■ ツークツワンク #4

 調査兵団本部に勤務するようになってからクロエが学んだことは、いつだって事件は朝に起きるということである。その朝出勤したクロエは、廊下を歩きながら秘書室の前に立て看板が出ていることに気づいた。
『塗りたてにつき開閉厳禁』
 肩から提げた鞄が肘までずり落ちる。
 仕方なくノックをしてから団長執務室のドアを開けると、デスクの端に浅く腰掛けたエルヴィンが新聞を下げて「おはよう」と挨拶してきた。
 秘書室のドアの塗料が乾くまで、当分のあいだは執務室を通って自分の部屋へ行かねばならない。団長はいつも部下に対し報告・連絡・相談の重要性を説いていたはずだが、当の本人は連絡も相談もなしにすべてを決めてしまうのだ。
「そういえば君の部屋のドアがみすぼらしくなっていたので塗り直させたよ」
 そして報告も常に遅い。

 本部の近くには飲食店が多い。接待に使われる高級な店も多いが、路地を一本入ると夜にはバルになる小ぢんまりとした店もあり、クロエはよく昼食に利用していた。足繁く通うようになると店主とも顔馴染みになり、その日は土産に焼きたてのクッキーとひと包み貰った。
 その気持が嬉しくて受け取ったが、甘いもの自体がそんなに得意なわけではない。先日作ったプリンも美味ではあったが食べるのは一個が限界だ。十枚以上は入っていそうな包みを手に、どうしたものかと考えながら本部への帰路についた。
 敷地内に入ると、若い兵士たちが人懐っこい顔で挨拶しながらすれ違いざまに頭を下げてくる。秘書という立場の人間との距離を測りかねた彼らは、学校の先生に対する態度と同じものを適用することにしたらしい。
 会釈を返しながら建物に沿って歩いていたクロエの前方から、先日プリンを渡した新兵がふたり歩いてきた。男女はそれぞれ木箱をひとつ抱えている。ちょうど周囲のひとけが途絶えたので、クロエは手をあげて「こんにちは」と声をかけた。
「ねえ、貰い物なんだけどクッキー食べない? 私、こんなにいらないの」
 先日誰よりも先にプリンに食いついた少女が「クッキー!」と叫ぶ。背の高い少年の肩がびくりと跳ねた。
「頂きます! ありがとうございます!」
「数が少ないからここで食べてね。はい、あーん」
 両手が塞がった少女の前にクッキーを一枚差し出すと、少女は躊躇うこともなく口で受け取った。軽快な音を立てて咀嚼する少女の表情は幸福そのものだ。よほど食べることが好きらしい。少し面白くなってもう一枚差し出すと、それもぺろりと平らげた。
「サ、サシャ……少しは遠慮しなよ」
 のっぽの少年が遠慮がちに窘める。サシャのほうは「美味しいです、幸せです……」とろくに聞いていない。
 クロエはもう一枚クッキーを取ると、今度は少年のほうへ差し出した。
「はい、あなたもどうぞ」
「えっ、あの……」
「ベルトルトが食べないなら私が頂いちゃいますよ」
 サシャに肘で小突かれ、耳まで赤くした少年・ベルトルトは腰をかがめて唇でクッキーを受け取った。もぐもぐと口を動かしながら恥ずかしそうに「美味しいです……」と言うベルトルトは先日のエレンとはまた違うタイプながらまったく少年らしく、クロエは「それはよかったこと」と笑った。
 もう一枚ずつクッキーを与えたあと、クロエは「じゃあね」とふたりに別れを告げた。背後から「あのかたは天使なんですかね」「だから少しは遠慮しなって……」という小声の会話が聞こえ、クロエはくすりと笑った。
 楽しげな気持ちも部屋へ戻ってくると急激にしぼむ。『塗りたて』の看板の前を憎々しげに通過したのち、団長室のドアをノックした。
「どうぞ」
「失礼します」
 自分の部屋に行くためにいちいちこの遣り取りをしなければならないのも面倒だ。
 エルヴィンは窓際に立ち何やら本を読んでいるところだった。午後の日差しが彼のブロンドを透けるほどに照らしている。
「昼食に出ていたのか」
「はい」
「いつもの店?」
「ええ」
 ふとデスクに目を遣ると、空の食器の載ったトレイがそのままにされている。ここで昼食をとったらしい。荷物を部屋に置いたらトレイを食堂へ返しにいこうと考えているところへ、エルヴィンから声をかけられた。
「先ほどは中庭で何を?」
「中庭?」
 何気なくエルヴィンを見ると、窓の向こうにさっきサシャやベルトルトと会った場所が見下ろせた。たまたまこの窓辺から目撃したらしい。
「ああ、お店でクッキーを頂いたんですが、食べきれないので偶然会ったふたりに少しあげたんです……いけませんでした?」
「いや、それくらいは別に構わないよ」
「そうですか、よかった」
 再び自分の部屋へ向かいかけると、またしても引き止められた。
「私のぶんは?」
 足を止めて振り返ると、開いた本を持ったままのエルヴィンがこちらを見つめている。
「はい?」
「全部彼らにあげてしまったのか?」
「いえ、まだ残ってますけど……そんなに甘いものがお好きでしたっけ?」
「ちょうど食後に何か甘いものがほしいと思っていたところなんだ。ひとつくれるかね」
「ええ、勿論です」
 変なひと、と首を傾げながらクロエは包みを開き、エルヴィンに差し出した。
 しかし、クロエは包みのなかからクッキーを取ろうとしない。そしておもむろに掌中の本を揺らして「手が塞がっているんだ」と主張した。
 クロエは包みを持ったまま手でデスクを示した。
「お置きになったら」
「クロエ」とエルヴィンはかぶりを振り、「団長命令だ」
 一枚取ってこの男の口に放り込めば済む話ではある。それでも首肯することを躊躇ったのは、やはり自尊心がクロエを引き止めたからだろう。
「……未婚の女性に対して失礼では?」
「私は部下の未婚女性に尽く礼を欠いた命令を出してきた。君も例外ではないよ。私の部下だからね」
 悠然と微笑するエルヴィンはやはりこのまま逃がしてくれそうにない。
 結局クロエは已むなしと反対の手でクッキーを一枚とり、顔の高さまで持ち上げて
(これで宜しい?)
と大袈裟に見せつけた。
 宜しい、と笑うエルヴィンの口もとにクッキーを差し出すと、彼はひと口で食べればよいものを、クロエのよく整えられた爪の手前で一度歯を立てて齧りとった。
「お味は如何です」
「うん……甘いな」
 それはよかった、と残る部分を手に待っていると、エルヴィンは再び顔を寄せ、今度はクロエの指先に唇を押しつけた。突然の柔らかな感触に驚いて腕を引こうとしたが、過日のように手首を掴まれ、次いで腰の後ろにもう片方の手があてがわれた。クッキーの欠片は結局エルヴィンの口に入ることなく床へ落下した。
「団長、なにっ……」
 身をよじって逃げようとした首筋にエルヴィンが顔を埋め、頬にあたる髪の感触と整髪料の香りにクロエは息を呑んだ。クロエを抱いたままエルヴィンは一歩後ろへ下がり、デスクの縁に浅く腰掛けた。自然な動作でエルヴィンの脚の間にクロエが引き寄せられ、今度は無理のない身長差でエルヴィンの額がクロエの肩に預けられる。
 午後の日差しが室内にやさしい陰影をつくっている。
 一度その体勢で落ち着いてしまうと、クロエの心はどんどん冷静になってきて、肩にエルヴィンの頭の重みを感じながらこの状況についてあれこれ考えはじめた。
 別に無理やり唇を奪われたわけではないのだ。勿論このような接触そのものが不適切ではあるが、抱き寄せたままそれきりエルヴィンは動かなくなってしまった。
(疲れてんのかしら)
 特に精神的に疲弊した時、誰かの体温を求めてしまうことがあるとクロエは知っていた。具体的に何をしたいわけでもないが、誰かと寄り添っていたい日も。調査兵団団長という地位の重圧がどれほどのものかは、エルヴィンにしかわからない。
 そう考えると少し彼のことが気の毒になり、クロエは躊躇いながらもそっとエルヴィンの頭を撫でてみた。クロエの腰に回された腕が強くなる。と思いきや、クロエの腰のあたりで何やらもぞもぞとやっている気配が伝わってきた。
「……?」
 そのうちに太もものあたりが涼しくなってきて、クロエはエルヴィンの指が器用にスカートの裾を手繰り寄せていることに気づいた。既にスカートはお尻のすぐ下までたくし上げられ、ガーターストッキングの端が覗いている。
「ちょっ……」
 無理な姿勢で自分のお尻を振り返りつつ、クロエはばたばたと暴れはじめた。なおも腰を離すまいとするエルヴィンの胸をついに力いっぱい押し返すとようやく解放され、弾みで後ろへ数歩下がった。
「何よ!」
 スカートの裾を気にしながらクロエは目を剥いた。
 するとエルヴィンはデスクに座ったままつまらなそうに項垂れた。
「やはりだめか……いけると思ったんだが」
「信じられない! ひとがせっかく優しくしてやったってのに、そんなよこしまなことを考えていたなんて」
「お言葉だが私はずっと君のことをよこしまな目で見ている」
「うそ」
「嘘なもんか。殺風景だった職場に女らしさを隠そうともしない女が入ってきたら当然にムラムラするさ」
 悪びれる様子もなく肩を竦めてみせるエルヴィンを睨みつけ、クロエは甲高い靴音を立てて秘書室に駆け込んだ。椅子の背凭れに掛けてあったジャケットを取り、出口のほうへ向かいかけてから天井を仰ぐ。いま、この部屋は袋小路になっているのだ。
 がちゃりという音が後ろから聞こえ、跳ねるように振り返ると、エルヴィンが後ろ手にドアを閉めたところだった。



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