」
 ああ,これだ。エルヴィンは眉間に皺を寄せた。クロエの言葉に怒ったからではない。クロエの意見がまったく正しかったからであり,その大人びた洞察力をこそエルヴィンは愛したからだ。そしてエルヴィンが同意したクロエの見解に基づけば,その子の性質を見てから親になるかどうか,愛するかどうか決めるのは誤った順序である。子どもはその性質がまったく不明の状態から親に愛される権利を持っているのだ。だから結局のところ,エルヴィンはクロエの母親ではなくクロエ自身に愛情を拒まれたということになる。
「ママのことは好き?」
 エルヴィンが尋ねると,クロエは頷いた。
「パパのことも?」
「ええ,大好き」
「君たちを放っておいた男であっても?」
「ええ」
「じゃあ,私には勝ち目はないんだね」
「もしエルヴィンがママのことを愛してたら,きっと私のパパになったわ」
 そうしようとはエルヴィンも考えたのだ。だが無理だった。「大事なものを持っている気分になりたいからって,大事なふりをしないで」とはクロエの母親の言葉だ。エルヴィンの手を拒んだ彼女は正しかった。もしあの抱擁を受け入れていたら,彼女はもっと惨めな立場になっていたことだろう。
 不意にクロエがテーブルに突っ伏した。柔らかな前髪がカップのなかに落ち,飲み残しに浸って濡れてしまっている。クロエの顔の下からくぐもった声が聞こえた。
「エルヴィンのことも大好きなの」
 それからクロエは首を少し曲げ,テーブルにこめかみをつけたままエルヴィンを見上げた。
「でもエルヴィンは私のパパになりたいだけで,友達にはなってくれなかったから,だめなの」
 エルヴィンが黙っていると,クロエは自分で心を整えてゆっくりと身体を起こした。
 勘定を終えて外へ出ると寒風にクロエは身体を震わせ,エルヴィンの手をとった。手を繋いで馬車のところへ戻ると,少し窶れてはいるもののまだまだ美しい三十代の母親が,安堵した表情でクロエの手をとった。
 馬車に乗り込むクロエの背中に,エルヴィンは声をかけた。
「さよなら,クロエ。大好きだよ」
 クロエが振り返ることはなく,馬車は車輪の音だけを残して遠い町へ走り去っていった。


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