■ うせもの奇譚

 燭台切光忠は混乱していた。家捜しに精を出す皆の腹拵えにと台所で握り飯を握っていたはずが、まばたきをした一瞬の間に景色が一変し、気づけば縁側に立っていた。手のなかの作りかけの握り飯と周囲を何度も見比べて「え? え?」と狼狽えていると、角を曲がって大倶利伽羅が姿を現した。
「握り飯……? 今晩はかけうどんじゃなかったのか。米の無駄遣いはよせ」
 大倶利伽羅は光忠の手のなかを見て眉を顰めている。
「う、うどん……? そんな予定は……」
「そんなことより主の居場所を知らないか。こうも入り組んだ造りじゃ容易に見つけられない」
「さあ……。あ、でも屋根裏を調べる最中に頭から埃を被ってしまったから、風呂に入りたいとは言っていたけど」
「風呂か。俺も畑仕事で泥塗れだし丁度いい」
 大倶利伽羅は光忠の手から握り飯を奪うと、頬張りながら立ち去ろうとした。我に返った光忠が慌ててその背中に声をかける。
「ちょっと、主が風呂入ってるかもって言ってるでしょ!」
「……だからどうした。いつものことだろう」
 振り返った大倶利伽羅は心底怪訝そうな顔をしている。
「いつものことって……伽羅ちゃんいつもそんなことしてるの!?」
 何それ知らない、と叫ぼうとした瞬間、不意に足場がなくなって落下するような感覚を覚え、思わず目をかたく閉じた。それから再び目を開けると既に大倶利伽羅の姿はなく、それどころか元の台所にひとり立っていたのだった。
 釜のなかの米が乳白色の湯気を上げ、竈の上では味噌汁が煮え立っている。火を通しすぎだ。光忠は慌てて鍋を火から下ろし、調理台に置いてから呆然と周囲を見回した。

      ◇◆◇

 書庫の壁に襖ほどの大きさの揺らぎを見つけた燭台切光忠は、思い切ってその中へ飛び込んだ。案の定壁に衝突する感触はなく、空を切った身体は縁側に躍り出た。目の前に無表情の大倶利伽羅が立っている。
「ああ、伽羅ちゃん。どうしたのお握りなんか食べて」
「……」
 大倶利伽羅はもぐもぐと咀嚼しながら、黙って背後を振り返り、それから光忠へ顔を戻した。
「いまそこでお前と話してたんだが」
「僕と?」
「ああ。話してる最中に急に床のなかに消えた」
「ははぁ、成る程」
 本丸の同一化がいよいよ完成に近づいているらしい。以前は意識だけだったが、いまは肉体まで交代できるようになったのだ。もっとも依然として同一体は同じ場所に存在できないようだが。
 その考えを聞かせると、握り飯を食べ終えた大倶利伽羅は不服そうな顔をした。
「不便だな、片方が門を潜ったらもう片方も強引に飛ばされるのか……向こうに俺はいるのか」
「さあ……でも、向こうは人数が多いからきっといるんじゃない?」
「そいつが余計なことをしなければいいが」
 大倶利伽羅は迷惑そうに舌打ちをした。
「そんなことより、伽羅ちゃん。いま向こうで聞いてきた話なんだけど」
 光忠は今し方反対の本丸の歌仙から聞いた内容を大倶利伽羅に伝え、できるだけ大勢にこの話を伝えて厩舎へ向こうよう促した。向こうの光忠の身に起こったように、いつ何時裏側へ飛ばされてしまうかわからない。動く人間は多いに越したことはない。
「お前はどうするんだ」
「僕も皆に声をかけるけど、まずは三日月さんを捜す。主のそばについていてくれればいいけど」
 変則的ではあるが、ここの主にはいわゆる初期刀がいない。復帰の際に再び降ろした三日月宗近がいわば彼のここでの初期刀で、就任以来ずっと近侍を務めてきた。主は光忠も含めて皆を可愛がってくれたが、やはり三日月との間にある歴史と絆は格別だ。それを羨ましく思ったこともあるが、不穏な出来事が起こりはじめて以降、三日月がずっと主とここの本丸の安寧を取り戻すために心を砕いていたことも知っている。その時点では理由はわからなかったが、向こうの審神者の私物だけは必ず鍛冶場で発見されたことから、きっとあちらの私室とこちらの鍛冶場とに何らかの繋がりがあると考え、鍛冶場の壁や床に文を書きつけて救援を請うよう進言したのも三日月だった。
「もし向こうへ飛ばされて、あっちの審神者に会ったらどうする」
 大倶利伽羅に尋ねられ、主を捜すために室内へ入ろうとしていた光忠は足を止めた。
「いまは向こうの本丸にくっついてることでここはどうにか持ってるようなものだよ。だから……彼女を見かけたら、守るべきだ」
 ここの本丸のどこかにいる、彼女に恋をしている男の顔が思い浮かんだ。あれはまさしく横恋慕というものだ。
 離れた場所にいる相手を想う苦しみを、光忠は自分の主人を通して見てきている。恋女房を置いて自分たちを降ろしてくれた彼には感謝してもしきれない。と同時に、その懊悩を見るにつけ、彼の居場所はここではないとも感じていた。帰してやりたい、と思ったこともある。だが主が本丸を去るということは、彼とこの本丸とに結び付けられて存在している自分たちはよすがを失うことでもある。主を元の世界に帰してやるならば、自分たちにはかわりとなる審神者と居場所が必要だ。歌仙も彼女と一緒になれる。そのためには、向こうの刀剣たちは邪魔に……。
 光忠は苦笑してかぶりを振った。
 刀剣による他本丸と審神者の乗っ取りなど許されるべくもない。
 振り返って、大倶利伽羅に言った。
「ああ、でも向こうの歌仙兼定に会ったら、一発くらいなら殴ってもいいよ」

      ◇◆◇

 階段を上り終えた審神者は、壁に手をついて呼吸を整えた。随分長い階段だった。勿論、かつてはそんな階段などなかったのだが。
 いま自分がどこにいるのかもわからない。顔を上げると、赤の他人のように冷ややかな気配の廊下が延々と続いている。彼女は意を決して歩き始めた。廊下は外壁に接して位置しているらしく、右側には所々に格子窓があり、月明かりが差し込んでいる。とはいえ十分な明かりとはいえず奥まで見通すことはできないが、もしまた袋小路であったら引き返して再び道を探さねばならない。格子越しの夜空に浮かぶふたつの月は、先程までより更に接近している。
 急がねば。
 小走りに駆け出そうとした時、ふと月の下に人影を見かけた彼女は思わず足を止めた。
 月がふたつも出ているせいか、庭は明るく照らされてかえって普段より景色が判然としている。格子を両手で掴んで顔を寄せると、庭に数人が集まってきているのが見えた。手を上げて何か合図をしているのは鶴丸だ。その視線の先を追うと、数人が戸板のようなものを抱えて外へ出てくるのがわかった。
 ああ。
 思わず安堵の溜息が漏れる。歌仙の姿はなかったが、彼から話を聞いた者たちが一期一振のもとへ向かってくれたのだろう。どこで見つけたのかはわからないが、とにかくこれでこの本丸で問題となっている建材は確保したことになる。
 こうなった以上、自分も庭へ戻るべきだ。彼女は引き返しかけ、足を止めた。
 光忠が無事に向こうの住人へ話を伝えられたかどうかはまだわからない。何が起こるかわからない状況では、ひとりに任をまかせるのは危険だ。それに建材を燃やせば解決するとは限らない。またあとで、と歌仙と約束したのだ。出せる手札はすべて使うべきだろう。向こうの住人に鉢合わせる可能性を考えて、もうしばらく屋敷のなかを調べ回ったほうが懸命だ。
 彼女は再び廊下の奥へ向かって歩きはじめた。

 床板をどう、と地面に投げ出し、加州清光は「ああ!」と気怠げに呻いて肩を回した。偶然鉢合わせた歌仙兼定から話を聞き一期一振のもとへ向かったものの、皆本丸の迷路のなかで散り散りになっていたせいで思うように人数が集まらず、決して体格の優れたほうではない加州も床板担ぎに参加する羽目になってしまった。他の者を捜すと言った歌仙とはそれきり会っていない。
「やぁ、ご苦労さん」
 陽気に手を上げる鶴丸を、加州が忌々しげに見た。
「アンタが担げばよかったじゃん」
「え? いや俺には皆の先導という重要な役目がだな」
「もう! 俺以外全員でかいからめちゃくちゃやりづらかった!」
 蜻蛉切、次郎太刀、岩融、一期一振と一緒に床板を担いだせいでひとりだけ高さが合わず、単に姿勢が辛いというだけでなく非常に屈辱的な思いをしたのだ。一期一振は他ほど長身ではないが、それにしても加州とは差がある。加州はぷりぷりと怒りながら「向こうの奴らは!?」と母屋を振り返った。
 向こうの光忠が手配をしているというが、まだ彼らは現れていない。月を時計代わりに見上げた加州は、残された時間があと僅かであることを読んで表情を曇らせた。
 その様子を見ていた一期一振が、落ち着いた声で言った。
「いまはできることをやりましょう。燃やすのだから、火を持ってこなくてはいけないね」
 次郎太刀が頷く。
「床板にされてた木だからね、湿気っていて燃えにくいかもしれないね。紙くずなんかと一緒に燃したほうがいいかもよ」
「ああ、それじゃあ俺その辺で掻き集めてくる」
 母屋へ向かった加州は、この際気にすることでもないでしょ、と土足のまま縁側へ上がった。最悪障子紙を引き裂いてしまえばいい。そんなことを考えながら襖に手をかけたが、ふと向こう側に騒々しい気配を感じ、とっさの判断で飛び退った。
 案の定襖が派手な音を立てながら勢い良く縁側へ倒れる。その向こうには、天井板を担いだ大倶利伽羅が片脚を上げて立っていた。
「危ないぞ」
「遅いよ! って、それ持ってるってことは……」
 大倶利伽羅の後ろで同じく天井板を担いでいた鯰尾藤四郎が、軽く顎を引いて挨拶をした。
「お邪魔しまーす」
 ほか、和泉守兼定、陸奥守吉行、宗三左文字などが担ぎ手となり、天井板を庭へ運んでいく。向こうの光忠は無事に任務を果たしたようだ。こちらの本丸の残りの顔ぶれも徐々に庭へ集まり、辺りはにわかに賑やかになった。
「三割くらいが向こうの人みたいだね」
 大量の握り飯が載った盆を持って出てきた光忠が、庭に集まった顔ぶれを見比べて言った。姿形や声は同じでも、やはり異なる本丸で異なる審神者と暮らしたせいか、一見しただけでもどことなく風情が違う。あちらはまだ数が少ないとあって、より希少性の高い刀剣は皆こちら側の者のようだ。
 しばらくすると加州と、彼に合流して手伝っていた大和守安定が書き損じや保管期間の過ぎた資料を両手いっぱいに抱えて戻ってきた。
 審神者の姿は見えないが、準備が整い次第燃やせというのが彼女の命である。ふたつの本丸の刀剣たちは建材を重ね、その上や間に紙や、火のつきやすそうな小枝を設置した。
 あとは火をつけるだけだ。
 身体を起こしてひと息ついた加州だったが、さっと母屋のほうを振り返った。
 女のすすり泣きが聞こえたような気がしたからだ。一瞬主かと思ったが、声が違う。皆を見ると、がやがやとうるさくしていたせいで聞こえた者と聞こえなかった者がいるようだ。そのなかで、太郎太刀が険しい顔で月を見上げている。つられて夜空を見上げた加州の頬に、冷たいものがあたった。
「えっ、なに」
 指の腹で頬を拭った加州は、それが水であると知り、怖気が走るのを覚えた。まさかこんな時に雨が降るとは。床板の上に雨粒が落ちているのをみとめ、加州は「なかへ運ぼう」と叫んだ。この際屋内で燃やすよりほか手段はない。
「無理だ」
 皆が一斉に声のしたほうを振り返る。
 縁側から長谷部が下りてきている。あれは……うちの長谷部だ。加州はそう思うのもつかの間、つい今し方襖を開けて外へ出てきたはずの長谷部の前髪が一部濡れていることに気づいた。
 額に手で庇をつくった長谷部が皆の輪に加わる。
「この雨は室内でも降っているぞ」
 また、すすり泣きが聞こえた。
 涙だ。加州はこめかみから顎へ流れた雫を指で払った。
 本丸が死んだ女の領域に取り込まれかけている。女の流す涙が、雨となって降り注いでいるのだ。
「とにかく何かで覆って凌がねば。火が大きくなればこの程度の雨は問題なかろう」
 蜻蛉切の言葉に頷きかけた蜂須賀虎徹だったが、すぐに眉間に皺を寄せた。
「覆うって……何で?」
 示し合わせたわけではない。しかし、皆の視線が一点に集中する。注目を浴びた山姥切国広は身体を覆う布の下で震え上がった。

 や、やめろぉー。と、遠くから聞こえたような気がする。審神者はたまたま拾った薄緋色の鮫小紋を傘がわりに頭上へ掲げ、部屋から部屋へと走っていた。火をつける準備が整いつつあることは、別の窓から見て知っている。なれば戻ろうかとも考えたが、この様子から推察するに、事態はむしろ悪化しているようである。天井から落ち、壁を伝い床を濡らすこの雨が、当然単なる雨などではないことは明らかだ。
(あの子たちのことは信用している)
 焦る気持ちを押し殺し、彼女は自分に言い聞かせた。
 この雨のなかでどうするつもりかは知らないが、きっと彼らは務めを果たしてくれるはずだ。だから自分はもうひとつの本丸の審神者を捜し出し、そして始まりの本丸の女のところへ行くつもりだった。
 先程から時折漂う血と肉の臭いは、鍛冶場のそばに空いたあの横穴の奥からした臭いと同じ臭いだ。いま本丸は彼女に取り込まれかけている。ならばあの暗い洞窟の先に、きっとあの女はいる。会って話の通じる相手とも思えないが、問題を根源から断ち切るつもりだった。
(会って、ぶん殴ってやる。幽霊だったら殴れるかどうかわからないけど……)
 襖を開けた。暗い八畳間。
(本意ではなかっただろう。引き離された恋人を想って死ぬほどの苦しみを抱いたんだろう)
 また襖を開けた。大座敷。
(でも私はこの部屋で皆とご飯を食べたりお酒を飲んだりするのが好きだった。彼女にそれを奪う権利はない)
 見たことのない板戸を開けた。資材保管庫。
(私には関係ない。私からあの人たちを奪うなんて、許さない!)
 観音開きの戸を力任せに両手で押し開ける。
 板敷きのがらんどうの部屋の中央に立っていた人物が、静かに振り返った。
「歌仙」
 ずっと脳裏に浮かんでいた顔を目の当たりにし、緊張の糸がぷつりと切れたのだろう。
 彼女は疲れきった脚をもつれさせ、歌仙の胸に飛び込んだ。傘代わりにしていた小紋がふわりと床へ落ちる。受け止めた歌仙は両腕を彼女の背に回し、優しく撫でた。顔を上げると目が合い、穏やかな碧の目に引き込まれるようにして彼女は歌仙と唇を重ねた。
 違う。
 不意に違和感を覚え身体を離そうとした彼女の腰を、歌仙の腕がきつく抱き竦める。ぬめりとした感触が口腔内に侵入してくるのを感じ、彼女は目を見開いた。無意識のうちに強く噛み、男がたじろいだ隙に両手を突っ張って身体を引き離した。
「あなた、あっちの……」
 唇を手の甲で拭きながら彼女が呻くと、人差し指で舌先の傷を確かめながら歌仙が笑みを浮かべた。
「そうだよ。君は相変わらず迂闊だね」
「うちの歌仙は」
「当然あっち側だろう。きっとこちらへ戻る方法を必死で探しているんじゃないかな。その感じだと、君たちはどうも仲が進展したようじゃないか」
 彼女が自ら駆け寄って口づけをしたのだ。すぐにそれと知れただろう。
「……愚かだなぁ、僕は。君はちっとも自分の気持ちに気づいていなかったのに、結局僕が君たちの仲を取り持ったようなものなんだから」
 歌仙が何を考えているかわからない。審神者は身構えて一歩さがった。その様子を、歌仙が哀しそうな顔で見つめている。
「一度は僕も考えたよ。主を元の世界へ帰してやって、そして僕は君とその本丸を手に入れる……なんてね、そんなことできるわけないじゃないか。さあ、あの穴へ行く道を探しているんだろう。さっき見かけたから僕が連れて行ってあげよう」
「ひとりで行く」
「危険すぎるよ」
「じゃあうちの歌仙が戻ってきたら一緒に行くわ」
「いつになるかわからない。というだけじゃなくてね、君と君の歌仙兼定が一緒に行くのはまずいと思うよ」
 歌仙が皮肉そうに眉をちぐはぐに持ち上げて笑った。
「何故?」
「男と別れて世を儚んだ女だよ? その上執念に囚われていまだに魂をこの世へ彷徨わせているんだ。そんな女の前に君たちが一緒に現れてごらん。かえって逆撫でして何をしでかすかわからないよ」
 そして歌仙は彼女の手を掴んだ。一瞬引き抜こうとされても、決して離さぬというように強く握り直す。
「さ、そっちの歌仙兼定が戻ってくる前に片付けたほうがいい。それに僕もあそこへ行かなきゃいけないんだ。主が既に向かったらしい。うちの者が言うには、何やら呼ばれるようにして入っていったというから気掛かりでね。悪いが……いや、君にとっては全然『悪く』ないだろうが、僕も結局主のことが何より大事だ。主の身に危険が迫っているものを、黙って見過ごすわけにはいかないんだよ」
 手を引かれながらまだ迷っていた審神者だったが、先を歩く歌仙が振り向かずに呟いたのを聞いて、それ以上何も言えなくなった。
「きっと君に会うのはこれが最後になる。最後くらい、手を引いて君を守らせてくれたっていいだろう」
 それから手を取り合っていくつかの部屋を駆け抜け、廊下に出て階段を下り、水の滴る冷たい床を蹴って走り続けると、前方に人影が見えた。昼間より一層深い闇に包まれた横穴の手前に座っているのは、哨を頼んだ石切丸だ。駆け寄ってくる審神者と歌仙の姿を見て、「主」と立ち上がった。
「奥へ行かれるのですか」
 ふたりの表情から聡くも察した石切丸に、審神者は頷いた。
「あっちの審神者がなかにいる。私はやっぱりその人のことも助けたいの」
「ならば私も行こう」
「だめよ。あなたはここにいて、これ以上他の者が入らないよう監視して」
「しかし主、先頃から徐々に穴が小さくなっているんだ。本丸がひとつになる時、ここも閉じてしまうのではないかな」
 確かに最初に見た時には襖の丈ほどはあった穴が、人の背丈ほどにまで縮んでいる。審神者は奥を覗き込み、それから再び石切丸の顔を正面から見た。
「完全に閉じてしまったら、あなたは皆のところへ行って手伝って。もし床板を燃やしても解決しなかったら、とにかく政府に信号を送り続けてちょうだい。きっとこんのすけも向こうで頑張ってる。運良く向こうと接続できたら……だめかもしれないけど……その時は、その場にいる者たち全員で逃げなさい」
「主、きみは」
 尋ねる石切丸も、答えはとうに知っているという顔だ。
 かなしそうな目元を軽く指先で撫でてやり、審神者は笑った。
「私は在るべきものを在るべき場所にかえす最大限の努力をしたい。私がいるべき場所を守って、彼らの主をいるべき場所へかえすの」
 石切丸は細い溜息を吐くと、歌仙のほうを見ながら道を開けた。
「うちの主を宜しく頼むよ」
 心得た、と頷き、歌仙は様子を探りながら腰をかがめて先になかへ入った。差し出された手を握り、審神者もなか入る。振り返ると、更に小さくなった穴から石切丸が覗いていた。
「皆で待っているから、必ず帰っておいで」
 必ず。そうこたえてから、審神者は前を向いて歩きだした。
 入り口は小さくなっていたが、内部は背を伸ばして歩けるほどの高さを維持している。幅は、両手をかろうじて広げられる程度だろうか。等間隔に燭台が設けられており、鍾乳洞のような湿った岩肌をじんわりと照らしている。とはいえこれは女の記憶が作り出した空間であり、見えている物質に大した意味はないのだろう。はっきりとはわからないが、つま先に負荷がかかる感触から推測するに、この横穴はゆるやかに傾斜しているらしい。
 時折岩肌から染み出した水が地面へ落ち、音が反響する。それ以外はふたりの歩く足音と衣擦れしか聞こえない。
「ねえ、変なこと聞いてもいい?」
 この異常な環境において、既に覚悟を決めた審神者は妙に平常心を取り戻してしまっている。警戒しながら先を歩いていた歌仙が、「何だい?」と僅かに振り返った。
「どうして私のことを好きになったの」
「ほんとうに変なことを聞くね」
 再び後頭部しか見えなくなった歌仙の肩が小さく揺れた。
「……何故かな。肉体を得てから初めて目にした女人が君だというのは大きいと思うよ」
「なにそれ。誰でも良かったの?」
「最初はね」
 歌仙は笑い、また話を続けた。
「初めて君を見た時、僕は縁側に座っていた。たぶん、そっちの僕がうたた寝をしたんだろうね。君は庭で短刀たちと遊んでやっていて、背中を反らせて大声で笑っていた。刀として生まれた時から色々な女人を見てきたけど、あんなふうに笑うひとは見たことがなかったよ」
 私の生まれた時代には声を上げて笑う女性が大勢いるのよ、とは言えなかった。かえって彼の真心を侮辱することばのような気がしたからだ。ただただ、彼は自分の笑顔に惹かれたのだということだけを覚えていようと思った。
 しばらく無言のまま歩いていると、前方に小さな人影が現れた。近づいてみると、それは座ってあやとりをしている小さな女の子だった。燭台の灯火を受けてではなく、幼女自体が薄ぼんやりと発光している。そばを通る時に歌仙の袖が幼女の頭に触れたが、何も無いかのように素通りしたことで、それが人ではないことがわかった。
 更に行くと、制服姿の素朴な少女が佇んでいた。首に巻いたマフラーに口もとを埋め、頬を赤く染めて寒そうにしている。
 次に現れたのは、はたち前後の清楚な女性だった。まだ幼さを残した唇に薄い紅を引き、人待ち顔で周囲を見回している。
 その頃には審神者にもこれらの幻影が何なのかわかっていた。
 これは女の記憶だ。
 いま本丸を胎内に呑み込もうとしている死んだ女の生前の記憶が、順繰りに幻を見せている。
 不思議と恐怖心は湧かない。ただ、その後に壮絶な終焉が待ち受けていることなど知りもしない彼女たちの顔が、かなしくてならなかった。
「あまり心を重ねてはだめだよ」
 不意に歌仙が忠告する。
「同情の余地はあるが、君が巻き込まれていることの言い訳にはならない」
 取り込まれるぞ、と警告しているのだ。
 最後に見た幻は、真っ黒なのっぺらぼうの青年と抱き合っている女性の姿だった。これからの生活は喜びに満ちているであろうと疑いもせず、男の肩に頭を預けて黒い睫毛を伏せている。
 クリムトの『接吻』だ。審神者は通り過ぎざまに横目で恋人たちを眺めながら思った。愛の絶頂に浸る恋人たちのすぐ足もとには、断崖絶壁がぽっかりと口を開けているのだ。
 歌仙が足を止めた。彼の背中越しに前を見ると、それまで続いていた岩肌の壁とは打って変わって人工的な扉が行く手を塞いでいた。朱で塗られた観音開きの扉に錠は掛けられていない。
 振り返った歌仙は、場違いなほど穏やかな笑みを浮かべていた。
「覚悟はできているかい」
 彼女が頷くと歌仙は目を細め、扉に手を掛けた。
「君のことは必ず僕が守るよ」
 引きずるような重い音を立てながら、扉がゆっくりと開いた。
 明るい。
 瞬間そう感じたが、陽の光や電灯の明るさとはまったく趣が異なる。理由はすぐにわかった。がらんどうの座敷の四方八方に無数の蝋燭が揺れている。遠くに見える、いま通ってきたのと瓜二つの扉は、男の本丸に繋がるものだろうか。四方の壁はあるのかないのか、ただ暗がりのなかに畳敷きの床が広がっており、その中央に何か塊のようなものが見えた。
 警戒しながらゆっくりと近づくと、おそらくは一期一振が見た夢と同じであろう、髪の長い女と歌仙兼定が座っている。ただしおそらく一期一振の夢と決定的に異なるのは、女が腕を伸ばし、立ち尽くす一人の男の腰にしがみついていることだ。
 男は審神者と歌仙へゆっくりと顔を向け、微笑して言った。
「やぁ、初めまして、どうぞ宜しく……と言いたいところだが、どうもしくじったね。絡みつかれてしまった」

      ◇◆◇

「アンタくだらないもんばっか注文してないで、チャッカマンとか持ってないの!?」
 加州が目を剥いて噛みついている相手は鶴丸である。先程から数名が母屋に戻って火種を探しているが、屋内外を問わず降り注ぐ涙雨のせいで火は尽く消えてしまっているらしい。台所や鍛冶場へ行った連中もあてが外れて手ぶらで戻ってきていた。
 襟をグイグイと引っ張られながら鶴丸は「そんな……知らん……」と目を泳がせている。確かにあの端末からは面白そうな品を色々注文できるようだったが、そう都合よくライターの類を頼んでいるはずがない。
 ふたりの後ろでは数名が広げた布を持って、木材に雨があたらぬよう傘を作っている。大事な布を剥がれた山姥切国広は少し離れたところで顔を覆って立ち尽くしていた。ちなみにこれは女の審神者の山姥切である。
布を持っていた蜂須賀虎徹は、手を下げぬようにしながら腰をかがめ、血の染みた木材の様子を確かめた。身体を起こし、表情を曇らせる。
「まださほど濡れてはいないが、これ以上時間を食うとまずいな」
 ふたつの月は重なり合い、いまや殆どひとつになろうとしている。いまはどうにか雨を凌いでいるが、このままでは火種を見つけようが結局時間切れになってしまう。
 手の塞がっている蜂須賀は顔を素早く一振りし、湿り気を帯びた髪を煩わしげに背中へ除けた。
 その時不意に襖が勢いよく開き、髪を乱した小狐丸が「ああ、やっと出られた」と溜息を吐いて姿を現した。
「火はありましたか」
 前田藤四郎が尋ねる。ちなみにこれは男の審神者の前田だが、彼はどこの本丸でも行儀が良いらしい。
「いや……しかしこれを見つけた」
 小狐丸は持っていた筒状のものを庭のほうへ向け、親指を動かした。ここでは珍しい、白色の明かりが皆を照らす。思わず手で目元を覆った長谷部が顔を歪めて呻いた。
「懐中電灯などどうするつもりだ……!」
 あのねェ、と次郎太刀も呆れた声を漏らす。
「明かりが欲しいわけじゃなくて、火が欲しいんだよ」
「作業するのに暗いよりはましかと……」
 普段本丸で電気は使わないが、おそらく審神者が万一の時のために準備しておいたものだろう。勿論想定していたのはこんな事態ではなかったが。
 轟々の非難を浴びた小狐丸は、顎にあてた懐中電灯をつけたり消したりして恨めしげな顔を浮かび上がらせている。怖いんだけど、と呟いた加州の視界の端では、数時間ぶりに見る石切丸が縁側から庭へ下りてきていた。
「ぬしさまは!?」
 しばらく姿を見せぬ審神者のことを案じていた小狐丸が、あの奇妙な穴の監視をしていた石切丸ならば何か知っていると踏んだのであろう、懐中電灯の光源を石切丸に向けた。
「うわっ……! あ、……目がちかちかして何も見えない……ああー……」
 とっさに小狐丸の手を押し返して光をどけた石切丸は、目をしょぼつかせながら視界が戻るのを待っている。やがて「ああ、治った。びっくりした……」と眉間を指で挟んで揉むと、小狐丸を窘めた。
「もう、驚かせないでおくれよ。主は向こうの本丸の歌仙兼定と一緒に横穴へ入っていったよ。そのあとすぐに穴は閉じてしまった」
「お止めしなかったのか」
 なじる長谷部に、石切丸は温厚な笑みを寄越した。
「主が自分で決めたことだよ。主はこの本丸と私たち、それからそちらの審神者殿のすべてを助けると覚悟したようだ。そう言われてしまっては、本意ではなくとも見送るほかないだろう。きっと大丈夫さ、私たちは私たちにできることをやろう」
 彼女がもしもの時は自分を置いて逃げろと言ったことは、さすがにまだ伝えられなかった。
 そこへこれ以上無駄な問答はしていられないとばかりに今剣が割り込む。
「さいきんのかいちゅうでんとうには、ひをおこせるほどきょうりょくなものがあるとあるじさまがいっていました。かっていないのですか! やくたたず!」
「買ってねーよ」
 すっかり不貞腐れた鶴丸が視線も寄越さずにこたえる。
 その様子を見ていた石切丸が「じゃあ古式ゆかしき方法で頑張るしかないんじゃないかな」と皆に決断を促した。皆おぼろげに思いついていながら、あまりに面倒で誰も提案しなかった方法である。
「摩擦か……」
 積み上げられた枝から一本を拾い上げた加州が忌々しげに呟いた。
「これ乾いてるから使えそう。そんで板のほうに刃物で小さい穴開けて……あ、俺たち刀剣でよかったね」
 それを聞いて小狐丸が鼻で笑う。笑うよりほかに、どうしようもなかった。


<続>

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