■ うせもの奇譚

「なあ、まだ怒ってんのか? 高田」
 端末に向かって仕事をしている審神者の後ろで、畳に寝転んで肘枕をしている鶴丸がぶつくさと管を巻いている。
 高田のジャージやその他諸々の高田某の物と思われる品々が突如当本丸に出現した件については、こんのすけが直接上へ問い合わせに行った。それから数日が経過するがまだ帰ってこない。
「いや、私の名字高田じゃないから。じゃなくて、いまだ謝罪がないものをどうやって許せって言うのよ」
「俺はむしろ段取り踏んだって意味でマシなほうだと思うんだけどなぁ」
 一瞬歌仙のことが知られているのかと思い、審神者は身構えた。だが鶴丸の呑気な風情を見るに、単に一般論として述べただけらしい。彼女は密かに胸を撫で下ろした。
 あれから歌仙とはぎくしゃくしている。洗濯物を届けにくるのも光忠になってしまった。
 彼女自身、歌仙に対してどう接すればよいのかわからないでいる。あれが歌仙であったにしろそうでなかったにしろ、不思議と怒りは抱いていないのだ。同意の上の行為ではなかったが、最終的には受け入れていた。
「だって誰かの温もりが欲しい時だってあるだろう」
 指していることは違うとはいえ、この男はどうしてこうも人の心を乱すのか。
 審神者はうんざりした顔で振り返った。
「その程度の気持ちで夜這いを掛けようと思ってたわけ?」
「きみが男だったらこんな気持ちにもならなかったさ。ああ、俺を顕現したのがきみで良かったとは思ってるよ。けど大勢女がいるなかで、それでもこの人じゃなきゃダメだと思いながら恋い焦がれるってのは、いったいどういう気持ちなんだろうなあ」
 鶴丸の言葉を聞いて、彼女はふと考え込んだ。
 恋をしたことはあっても、そこまで激しい想いを誰かに抱いたことはこれまで一度もなかった。確かに、いったいどういう気持ちなのだろう。しかしそんな相手がいなかったのは幸運であったのかもしれない。もし心のなかにそういう相手がいたら、きっとその人を置いてこの地位に就くことは無涯の苦しみであっただろう。
「神様も俗なことを考えるのね」
 彼女が小さく笑うと、鶴丸は唇を尖らせた。
「きみたちがこういう状況で俺たちを呼び出さなければ、こんな思いは抱かなかったんだぜ。恋しようにも相手がいないってのはな。俺が犬だったら、きっと衝動を持て余して月夜にウォンウォン鳴いてるぜ。そしたらいい加減懲りて相手してくれるかい?」
 畳の上を素早く這って審神者の膝もとまで寄ってきた鶴丸が、匂いを嗅ぐ犬のような仕草で鼻先を彼女の肩口に近づけた。
「なんか今にも脚に縋って腰振ってきそう」
 昔、親戚の家の犬にやられたことがある。
「畜生はこういう段取り踏まないだろ……あっ、没収されてんだった」
 審神者に乗り上げるようにしてにじり寄っていた鶴丸は、懐に入れた手が空振りをしたので、せっかく入手したコンドームを取り上げられていたことを思い出した。
「さっき部屋に戻った時に補充しとけばよかった……」
 そういえば残りの入った箱はまだ鶴丸の手もとにあるのだった。あとで全部没収しないと、と思いながら、審神者は踵で畳を擦って上へ逃げた。その動きを察した鶴丸が、懐に入っていないほうの手を伸ばして彼女の腿のあたりの生地をぐっと掴んだ。
「まあ、別になけりゃないでいいわけだし」
「あんたほんっとに反省してないのね」
 これで戦場での働きが悪ければいよいよ懲罰ものだ。
 迫る腕から逃れて畳の上を這いずる彼女は、のしかかってくる鶴丸の下で身を反転させてうつ伏せになった。その背に鶴丸が貼りつく。襟を引かれて、うなじに吐息がかかった。
 いよいよ冗談では済まされないと、彼女は人を呼ぶため口を開け、それから眼前の床の間を凝視して言った。
「おんしん」
 は? と鶴丸が肩越しに彼女の顔を覗き込む。
 彼女の視線を追って床柱を見ると、ちょうど膝あたりの高さのところに確かに墨で書いてあった。
「音信」
 鶴丸がその文字を読み上げると、彼女も「でしょ?」という顔で振り返った。
 その前後にも何かが書かれていた痕跡があるが、「音信途絶し」の五文字以外はかすれていて判別ができない。無論以前からあった悪戯書ではなかった。何日か前に乾拭きをした時には、そんな文字はなかったはずだ。
 次の瞬間、鶴丸の腹に審神者の踵がめり込んだ。油断していた鶴丸はうずくまって咳き込む。彼女は立ち上がってその白いつむじを見下ろしながら着衣を整えて部屋を後にした。
 一連の不可思議な出来事と無関係ではあるまい。審神者の自室のことを最もよく知っているのは歌仙だから、彼にも確認をとるべきであろう。いまひとつしっくり来ない関係でいる歌仙と話す口実ができたことが、少しだけ嬉しかった。



 真昼というのに障子を締め切って自室に籠もる歌仙は、姿勢を正して墨を擦っていた。湿った黒が硯の上を行ったり来たりしているさまを眺めている時が、最も心が落ち着く。が、今日はだめだ。規則正しく動く墨を見ていると、余計な思考が巡りはじめてしまう。
 ついに歌仙は墨を起き、頬杖をついて真っ白な紙の上を睨んだ。
 この心のざわめきの理由は、先程廊下で同田貫正国に呼び止められたせいだ。
「ゆうべ便所長かったけど大丈夫か」
 予想外の言葉に歌仙はきょとんとした。昨晩は遅くまで針仕事をして、そのまま蒲団を敷いて寝た。一度も厠へは立っていないはずだ。
「庭で山伏国広と鍛錬してたら、廊下を歩いてるあんたが角を曲がってくのが見えたから。あの奥には主の部屋と便所しかないだろ」
「それって何時頃」
「さあ……夜中なのは確かだが。そのまま俺が自分の部屋に帰るまで、あんた出てこなかったからさ。腹下してんなら薬研に何か貰ったほうがいいぜ」
 普段あまり会話をすることのない同田貫の思いがけない優しさも、心得のない情報に当惑する歌仙の心には届かなかった。別段気にしない性分と見え、同田貫は「乱の湯たんぽでも借りたらどうだ」と言い残して去っていった。
 それから歌仙はふわふわとした足取りで自室へ戻り、こうして文机に向かっているというわけである。
 実を言うと、昨晩の針仕事に中断がなかったわけではないのだ。途中、急に睡魔に襲われてそばの机に突っ伏して寝入ってしまった。普段なら手慣れた調子でさっさと終わらせてしまう繕い物が思いがけず長引いたのは、そのせいでもある。目覚めた時は勿論同じ部屋のなかで、ただし畳の上に寝転んでいた。それはただ単に眠りながら無意識に体勢を変えただけのことだと思っていたのだが。
 みるみるうちに紅潮していく両頬をハッと手で押さえ、歌仙は哀れなほどに狼狽した。
(違う。僕じゃない、違う)
 そんな不埒なことをしでかす男じゃなかったはずだ。ましてあの彼女相手に。
 だがうたた寝から目覚めた時、睡眠欲が解消された爽快感と違うものを感じていたのも事実なのである。同じく根源的な欲求ではあるが、睡魔とは明らかに違うあの衝動が解消された時の感覚……歌仙は振り払うようにかぶりを振り、両目を手で塞いだ。
(僕はそんな男じゃない。それに、何も覚えてない。ほんとうに何も、ほんの一瞬の光景でさえ)
 懸命に記憶を辿り、情事の痕跡を探した。そのうちに脳裏の暗闇のなか、白い肌がぼんやりと浮かんできた。細くくびれた腰、揺れるやわらかな乳房、官能的に薄く開かれた唇……そこまで見て、歌仙は目を開いた。
 あやまちの記憶を探そうとして、今彼女の痴態を想像している。これは記憶ではなく、歌仙の想像の産物だ。主の裸形を思い描いている自分の姿に気づき、歌仙はギャオッとくぐもった悲鳴を漏らして机に突っ伏した。
 はたして自分はほんとうに夜中に彼女の部屋へ行き、無体を働いたのか。そしてそれを綺麗さっぱり忘れてしまっているというのか。
 眼前が真っ暗になるような感覚に襲われ、己の肩をきつく抱いた。
 その時不意に部屋の前が騒がしくなったので、呆けた顔を上げた歌仙は少しの間を置いてからよろよろと立ち上がり、障子を細く開けて外を覗いた。それから驚いて、「いったい何事だい」と障子を大きく開け放った。
 廊下の真ん中で愛染国俊が五虎退にヘッドロックをかましている。
「嘘つくなよ! お前だろ、オレの大福食ったの! 見てたんだからな」
「ほ、ほんとに僕じゃないですぅ……!」
「まだ言い訳すんのかよ!」
 もつれ合う短刀に面食らった歌仙は一瞬たじろいだが、すぐに「こらこら!」と割って入ってふたりを引き離そうとした。騒ぎを聞きつけ、一期一振が小走りで駆け寄ってきている。何事です、と目を丸くする一期一振に歌仙は「僕も何が何だか」とかぶりを振ったが、そうしている間も歌仙を間に挟んでふたりは揉めている。一期一振が泣きべそをかいている五虎退を引き寄せて背中に匿い、歌仙が国俊を後ろへやって背中で前を塞ぐと、ひとまずどちらも暴れなくなった。
「五虎退がオレの大福勝手に食ったんだよ!」
 問いただすより先に国俊が訴える。相当ご立腹のようだ。
 一期一振が振り返ると、ハッと顔を上げた五虎退が反論した。
「僕じゃないです! 僕はもう自分の分を頂きました……」
 国俊の弁はこうだ。
 台所の前を通りがかった時、光忠から「これ、余ってるんだけど全員分はないから短刀だけで食べなよ」と大福が載った皿を貰った。それで各部屋を回って五虎退含め短刀たちにひとつずつ配り、いざ自分の分を食べようとしたところ厠へ行きたくなった。用を足してからゆっくり食べようと座敷の卓に皿を置き、厠へ走り、そして大急ぎで戻ってくると、ちょうど五虎退が大福の最後のひとくちを口に入れて座敷から出てくるところだった。呆気にとられて立ち尽くす国俊の前で、五虎退は廊下を歩いていって奥へ消えた。それを追いかけて、今このような状態である。
「ふたつも食うなんていやしい奴!」
「僕はふたつも食べません!」
 状況説明をしているうちに再び腹が立ってきたらしい国俊が暴れはじめ、歌仙は後ろ手にそれを押さえながら「盗み食いねえ……」と一期一振と顔を見合わせた。一期一振も同じ表情をしている。
 国俊が嘘をつく理由もなく、いくら大福を食べそびれたとはいえ浅ましいでっち上げをするような人柄ではないのはよく知っているのだが、それ以上に五虎退がそんなことをするようには思えないのだ。
「オレ、嘘ついてねえかんな」
 唇を尖らせる国俊を見下ろし、歌仙は
(どうしたものか)
と困り果てた。
 覚えのないはずのことがこの本丸で頻発していることは皆薄々勘付いている。だが歌仙ほどそれを実感している者はいないだろう。審神者とのことが頭にある歌仙には、おそらくどちらの言い分も正しいのではないかと思われた。とはいえ何故そう考えるのかと問われても、よもやほんとうのことを言うわけにはいかない。
 一期一振も気の毒だ。歌仙は目を前へ戻した。「ほんとうに知らないんだね」と五虎退に念を押す弟思いの彼は、同派ゆえに庇い立てしていると勘ぐられることを憚って、どうにもやりづらそうにしている。
「君は五虎退が食べたってことに違和感を覚えた?」
 歌仙が尋ねると、国俊は「え?」と眉を持ち上げてから「うーん」と考え込んだ。
「確かに俺は見たんだけど……」
「うん、信じるよ」
「でも五虎退がそんなことする奴には思えなかったから、すごくびっくりした……」
「だよね。僕もそう思う。最近誰のものでもない物が急に現れたりしてるだろう。今度の一件もそれと関係してるんじゃないかと僕は思うんだ……まだ全然整理はできてないけどね。どうだい、この件の始末はもう少し色々とわかってからにしないか。事情が判然としないうちに揉めると、解決したあともしこりが残るかもしれないよ。それと、今度おやつが出たら僕の分をあげよう」
「えっ、マジで。やったぜ。五虎退、いきなり怒鳴ってごめんな!」
 じゃあオレこれから遠征だから! と手を上げて挨拶し、国俊は駆け足で立ち去った。あまりしつこく考え込まない気質だから、彼のなかにわだかまりは残らないだろう。こちらのほうはどうだかわからないが……と歌仙は膝を曲げ、ようやく一期一振の後ろから出てきた五虎退と目線を合わせた。
「というわけで、国俊のことはひとまず許してあげてくれるかい。皆で調べて真相を明らかにしよう」
「は、はい……」
「それで、ちょっと聞きたいことがあるんだ。もしかして今日、昼寝をしたかい?」
 聞いていた一期一振が怪訝な顔をする。
 五虎退はえっ、と目を丸くし、それから何故そんなことを訊かれているのかわからないといった様子で不安そうになりながらも、「えっと……」と口を開いた。
「お昼寝というほどじゃないです。でも大福を食べてすぐ、虎さんたちと日向ぼっこをしていたら急に眠くなって、少しうとうとしていました……」
「歌仙殿、それが何か」
 うん、と頷きながら歌仙は姿勢を戻した。
「三日月殿も最近妙な夢を見たと言っていたし、僕も昨晩どうやら眠っている間に立ち歩いていたようなんだよ」
 同田貫と話したことを、ただし憚られる部分は省いて伝えると、一期一振も深刻そうな表情を浮かべて考え込んだ。
「とにかく、そろそろこんのすけも戻る頃だし、一連のことの理由がはっきりすればきっと誤解もとけるよ。さ、もうお行き」
 つとめて温和に声をかけてやると、五虎退も少し安心した顔つきになって、虎を連れて立ち去った。
 残った一期一振が、口もとに添えていた指を外して歌仙を見た。
「最近私がよく見る夢と関係があるのでしょうか」
 思いがけない言葉に歌仙はまじまじと一期一振の顔を見た。いつも弟たちに向けて温厚な笑みを湛えている顔がどこか強張っている。
 長話になりそうだと思った歌仙は、自室に一期一振を招き入れた。
 向かい合って座るなり、一期一振が話し出す。
「大した夢ではないんですよ。決まって自室で眠った時です。弟たちの部屋で寝た晩には見たことがありません。その夢の内容はいつも同じで、暗い部屋のなかで長い髪の女人がひとり、蹲って肩を震わせ泣いているのです」
 何それめっちゃこわい。
 てっきり審神者づてに聞いた、三日月が夢に見たという男の話だと思い込んでいた歌仙は早くも逃げ出したくなった。
「そ、それって主ではないのかい」
「いや、違いますな。いつも深く顔を伏せているのではっきりと見たわけではありませんが、年の頃は似通うもののまったくの別人で、おそらく私は一度も見たことのない女人です。今生だけでなく、刀であった頃にも。場所は、暗いのでよくわかりませんが、ここと似たような屋敷の一室ですな」
 まったく見たことのない人物という点においては、三日月の話と一致する。
「で、その女人が『かえして、かえして……』と己の身を抱くようにして咽び泣くのです。ただ、それだけの夢です」
 こっわ。
 歌仙は顔を引きつらせた。
 そんな夢を度々見ておきながら、よく朝には平然とした顔で食事の席に座っているものだ。そのことのほうが怖いわ。
「では、その夢に出てくるのはきみも知らない女人ひとりだけなんだね」
「あ、いえ。そうではありません。崩れるように蹲って歔欷する女人を、少し離れた場所に座ってずっと見つめている人がいます。見つめているというか、見守っているような風情ですかな。ただ静かに座り、悲しそうな顔で女人を見下ろしているのです。慰めて、心を鎮めてやりたいけれども、自分にはどうしようもない……という顔です。その人の顔ならばはっきりと見えます」
 歌仙は生唾を飲んだ。
 どうも雲行きが怪しいような気がする。
「その人物は、」
 膝もとを見下ろして思い出しながら語っていた一期一振が、顔を上げて歌仙を見据えた。
「歌仙殿、あなたです」
「怖すぎ!!!」
 思わず耳を塞いだ瞬間そばの障子が勢い良く開き、歌仙は座布団を蹴って横様に転倒した。
 その尻を見下ろし、審神者が呆れた表情を浮かべている。
「あんたたち何やってんの」


 こんのすけがご褒美の油揚げを美味しそうに頬張っている。その様子を、鳴狐のお供が涎を垂らしそうな目で見つめている。更にその後ろでは小狐丸が羨ましそうな顔をしている。
 よくある光景だが、この本丸は平然とした表情を浮かべつつ、静かにしかし確実に何かが狂いはじめているのだ。一期一振たちから話を聞いた審神者は忍び寄る不穏な気配を感じつつ、正座してこんのすけの完食を待った。
 最後の一口を飲み下しぺろりと口の周りを舐めたこんのすけに、痺れを切らした長谷部が声をかけた。
「それで、何かわかったことは」
 はい、とこんのすけが頷く。
「しかし何からご説明したらよいのやら。まず知って頂きたいのは、本丸には座標があるということです。座標をもとに、政府は各本丸の位置を把握しています」
 ここが政府機関の存在する場所と地続きではないことは、審神者もよく知っている。ここは現代社会と過去世界との間にある、いわば繋ぎの場であり、亜空間である。無数の本丸に同じ本身をもとにした付喪神が存在しているという矛盾は、現実の世界では解消できないことなのだ。
「座標は基本的に不変のものですが、何らかの原因で動きます。たとえば本丸を維持する審神者に異変があった時などは、座標が不安定になることがあるのです。多少の変動があってもよいように本丸同士は離れて設置されているのですが、理由は定かではありませんが急速に移動することがあるようです」
「ここも場所が変わったってこと?」
「少しは。しかしここはさほど動いていません。実は、数ヶ月前からある本丸が本来の座標を離れ行方不明になっていました。連絡もつかないので位置を補足できずにいたのですが、今回この本丸から問い合わせがあったことで改めてこの周辺域を調査したところ、極めて近い位置に行方不明の本丸がいることが判明しました。近いというか、ほとんど重なってます」
「……どゆこと?」
「黒餡のおまんじゅうに白餡のおまんじゅうがめり込んでいるような状況です」
 一期一振が静かに口を開く。
「どっちが黒でどっちが白のおまんじゅうですか」
「いや、そんなのどっちでもいいから」と審神者は遮り、「でもここ、私たちしかいないけど……たぶん」
「現在は裏表のような状況なのです。審神者同士の力が反発しあいますから、表面上は独立を保っています。大きなシャボン玉という亜空間のなかで、小さなシャボン玉が二つくっついているような状態です。くっついてはいるものの、小さいシャボン玉の中はそれぞれ独立した空間でしょう。でもこれ以上接触していると、間の障壁が崩れて……」
「ひとつになる…?」
「そういうことです」
「何それ。早く取ってよ。勝手に人んちにへばりついて何してくれてんの」
 するとこんのすけが後ろ足で耳の付け根あたりを掻いた。人間でいうところの、頭を掻いている仕草らしい。
「いやあ、変動が激しかったせいか、あちらはずっと連絡がつかないでしょう。今向こうと接触できる可能性があるのは、この本丸を通してのみなんですよねえ……。あちらのこんのすけも本丸へ戻ることができずにストレスでえずいておりました」
「……原因を探って事態を解決しろって言われたのね」
「そういうことです。最近こちらに見知らぬ物が増えていたというのは、おそらく融合の度合いが増しているせいです。きっとこちらの物も向こうへ行っていますよ」
 それを聞いて審神者も考え込むが、思い当たるふしがない。とはいえ、こちらから消えた物があちらからやってきた物と似たような品々であったなら、なくなっていたところで案外気づかなかったり、どうせどこかへ仕舞い込んだのだろうと深く考え込まないかもしれない。
「あ」
 歌仙が天井を仰いで声を漏らし、一同の視線が集まった。
「ごめん、気を悪くするかもしれないと思って言わなかったんだけど、十日ばかり前に君の下着が一枚なくなっていたよ。どうせ犯人はここの者だろうから、君の耳に入れるのは誰だかわかってからでいいかな、と」
 審神者はそっと目を閉じた。考えたくない。自分のパンツが会ったこともない、おそらく高田という名の男のもとへ飛んでいったとは。
「下じゃなくて上……」
 ブラジャーのほうらしい。
「おい、くだぎつね」
 長谷部が低い声でこんのすけに迫った。
「完全に同化したら主はどうなってしまうのだ。主がどこの馬の骨ともわからん男とくっついて雌雄同体になるなど俺は許さんぞ」
「も、元々独立した存在である審神者殿たちがどうなるのかは私どもにもわかりません……! しかし、刀剣男士は元々ひとつの物から生まれたわけですから、おそらく双方の本丸に同じ刀剣があればひとつの人格に集約されるのでは……というか、既に影響が出ているのではないかと思われますが」
 ああ、それでは……。審神者はやっと少しは納得がいって頷いた。三日月が夢のなかで見た男というのは、きっと今裏側の本丸にいる審神者なのだ。睡眠時という最も自我が薄れる状態は、あちら側に干渉されやすいのだろう。
「あの、僕……」
 遠慮がちな声に審神者が目を遣ると、五虎退がおずおずと手を挙げていた。
「その話がほんとうなら、もしかしたら本当に愛染のおやつ食べちゃったのかもしれないです……。ひとつ食べたにしてはお腹がいっぱいで……食べた記憶が全然ないから絶対違うって否定しちゃったけど、もしもうひとつの本丸の僕が出てきて食べちゃってたら……」
 五虎退の証言が正しいのであれば、干渉には個人差があるということになる。しかも相互の現象のようだ。三日月が別の本丸を夢に見たというのは、向こうの三日月がうたた寝をした間にこちらが向こうへ浅く干渉したことになるのか。向こうの状況がわからないので何ともいえないが、ひょっとすると双方の本丸の同刀剣が同時に眠ることが引き金になっているのかもしれない。
「……俺が昨夜一緒に鍛錬したの山伏じゃないかもしれねえ」
 それまで黙って聞いていた同田貫が青褪めた顔で漏らした。
 同田貫曰く、庭に下りたところで山伏国広と遭遇したので何となく一緒に組み合ったり手合わせしたりと鍛錬したが、どことなく違和感を覚えていた。目の前の山伏は間違いなく山伏なのに、ふとした時の仕草が違ったり、普段よく言い合う何気ない言葉が通るのにいつもより時間がかかった……ような気がする。
 山伏は国俊と一緒に遠征に出ているので後ほど確かめるとして、こうなってくるとおそらく同田貫の感じた通りなのだろう。
 思ったより深刻な状態のようだ。いくら自分自身には変化がないとはいえ、これまで小さな違和感の数々を見逃していたことが悔やまれる。審神者は唇を噛み、この本丸を統べる者として迂闊であったことを申し訳なく思いながら皆の顔を順繰りに見た。
 長谷部、小狐丸、一期一振……そして歌仙の上に視線がとまると、きゅっと目を細めた。
(なんだその顔)
 妙に口数が少ないとは思っていたが、いま歌仙は無言のまま顔を真赤にし、口をぱくぱくさせながら審神者のことを見つめている。赤い金魚みたいだ、などと考えながらしばらく観察していたが、次の瞬間今度は彼女の顔に朱が差した。
(歌仙だった)
 あの晩部屋に忍び込み、彼女の肌を暴いたのはやはり歌仙であったのだ。中身は向こうの本丸の歌仙だろうが、器はこの歌仙だ。つまり肌をじかに合わせ、彼女のなかへ入ったのは、まさしくこの歌仙だったのである。
 審神者になった当初からずっと一緒にいた刀剣だから、細かな表情の変化もわかるつもりだ。この顔は単に意表を突かれたというだけでなく、図星だったという時の顔だと彼女は知っている。
(こいつ、思い当たる節があったのを黙ってたな)
 あれだけ彼女を破廉恥と罵っておきながら、あとで考えたらまんざら夢でもないらしいことを示す何かに気づいたのだろう。そしてそれを彼女に黙っていた。
「あちらの本丸はいったいどこまで把握しているのだろうか」
 この野郎、と内心で毒づいていた審神者は長谷部の言葉に注意を引き戻された。
 こんのすけが難しそうに目を細める。
「しばらく連絡がとれていませんからね。あちらは完全に外界から隔絶されている状態です。畑で最低限の自給自足が可能とはいえ、状況はこちらより悪いでしょう。どうせなら審神者殿のぶらじゃーなどではなく、もっと有用な食べ物や必需品があちらへ飛んでくれればよいのですが……」
「うん……そうなんだけど、なんか腹立つな……」
「とりあえず私はこれからまた戻ってふたつの本丸について調べてみます! 両者が引き寄せあうには、きっと何か理由があるでしょうから。皆様はこの本丸の変化に注意を払ってください」
 実際のところ、当面はそれ以外にできることはなさそうだ。それ以上議論したとて埒が明かなそうであったので、一同腑に落ちないながらもその場は解散した。
 そのあと審神者はすぐに自室へ引き取ったのだが、実をいうと廊下を歩いている間じゅうずっと背後に気配を感じていたので、彼女が部屋へ入り障子を閉めようとしたところへ歌仙が身体を滑り込ませてきたのも想定の範囲内だった。
「入るよ」
「もう入ってる」
 すっかり立場が逆転した感がある。歌仙にとっては昨晩のことは不可抗力であっただろうが、今朝方散々罵ってくれたからには少しくらい意地悪をしてやるつもりだった。
 つれない素振りで背を向けると、あからさまなほどに狼狽えた空気を後ろに感じた。
「何か用。少し汗を掻いたから着替えたいんだけど」
 どうせ止めるだろうと思いつつ帯を解きかけると、案の定後ろから肘を掴まれた。
「待って。お願いだから話をさせてくれ」
 振り返ると半ば泣きそうな顔と目が合ったので、さすがに虐めすぎたと矛を収めることにした。
 向き合って座ると、歌仙は畳に手をついて深々と頭を下げた。
「意図したことではないけれど、間違いなくこの僕が君に不埒を働いたようだ。申し訳ない。この通り」
「ああ、私も別に本気で怒ってるわけじゃないからよしてよ。頭を上げてちょうだい」
 促されて起き上がった歌仙は、冷や汗を拭くように首筋を撫でている。
「いや、君は怒ったほうがいいと思うんだけど……」
「私も何となく流されて受け入れちゃったみたいなとこあったから。自分でも何故かわからないんだけど。でもお互いのせいではないようだし、このことは水に流しましょう。綺麗さっぱり忘れてしまって」
「忘れて……」
 歌仙が動きを止めて畳の一点を見つめた。
 それからすぐに落ち着かなそうに髪を掻き上げ、咎めるような眼差しを審神者へ向けた。
「君は忘れられるのかい。僕は……僕は何も覚えていないくせに、忘れたくもないんだ。鶴丸殿が君に変な物を使おうとしていたと聞いた時も胸がざわつくのを必死で隠していたし、他の男が君に手をつけたと知った時も……まあ僕だったんだが……行き場のない怒りを覚えた。こんな気持になったことは今までなかったのに、ああ、僕はいったいどうしてしまったんだろう」
 ワッと畳の上に突っ伏した歌仙のつむじを見下ろしながら、審神者は頭に浮かんだ言葉を打ち消した。
 それを人は恋と呼ぶのでは。
 決して教えてやるつもりはないが、歌仙にとっての朗報は、鶴丸は別段審神者自身に懸想しているわけではなさそうだということだろう。恋が人の身を持ったゆえの悩みなら、肉欲もまたそれゆえの苦しみである。もっとも鶴丸の場合憂悶というより好奇心に駆られたようであるが。
「僕自身の所以といい、一期一振の夢の話といい、歌仙兼定という存在自体に何か良からぬ因果が内在しているんじゃ……」
 歌仙の苦悩は自身の存在懐疑にまで発展している。いやいやそんな大した話じゃないってば、と審神者は慌て、悩める青年に努めてやさしく声をかけた。
「今のあなたは人なんだもの。刀剣であった頃には感じなかっただろう複雑な感情が生じて当然でしょう。人にとってはごく普通のことよ」
 恋されるのは面倒事になりそうで億劫ではあるが。
「それにしても、普段なら単なる夢だと一蹴するけれど、こういう状況になると一期の夢も無視はできないね。ほんとうに思い当たる節はないの?」
「さあ……正直今は自分の『思い当たる節』に全然自身がないんだが、とはいえやはり何も思いつかないね」
 僕にもさっぱり……と言いかけた歌仙が不意に口をつぐみ、頬のあたりを掻きながら床の間を見つめている。
 何よ、とつられて視線を動かした審神者も、床柱の文字を見て歌仙の態度に納得した。成る程、確かにこれは言葉を失うであろう。
 先程発見した時同様、床柱には「音信途絶し」の文字が書かれている。だが少し時間が経過したからか、その前後の文字が姿を現しつつあった。文字は消えかけてかすれていたのではなく、浮かび上がってくるところであったのだ。
 歌仙がその文字……今や文章となった言葉を読み上げた。
 約二箇月前より、当本丸はいづ方とも音信途絶し、孤立致し居り候。貴殿におかれましては、若しこの書付にお気づきになり候はば、至急ご助力を賜りたく存じ候。お返しせねばならぬ品々、当方にて多々取り置きの由……。
「……さっきこの話をしようと思って歌仙の部屋に行ったんだった」
「こんな大事な話をしそびれたのかい」
 歌仙が胡乱げな顔をする。
 そう言われても、審神者も肩をすくめるほかない。
「だってさっきは五文字しかなかったのよ」


〈続〉

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