■  Let's Forget About It

 朝10時ぎりぎりにチェックアウトを済ませた私たちは、どちらから言い出したわけでもなくそのままロビー脇のラウンジに入った。窓際のソファに向かい合って座っていると、時折すぐ外を馬車が通りすぎて、そのたびにカップのなかの紅茶が揺れた。とっくに目を覚まして今日の活動を始めた街と不似合いに、私たちは停滞した空気を感じながら遅い朝食をとっていた。
 私の前ではエルヴィン団長が静かにナイフとフォークを動かしている。一般市民が出入りできるなかでは最高クラスのホテルのオムレツはやっぱり私が作るものより遥かに綺麗で、綺麗すぎるがゆえによそよそしくて、ひと晩をともにしたあとでも私と団長の間にある距離がちっとも縮まっていないことを私に教えているようだった。
「お腹が空いていないのかい」
 トーストにバターを塗りながら団長が言った。薄っすらと色づいたトーストの上を、バターナイフが心地よい音を立てながら何度も行き来する。年齢を考えるとバターを塗りすぎだと思った。
 団長はバターナイフを置くと、片手で持ったトーストの角に齧りついた。
「果物だけでも食べたら」
 それで紅茶に使わなかったレモンを指で摘んで少しだけ齧ってみると、団長は笑いもせずにパンを咀嚼しながら「おかしな子だな」と呟いた。
 団長の言う通りで、私はちょっとおかしいのだと思う。
 壁の外へ出て行く危険を知った上で調査兵団に入団し、討伐数含め成績の上では極めて地味ながらそれでも生き残ってきたのに、数年前に壁が破られてから何故だか急に怖気づいてしまった。それでも数年はどうにか耐えたが、先頃どうにも限界を感じて自ら退団し、以降は打って変わって商社の経理をしている。きっとかつて外へ出ていけたのは、帰る場所が確実にあると感じられたからなのだろう。そのくらいの勇気はあったが、それ以上の勇気はなかったのだ。
「今日はいいのか、仕事」
「お休みです、この前同僚が奥さんの出産で休んだ時に交替してあげたから」
「そうか」
 わずかに細めた目で窓の外の往来を眺めながら、団長は皿の上で指を擦り合わせてパンくずを落とした。まだ兵団にいた頃、書類を届けにいったら団長が仕事片手に食事をとっていたことが何度かある。でも、こんな顔は一度も見たことがなかった。
 団長のことがずっと好きだった。
 素敵なひとだと感じたことはないけれど、私はこのひとの奥さんになりたかった。
 退団の挨拶をしに行った時、団長は何かの書類に目を通しながら「残念だ。さびしくなるよ」と丸見えの社交辞令を言ってくれたが、私は団長のそんなおざなりな態度が好きだったのだ。
 昨夜の再会はまったくの偶然で……と信じているのは、実は団長だけだ。王都での会合の際、団長はいつも当地での宿泊を好まず帰路沿いのこのホテルを定宿にしていることを私は知っていた。私の勤め先もこの近くにあるというのはとても都合が良かった。チェックインを済ませてホテルから出てきたところで私と鉢合わせた団長は少し驚いていたが、ちょうど食事に出るところだったといって私を誘ってくれた。執務室で書類片手にひとり食事をすることはできても、レストランや兵団の食堂でひとりで食べるのは苦手なひとだということも、私は知っていた。
 食事を終えて、ホテルの玄関前であっさりとした別れの挨拶を交わしたあと、団長は回転扉を押してロビーに入り、そのまま一周して再び外へ出てきた。次に扉が回った時、私も一緒にホテルへ入った。
 私がやっとサラダをつつき始めた時、視界の端に映る団長の胸が咳払いとともに少し揺れた。視線を上げると、ぎこちない笑みがこちらへ向けられている。
「……ゆうべは何となく言えなかったが、その……綺麗になったな」
 私が何もこたえなかったので団長は気まずくなったのか、紅茶をひと口飲んでから肩を竦めた。
 兵団にいるあいだは化粧もしないし、身嗜みといえば髪と肌と眉の手入れくらいだった。爪も長くは伸ばせない。いまは口紅を引き、頬紅を叩き、眉を引いて、髪を綺麗にまとめている。見違えたと感じるのは当然のことだ。
 だが、団長は知らないのだ。
 兵団にいるあいだも今も、私はずっと綺麗だった。
 お化粧もせず男に混じって身体を鍛えていた時だって、私は十分に美しかった。
 化粧やドレスという記号を通してしか私の美しさを認識できないということは、やっぱり団長は私のことを見ていないのだろう。別に傷つくようなことではない。団長の目が節穴だということもまた、私はずっと知っていたのだから。
「家もこの近くなのか?」
「ええ、すぐそこ」
「家賃も結構張りそうだ」
「まあ、どうにか」
「ひとり?」
「ええ」
 探られているのはわかっている。
 次にくる言葉もわかっていた。
「こっちに来た時は、また会ってもらえるかな」
 紅茶に私の赤い唇が映っている。
 そばにあったミルクを入れてスプーンで掻き混ぜると、たちまち水面は濁って何も映さなくなった。
「いえ、この秋に結婚するので」
 エルヴィン・スミスは少しの間を置いてから、ティーカップに隠れた口元で「そうか」と残念そうに呟いた。本当は安心しているくせにそんな悲しそうな顔をするなんて、どこまでも図々しいひとだと思った。


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