■ ツークツワンク #8

 噂話をしている兵士たちのそばを通り過ぎながら、クロエはこめかみを指で押さえた。
(馬鹿な)
 そんな馬鹿なことはありえない。調査兵団団長が、職務を放棄して自宅に引き籠もるなど。
 噂はそう語るが、厳密にいえば職務を放棄したわけではない。兵団内の万事は滞りなく回っており、団長は諸々の引き継ぎを済ませた上で彼の権利である有給休暇を僅かに三日消費しただけだ。ただそれが極めて珍しいというだけで。
 控えめにいってもワーカホリックのエルヴィンが三日も兵舎を離れ自宅に戻ることなど、ハンジの言によれば過去に例がないらしい。おかげで休暇は溜まりに溜まり、聞けばまだ十数日は残っているという。判を押す側の彼自身の休暇なのだから誰も意見できず、だからといって上限いっぱい休まれればさすがに諸事に支障をきたす。
 すっかり乾いたドアから秘書室に入ったクロエはジャケットを脱いで椅子の背凭れに掛けると、デスクの上に置かれたら数々のメモに一枚ずつ目を通していった。
 皆、クロエを通せば団長に連絡がとれ、指示を仰げると思っているらしい。各所から上げられた報告や相談が山積みになっている。なかには「売店のスナックの種類を増やしてほしい」などのどうでもいい陳情も含まれているが、多くは二週間後までは放置できない案件だった。
 ひとまず優先順位の高い順に並べ、どう処理したものかと思案しているところへノックの音がした。
「どうぞ」
「こんちは」
 入ってきたのはハンジだ。後ろにエレンもいる。
「いまドアの前で一緒になったとこ」
「クロエさん、こんにちは!」
「こんにちは……ハンジ分隊長、ここって団長代理とか副団長とかいないんですか。団長の不在時に職務を代行できる……」
「いないよ。過去にいたって話も聞いたことがないな」
「何故です?」
「さあ……誰も思いつかなかったから?」
 アホばっかかよ。クロエは歯噛みした。よくこれまで問題が起きずに回してこられたものだ。
「まあ、それを言ったら秘書もいままでいなかったしね。この機会に団長代行を設置を陳情してみたら?」
「その際は『団長のお世話係』って募集をかけてください……」
「はは、それはクロエの仕事」
 ふうと息を吐いたクロエは、ハンジの横に立つエレンに目を留めた。
 ふたりの会話が途切れるのを待っていたらしい。
「そういえばエレン君はどんなご用事で?」
「あ、実は兵舎の俺たちの部屋が雨漏りしちゃって。適当に板を打ち付けて凌いでたんですけど、今朝になったら溜まった水が一気に落ちてきて真下のベッドが水浸し」
「うわ、お気の毒。誰のベッド?」
「ジャン」
「踏んだり蹴ったりね」
 そうは言われても、クロエには何の権限もない。しかしながらいまは空いているベッドに避難しているというものの、折悪しく昨日から小雨が降り続いており、長く保留しておくわけにはいかなそうだ。
 参ったな、とクロエは唇を噛んだ。
「寮監に相談した?」
「はい。でも最終的には修繕は団長の許可がいるから上に持ってけって」
「分隊長、ここって総務とか庶務とかないんですか?」
「知らなーい。聞いたことない」
 いままでどうやって組織運営していたのか甚だ疑問である。
 コストを抑えるためなのだろうが、団長はこんな些事まで一手に引き受けて処理していたらしい。
「……仕方ありません。私、やっぱり団長のご自宅に伺ってみます。直接支持を仰ぐほかに手段がなさそうだから」
「それがいいね。私もこの書類を届けてもらえると有難い。ついでにエルヴィンの様子を見てきてよ。休暇前の最後の日、随分気落ちした顔で正門を出ていったそうだから」
 つまりクロエが男性経験を明かした日の翌日だ。朝にその話をしてからというもの、翌日夕方に姿を消すまでのあいだずっと、エルヴィンはクロエを執拗に避けていた。よほどショックだったのだろう。トイレでプリプリの「M」を口ずさみながら泣いていたとの目撃情報もある。
(やっぱり私のせいなの?)
 はじめのうちは「そりゃ自意識過剰だろ」と自分で突っ込んでいたが、こうなってくるとどうもその予想が正しかったらしい。
 エレンは妙に嬉しそうな顔をしている。
「クロエさんが団長のこと振ったってほんとうですか?」
「振った? そんな噂が流れてるの? いやいや、それは嘘。そんな事実はないよ」
「でも何日か前の朝がた、道端でクロエさんが団長の腹を殴って逃げ去ったところを見た奴がいるって」
「ああ、あれ……」
 見ようによっては振ったように見えたかもしれない。実態はそれ以前の問題だったわけだが。
「あれは……ちょっと見解の相違があっただけ。私と団長のあいだにはなんにもありません」
 なんにもないならよかった、と笑うエレンがこわい。団長が休み続けているから心配だ、とかそういうのはないらしい。家の前で皆で踊ったら釣られて出てくるんじゃないですか、などと言ってハンジと一緒に腹を抱えている。慕われているのかそうじゃないのかほんとうによくわからない男だ。クロエは首を傾げた。
「……そうだ、手土産。ハンジ分隊長、団長がお好きなものってご存知ですか?」
 手ぶらというわけにもいかないだろう。特に案がなければ果物の詰め合わせでも持っていけばよい。
「ロイヤルカ○ン」
「は?」
「ロイヤルカ○ン」
 まぁあの男ならキャットフードくらい食うかもしれない。クロエは近くにあった紙の裏に「ロイヤルカ○ン」と走り書きをした。

   *

 そんなわけないだろ、と気づいたのは、道すがら店に立ち寄った時のことだ。いくらエルヴィンでも猫の餌を貪り食うわけがない。確かリヴァイがデブ猫と言っていたことを思い出し、減量用の餌をひと袋買ってから表で待たせていた馬車に戻った。
 エルヴィンの自宅は郊外にあるという。街の賑わいを通り過ぎ、しばらく砂利道に揺られていると、木々の向こうに屋根が見えてきた。石造りの外壁に高い煙突が特徴的な、田舎屋敷といった佇まいだ。
 馬車を降りたクロエは手鏡で髪を直してから家の様子を窺った。窓辺にひとけはない。
 丈の低い鉄の門に鍵はかかっておらず、なかへ入ると石敷きの小径が緩やかなS字を描いて暖かい色の木製の玄関扉へ続いている。想像していたよりずっと小ぢんまりとした、どことなく懐かしい家だった。
 玄関ポーチに立ったクロエは少し躊躇ったあと、指をドアノッカーの輪に引っ掛けて四度叩いた。
 反応がない。
 耳を寄せてみても何の気配もないので、クロエはいま一度ドアを叩いた。
 またしても無反応であるためもう一度、今度は耳をドアにぴたりとくっつけて様子を窺うと、どうもドア一枚隔てたところで小さな物音がする。
「開けろ!」
 拳でドアを連打すると、やっと小さな悲鳴のあとに解錠する音が聞こえた。
 ゆっくりと開いたドアは、しかし顔幅でとまる。
 その隙間から、あの蒼い瞳がこちらを見ていた。
「どうして居留守を使うんですか」
「いや、別に……」
「そんなに私のことが気に入らないんですか? 女々しいったら……」
「いや、髪を洗っていて出遅れただけなんだが……」
 言われてみればエルヴィンの額にぽたぽたと水滴が落ちている。
「……開けてください」
 ようやく大きく開かれたドアからなかへ入り、クロエは首に巻いていたストールをほどいた。霧のような雨のせいで、髪がやや水を含んでいた。
 吹き抜けの玄関のそばから、二階へ続く曲線状の階段が伸びている。正面奥は応接間のようだ。大きな窓の向こうに雨に煙る緑が輪郭ぼやけて見えている。
 背後でドアの閉まる音がした。
「どうしたんだね、急に」
「急に? それはこちらの台詞です。団長がご不在のあいだ、仕事が滞って大変なんですよ」
「ちゃんと引き継ぎをしてきたはずなんだが」
「新しい懸念事項が次から次へと。新兵の部屋の天井は雨漏りしちゃうし。お水がジャン君直撃」
「それはそのままにしとこう」
「またそういうことを言う」
 エルヴィンはクロエを応接間へ通し、カウチに座らせた。それからバスローブ姿のエルヴィンは着替えてくるといって二階へ引っ込んでしまい、待っているあいだ、クロエは手持ち無沙汰に部屋のなかを見回した。訪れるひとも少ないのだろう、応接間は本来の用途から逸れて寛ぎの場となっているらしく、あちこちに置かれた本が主人の読書家ぶりを表している。
 しばらくすると奥の扉が開き、クロエは顔を上げたが、入ってきたのはエルヴィンではなく二ヶ月天日干しにしたような老婆だった。手にティーセットの載ったトレイを持つ彼女は、その場で立ち止まっている。と思いきや、よく見ると進んでいる。カタツムリ並の速度で。
(ははあ、あれが『住み込みの婆さん』……)
 作業効率は到底期待できそうにないが、きっと古い誼で使ってやっているのだろう。
 長い長い時間をかけてクロエの前のロー・テーブルにティーセットを置いた家政婦は、再び長い長い時間をかけて奥へ戻っていった。
 すると今度は座っているカウチの下から何者かの気配がする。おやっ、とクロエが足を上げると、カウチの下から灰色の岩のようなものがもぞもぞと這い出してきた。
「ぶにゃぁあん……ガッ、ゴッ、コッ、ガハッ……ペッ」
 姿を現すなりクロエの足もとで毛玉を吐き出し、そのまま巨躯を揺すって玄関ホールのほうへ消えていったそれは、話に聞くエルヴィンの愛猫なのだろう。確かにその姿にフランチェスカという可憐な名前は不釣り合いだ。どちらかというと、「岩」とか「壁」とかのほうが似合っている。
 お前んちおばけやーしき、と言いたくなる衝動を抑えているうちに、エルヴィンが二階から下りてきた。拭いたばかりの髪を後ろへ撫でつけ、フランネルのシャツとスラックスに着替えている。
「おや、フランチェスカが通ったのか」
 クロエの足もとの落とし物を見て、エルヴィンは新聞紙を一枚取ると床を拭いた。
 吐瀉物を掃除、という状況が先日と重なり、クロエは思わず小さく噴き出した。
「……どうかした?」
「いいえ……そうだ、これを猫ちゃんに」
「なんと! 有難い。この辺の店じゃあまり売っていないんだ」
 猫の餌を受け取りテーブルに置いたエルヴィンは、クロエの向かいの一人掛けソファに腰を下ろした。
 沈黙が流れる。
 執務室では何度もふたりきりになったのに、何故か妙な気まずさを覚えたクロエはティーカップに手を伸ばした。
 肘掛けに頬杖をついたエルヴィンがこちらを見つめている。
 ひと口飲んだカップをソーサーに戻してから、クロエは本題を切り出した。
「どうして急にお休みなんか取ったんです」
「休みたかったからだよ? このところずっと働き詰めだったし。それがそんなに変?」
「変です。だって団長がそんなふうにお休みを取ることなんて滅多にないって皆さん仰ってますし、私だって奇妙に感じました。仕事してないと死んじゃうくせに。こんなことを言うのは自意識過剰のようで恥ずかしいんですけど、ひょっとしたら私のせいなんじゃないかと……」
「あのな、クロエ」
 エルヴィンがつま先より少し先の床を見下ろしたまま遮った。
「私はね……少し疲れてしまったんだよ。実をいうと、明日には戻るつもりだったよ。でも、少しの間休息が必要だったんだ」
 それからソファに座り直した。
「これは私が若い頃の話なんだが……」
 あ、なんか長くなりそう。クロエは億劫がったが、エルヴィンは悉皆気にせずに勝手に昔話を始めている。
「当時私は訓練兵だった。同期にナイルってのがいてな。よくふたりで憂さを晴らしに酒場へ行ったよ。まだ若かったから酒を飲んでは愚痴を言い合い殴り合い、酒を飲んでは歌を歌い、シメにアイスを食べながら兵舎へ歩いて帰るのが私たちの日常だった」
 やはり当時から酒癖は悪かったらしい。
「その頃の行きつけの店にマリーという女がいた。五番街の店だ。君に負けず劣らずの美人でね。よくある話だが、私は彼女に恋をしたんだ。でも恋敵がいた。ナイルのクソ野郎だ。私は僅かな給料から必死こいてマリーに貢いでいたんだが、私が費やした金額よりもクソナイルの『俺は憲兵団へ行く』という言葉のほうが彼女には効果覿面だったらしい。きっと安定した生活を求めていたんだな。私は恋に破れたわけさ。私の手もとに残ったのは残高ゼロの預金通帳だけだった。そうして彼らが結婚するまで私は毎夜苦悶し、もしいまからでも彼女がこの腕のなかに戻ってきてくれたらと願ったが、結婚式で誓いのキスを交わすふたりを見て思ったね……『あ、やっぱいらね』って」
 聞いているクロエは頭上に疑問符を浮かべている。
 やっぱいらねえも何も、マリーとかいう女性は一度たりともエルヴィンのものだったことはないのだから『戻ってきてくれ』という願いがそもそもおかしい。
 が、面倒臭いので口は挟まないことにした。
「今更彼女を手に入れたとしても、彼女が一度はナイルを愛した事実は覆せない。たとえマリーと結ばれたとしても、彼女は時折はナイルのことを思い出すだろうし、死に際の走馬灯のなかには私8:クソナイル2くらいの比であいつの顔を思い浮かべるはずなんだ。そう考えた私は、もうマリーに恋しても不毛なのだとやっと気づいた。私は愛するひとに、その死に際に私の顔だけを思い浮かべてほしいんだ。だから君が過去に男を知っていると聞いて絶望した。君もまた、いつか私の顔を他の男たちの顔のあいだに思い浮かべるのだろう、と。スラムダンクのエンディングのように次から次へと去来する男たちの顔のひとつにしか私はなれないんだ。そう、私はクロエのマイ・フレンドのひとりにすぎない……」
 処女厨の弁明を聞き終えたクロエは、手のなかのカップの腹を指で擦りながら心底思った。
「くだらねえ……あっ、声に出しちゃった」
 しかし言ってしまったことは仕方ない。クロエはカップを再びテーブルに戻し、エルヴィンの目を真っ直ぐに見据えた。
「誰かを愛するってことは、そのひとの過去も引っくるめて大切にすることだって母が言ってました。どんな過去であっても、そのことについて正しかったとか間違っていたとか評価を下すのはやめて、ただただ受け入れるんです。だってそういう過去もまた、いまのそのひとを形づくった大切なものだから。この前団長がおっしゃっていたように、重ねた年月とか経験とか、そういうものすべてがいまの団長を作り上げたはずです。そのなかには失敗だったりバツの悪い記憶もあるだろうけど、それがなければいまあなたが歩んでいる道にはたどり着けなかったんでしょう。ZA○Dも言ってます! 『どんなに不安でも真っ直ぐあなたの道を信じて』って」
「自分の道を信じて、だ。しかし……そうだな、確かにマリーに恋し、恋に破れていまの私がある。もしマリーと結ばれていたら君とも出会えなかった。あ、いや出会えたかもしれないが、不倫になる」
「私、既婚者は守備範囲外です」
「そっか……」
 正直なところ、クロエ自身があまりこのような考え方を信じているわけではなかった。歩んできた道のりがいまの自分を形づくっているというのは当然で、そのこと自体には事実以上の意味がない。あらゆる生物にとって、ある場所ある時点に突如登場することは不可能だからだ。十五歳を経由しなければ三十歳にはなれない、ただそれだけのことだ。
 「若い頃の苦労は買ってでもしろ」と言うひともいる。ただ、悠々自適に生きてきたわけではないクロエにとって、やはりカットできる苦労はカットすべきものだ。最短ルートで行く必要もないが、かといってわざわざ回り道をすることもない。後々になって横道に逸れた経験が生きてくることもあるといっても、それは結果論であり、すべての横道が確実に有益であると言いきれない限りさして意味がない。無駄に過ごしたかもしれない過去に意義を持たせたいというだけの場合もある。更にいえば、コストカットはそれはそれで能力のうちだ。
 しかし、その上でクロエが美辞麗句を並べたのは、なんとなくエルヴィンがそれを必要としているような気がしたからだ。回り道をしているのではないかと疑念を抱いても、歩んできた道のりがひょっとすると無意味であったのかもしれないと不安がよぎっても、それでも自分を奮い立たせなければならない時がある。
 きっとエルヴィンも同じようなことを部下たちにしているはずだ。虚無感や無力感に襲われることも多い立場だろう。部下の命を浪費したと感じることも。それでも尚彼は勇猛果敢にして虚飾に満ちた言葉で彼らを叱咤激励せねばならない。だが、彼にその言葉を掛けてくれるひとはあまりいないのだ。時として、同じ苦悩にともに取り組んでくれる相手よりも必要かもしれないのに。
 その時クロエは初めて自分とエルヴィンが少し似ていることに気づいた。
 誰かが悩んでいる時、その苦悩をともに担いでやることはしないけれど、ただ励ましてやる。無責任だし、卑怯ともいえ、ややもすれば嘘つきかもしれない。
「団長」
 クロエは微笑を湛え、膝に両手で頬杖をついて身を乗り出した。
「私の昔話も聞いて。初めて恋人ができたのは、まだ故郷にいた頃、十六歳。相手は近くの農場に住み込みで働いてた男の子で」
「うわやめろ、聞きたくない」
 エルヴィンが耳を塞ぐ。
「告白してきたのは向こうから。五月に初めてキスして、六月には納屋で初めて、」
「ヒィ」
「でも結局ひと夏で色褪せちゃって、九月にはだめになった。そのあとしばらく恋はしなくて、学校を出たあと街へ仕事をしにきたの。そのあと付き合ったのは四人。深い関係になったのはそのうち三人」
「り、リアルな数字だ……」
「でも全部長くは続かなかった。言ったでしょう、『本気の恋はしたことがない』って。私はまだ探してるの」
 恨みがましい目でクロエを見つめるエルヴィンに、クロエは小さく笑った。
「もし私がいま死んだら、いくつかの顔のあいだにきっと団長のことも思い浮かべますよ」
 一番強烈なキャラクターだったからだともいえる。
 しばらく黙っていたエルヴィンだったが、やがて人差し指でクロエの隣を示した。
「隣に座ってもいいかな」
 クロエはカウチの中央から少し端に寄った。
 のそのそと立ち上がったエルヴィンが隣へやって来て、そっと腰を下ろした。
「団長が、」と言いながらクロエはクッションにもたれかかり、「いまお休みを取りたかったのは、私のせいじゃなかったんですね」
「……」
「次の壁外調査の件でじっくり考える必要があったから? それとも資金繰りのことかな。いずれにせよ家に篭ってじっくり考えなくちゃいけなかったのは、兵団のことだったんでしょう。でも私に連れ戻しに来て欲しかった……そうでしょ? だからあんな紛らわしい状況で姿を消した。もう何日か経てばハンジ分隊長とか、他のひとがきっと呼びに来る。でもあのひとたちは……私はとても好きだけど、でも兵士。あのひとたちが呼びに来るのは団長。私はたぶん、エルヴィン・スミスを呼び戻しに来てしまったの」
 エルヴィンは自分の爪のあいだを見ている。それから眉間に皺を寄せ、かぶりを振った。
「そこまでバレるとは正直思っていなかったよ」
 するとエルヴィンは天井を見上げ、それから膝を見下ろし、しばらく考え込んでから改めてクロエのほうへ顔を向けた。
「一度だけキスをしてもいいかな。それで諦めるから」
 エルヴィンのいる側と反対の端に置いたクッションにもたれかかっていたクロエは、エルヴィンの蒼い瞳を見つめながら彼の脛をつま先で軽く小突いた。エルヴィンがクッションを背にしたクロエの上にゆっくりと覆い被さる。まだ乾ききらない前髪が額に一房垂れた。
 鼻先のつきそうな距離で互いの瞳を覗き込み、やがてエルヴィンの唇がゆっくりと下りてきた。
 クロエの柔らかな唇の弾力がはじめはエルヴィンの唇をやさしく押し返し、やがて吸いつくように迎え入れた。エルヴィンの親指が、確かめるようにしきりにクロエの頬を撫でている。クロエが薄く唇を開くと、肉厚の舌が割ってなかへと侵入した。
 クロエの後頭部を支えるエルヴィンの手が彼女を掻き寄せ、その指に長い髪が絡みついた。厚い胸板が柔らかな乳房を押し潰す。重みを受け止めながら、クロエは細い腰を震わせている。クロエの舌をとらえたエルヴィンの舌が絡め取るようにまとわりついた。初めてのキスにしては濃厚だか、クロエは嫌な気分ではなかった。
 やがて湿り気を帯びた余韻を残し、エルヴィンの唇がゆっくりと離れていく。
 額同士を押し当てたままエルヴィンが己を納得させるように目を閉じた。
「諦めちゃうの?」
 エルヴィンの目がぱちりと開く。
 至近距離でクロエの瞳がこたえを待っている。
 エルヴィンはウッと喉をつまらせ、怒ったような表情を浮かべて身体を起こした。つられるようにクロエもカウチから背を離す。
「そういうことを言うよな、君は……」
「訊いただけ。諦めるの?」
 クロエは小さな笑い声を漏らしながら服の乱れを直した。
 そこへ猫のフランチェスカがドスドスと床を踏み鳴らしながらやって来て、ふたりの間によじ登った。よじ登ったというのは、跳ばなかったからだ。もたつく後ろ足をようやく引き上げて、フランチェスカはフンと鼻息を鳴らして丸くなった。
 その腹にエルヴィンが顔を埋める。
「どうした、妬いたのか? お前はほんとに可愛いなぁ、チュッチュ! チュッチュ!」
「チュ……」
「私はフランチェスカのことをいつもチュッチュと呼ぶんだ。ほらチュッチュ! チュッチュ!」
 ぶっとい腕をエルヴィンに取られ、「ヨイヨイ!」と踊るように右へ左へ揺らされながらもチュッチュもといフランチェスカはふてぶてしい表情を崩さない。
 この男、底が知れない。クロエは外れかけていたピアスを左手直しながら、右手でソーサーごと紅茶を取った。紅茶を飲み終えたら、エルヴィンの尻を蹴飛ばして兵団へ戻らせるつもりだ。


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