■ ツークツワンク #3

 実をいうと、クロエの仕事部屋はエルヴィンの執務室からは独立して与えられている。ただしエルヴィンの部屋のすぐ隣に位置しており、元は物置として使われていた。かろうじて窓はあるが、家具らしい家具といえばデスクとコート掛けだけだ。とはいえクロエはそのことには何の不満も抱いていない。秘書の仕事は多くの機材やスペースを必要とはしないからだ。問題はもっと別のところにある。
 クロエは頼まれていた資料の分類を終えると、デスクの上でトントンと紙をまとめた。ふう、とひと息ついたところでドアの開く音がする。ただし、デスクの向こう側に見える廊下への出入口は微動だにしていない。
 うんざりしながら音のしたほうを向くと、デスクのすぐ横の壁の一部……一般にはドアと呼ばれるものが向こう側へ開き、エルヴィンの顔が覗いていた。
「お茶」
 ドアが閉まる。
 いつかうっかりこの上司の顔を殴ってしまうかもしれない。
 再びドアが開いた。
「四つ」
 意地でも団長執務室と秘書室(とは名ばかりの物置)を繋ぐドアを自ら開けることはないクロエが、廊下側のドアを通って厨房で紅茶を淹れてから同じく廊下側から執務室へ入ると、ソファに座った大人三名が黙々とプリンを食べていた。
 窓側のソファに座ったエルヴィン、向かい側のリヴァイとハンジの前にティーカップを置いたクロエが残る一客をどうしたものかと逡巡していると、スプーンを咥えたハンジが彼女の向かい、エルヴィンの隣を指差した。
「座りなよ、一緒にお茶しよう」
 いやこっちはさっさと仕事を〆て帰りたいんだが、と言いたいのを堪え、クロエは残る一客をローテーブルに置いてエルヴィンの横に腰を下ろした。ご丁寧に手付かずのプリンが一個置いてある。紅茶を四杯といったのはこういうことだったらしい。となると、立場上無碍に断れようはずもなかった。
「すみません、頂きます」
「クロエは働き者でいい子だねえ、こんな時間まで残って仕事してるなんて」
 本来ならば既に終業時刻は過ぎている。プリン作りに費やした一時間がなければとっくに今日の仕事を終えて帰宅していたはずだった。
「いえ、どうも要領が悪いだけですから……」
「鈍くさいな」
 謙遜はリヴァイには通じなかったようだ。スプーンを持つ手についつい力が篭もる。
「いいよねぇ、秘書なんてさ。いままでどうも男臭かったところにいきなり若い女の子が来てくれて一気に華やいだよねぇ」
 美味しい美味しいといってプリンを頬張るハンジを見て嫌な気はしない。美味いとも不味いとも言わずただ消費するだけのエルヴィンよりは余程作り甲斐がある。本日二つ目を食べているあたり彼の口に合ったようではあるが。
「いや、クロエはそんなに若くはない。履歴書を見たから知っている」
 クロエは目を伏せて紅茶を飲んだ。
(お前に言われたくない)
 食べ終えたリヴァイがスプーンをカップのなかに放り込む。
「俺よりは若いんだろ?」
 当たり前だろ。
 カップに隠れた唇で呟いた。
「でも偉いよ。やっぱ兵団以外で女の子を雇うところはそんなにないし、そうなると皆結婚しちゃうものね。結婚もいいけど、ちゃんと自立して働いてるのもとっても素敵なことだと思うよ」
「単に嫁き遅れただけじゃないのか」
「失礼だよ、リヴァイ。料理も上手いしよく気がつくし、お嫁さんとしては引く手あまた……なんで結婚してないの?」
 結局のところ、兵士というのは大概が失礼である。クロエは頭のなかでそう結論づけた。多分に偏見を含む。
「あんまり結婚には向いてないと思うんです。もともと跳ねっ返りで、家庭のなかにいるのが嫌で家を飛び出したので。両親にはちゃんと愛されてましたけど、それだけじゃだめだったんです。自分のちからで生きてみたくて」
 年に何度か手紙の遣り取りをしているくらいだから、両親との仲は既に修復されている。それでも今更あの家に戻ろうという気にはなれなかった。
 久しぶりに生家や家族のことを思い出し感傷気味になったクロエは、誤魔化すように小さく笑ってカップに唇をつけた。
「プリンは何個余っている」
 カップを唇につけたまま固まったクロエは瞳を横へずらした。
 至極真面目くさった顔のエルヴィンが空の容器を見つめている。
 やはりこの男の考えていることは理解できそうにない。いまはお互いに故郷の話をしたり私の感傷をフォローしたりする流れじゃないのか。
「六個……じゃなかった、五個です」
「新兵が夜間の歩哨に立っている。正門側にちょうど五名だ。持っていってやるといい。それを終えたら君も帰って宜しい。ここは他の者に片付けさせる」
 畏まりました、と挨拶もそこそこにクロエは立ち上がり、狐につままれたような心地で部屋をあとにした。

  *

 翌日、出勤したクロエを出迎えたのはデスクの上に無造作に置かれた一輪の花だった。取り上げて顔の近くに寄せてみると、薄紅色の花弁は可憐だが花屋で売られるほどの品質ではない、普通の花だ。だが誰かがわざわざここに置いていったことに疑いの余地はない。
 花を持ったままクロエは僅かに振り返って隣室へ続くドアを一瞥した。
(ありえない)
 エルヴィンが斯様にさり気なく愛らしい気遣いをしてくれるわけがない。
 クロエが多少なりとも個人的な会話を交わした相手には、ほかにリヴァイとハンジがいる。いずれも日頃の礼に花を贈るタイプではないだろう。となると……と、そこで初めて残る可能性を思いつき、覚えず笑みが零れた。
 きっと昨日プリンを手にした新兵たちの誰かに違いない。そう考えてみると、金のかからない贈り物というのも納得がいった。
(可愛らしいこと)
 あとで花瓶代わりになるものを手に入れて活けようとひとまずデスクの端に花をよけ、廊下側のドアへ向かいかけたところでもうひとつのドアが開いてエルヴィンが顔を出した。
「どこかへ?」
「いえ、ちょうど御用がないか伺うところでした」
「こちらのドアから直接来られるのに何故わざわざ一旦廊下に出るのかね」
「いえ、特に深い理由は……」
 当然エルヴィンは納得のいかない顔であったが、その時デスクの上の花に気づいて部屋へ入ってきた。
「可愛らしい花だが、摘んできたのか?」
「いいえ、朝来たらここにあったんです」
 エルヴィンは花を持ち上げて指で茎を回した。くるくると回転する花弁を眺める眼差しやその手つきがいかにもつまらない物を扱うようであったので、クロエは少々気分を害した。
「君に花を贈るやつがいようとはね」
「贈るというほどのものでもないと思いますけど。おそらく昨日のプリンのお礼では?」
 不機嫌を隠すためにクロエはエルヴィンに背を向け、つばの狭い帽子を外してコート掛けのてっぺんに引っ掛けた。
「ふぅん。男だな」
 クロエはストールを外しながら顔だけ振り返って呆れたように笑った。
「何故わかるんです? 小さなお花を持ってきてくれるなんて、女の子だと思いますが」
「女性は共感を重視する生き物だ。直接君に渡したがる。モノだけ置いて逃げていくなんて、いかにも少年だよ」
「そうでしょうか」
「ああ、男だ。そうに決まっている」
 だったら何だというのか。クロエは不審げに硬直した微笑を湛えたままデスクのそばに戻り、何気なくエルヴィンの手から花を抜こうとした。が、不意に手首を掴まれて凍りつく。
花がデスクに落ちるいかにも軽い音がした。
 クロエの手首を一周してもまだ余裕のあるエルヴィンの手は大きい。
 ぐ、とエルヴィンの顔が近づいてきて、思わず一歩後ろへ後退すると呆気なく手首は解放された。
「礼で思い出した。この前寄付金を受けたんだがその礼状をまだ書いてないんだ。頼むよ」
 そう言い残してエルヴィンは隣室へ去っていった。
 反対の手で手首をさするクロエの耳に、「書類を取りにおいで」と少し距離のある声が届いた。
 花の贈り主は結局わからなかった。だが手がかりがまったくなかったわけではない。昼休みを終えて本部へ帰ってきたクロエをエレンが通用口の前で引き止めた。
「クロエさん、お昼だったんですか?」
「ええ、お遣いがてら外へ出てたの。そうだ、プリン食べた?」
「食べました! めちゃくちゃ美味かったです。あ、カップは洗って返しておきました」
「そっか、よかった」
 石段を上りかけたクロエだったが、「そうだ」と振り返った。
「お花、君でしょう?」
「花?」
「今朝私のデスクの上に置いてあったお花。プリンのお礼かなって思ったんだけど、君じゃないの?」
「俺じゃない、です……」
「じゃあ、あのあと他の子にも渡したからその子たちかな」
 そうか、とクロエは考え込んだ。
 エレンでないとすれば昨夜プリンを渡した五人のうち誰かだろうか。女子三名、男子二名だったと記憶しているが、生憎名前までは聞かなかった。
 変なこと訊いてごめん、と顔を上げたクロエは目が合ったエレンの表情に「え?」と困惑した。唇をやや尖らせ、顎を引いたエレンの顔はどう見ても不満げだ。機嫌を損ねるようなことを言ったおぼえのないクロエは狼狽えた。
「……どしたの?」
「なんか……せっかくオレだけクロエさんと仲良くなれたと思ったのになぁって」
 これだよ、とクロエは密かに感激した。子どもじみた可愛げとはこういうものだ。子どもっぽいおっさんとは斯くも違うものか。
「今度綺麗な花見つけたらオレがあげます」
 いらねえ、とは思ったがまさかそんなことを言えるはずもなく、クロエは肩を少し持ち上げて笑った。何はともあれこれで贈り主の候補はひとり消え、残り五人にまで狭まったわけだ。
 翌朝クロエを出迎えたのは、デスクに置かれた場違いに大きな花瓶と小山のように活けられた色とりどりの花だった。今度は贈り主不明ではない。花の間に差し込まれていたカードを人差し指と中指で挟んで抜き取ったクロエは、そこに書きつけられていた文字を読んで「どうしたもんか」と頬の内側を噛んだ。
『日頃の感謝をこめて……エルヴィン・スミス』
 誰も説明する暇を与えてくれなかったが、実をいうと花はまったく好きではない。


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