■ サーカス

宿を訪ねると、雪鳶は裏手の井戸で水を汲んでいるところだった。
聞けば今日は日が照って少し汗ばんでしまったので身体を拭くという。
徐庶は水瓶を持ってやり、誘われるまま雪鳶の泊まっている部屋について行った。

雪鳶は旅芸人の一座に奇術師として属している。
いつもはもっと早く座を畳んで次の町へ行ってしまうことが多いらしいが、ここは過ごしやすいといってもう数月は滞在していた。
徐庶と出会ったのはここへ来てすぐの頃だ。

昼下がりの小さな部屋でふたりきりになると、雪鳶はすぐに着物を脱いだ。
一糸纏わぬ姿の雪鳶の後ろに立ち、徐庶は濡らした布で白い背中を丁寧に拭いてやった。

汗を掻いたと言っていたが、何故女の身体は男と違って嫌な臭いがしないのか徐庶は不思議だった。
或いは雪鳶が人前に立つ仕事をしているから人一倍気を遣っているのかしれないが、それを見極めるほどの材料は徐庶の過去には充分になかった。

「昨夜はとても嫌な気分だったの」

うなじを冷たい布で撫でられて気持のよさそうにしながら雪鳶が言った。
その耳の裏あたりに一瞬口を近づけ、徐庶は曖昧な発音で「うん?」と先を促した。

「見世物を開くのに許可がいるでしょう。そういうのって単純にお金の問題であると同時に、役人の贔屓も要るのよね」
「だろうね」

以前徐庶も往来で物乞いをしていた者が小役人に場所代を要求されているところを目撃したことがある。
勿論公庫に入るわけもなく、そういう金はそのまま役人の懐に仕舞われるものだ。恰好の小遣い稼ぎなのだろう。

「ご機嫌取りの酒宴だったのよね。いつも偉そうにしてる男連中なんかそういう時は役に立たないわ。連れて行かれるのはいつだって私たち」

嫌なものだわ、といって雪鳶が細い指で己の肩を抱きぶるりと震えたので、徐庶は可哀想になって静かに抱き寄せた。
どこまで要求されたのかは雪鳶は言わないが、気に食わない相手になど酌をするのも不快なものだ。

高い位置にまとめ上げられた髪のほつれが僅かにかかる白い首筋に、徐庶は鼻先を埋めた。

「大丈夫かい」
「ええ、勿論よ」

雪鳶はやや眉を釣り上げて笑った。
勝ち気な笑い方をするとかえって幼く見える。

後ろから薄い肩越しに見下ろすと、徐庶がしっかりと布を絞らなかったせいで落ちた水滴が雪鳶の形の良い乳房に伝っていた。
それを眺めていると急に悲しくなって、徐庶は雪鳶を抱き締める腕に力を籠めた。

「君は強いな」
「揉まれてきてるもの」
「昨日は俺にとっても辛い一日だったけど、とても君みたいに笑えそうにないよ」

腰に回された徐庶の腕を撫でていた雪鳶はしばらく壁の一点を見つめていたが、やがて小さく振り返って徐庶のこめかみに「何があったの」と尋ねた。
しばらく待っても沈黙だったので、言う気がないのだろうと思った雪鳶が視線を前に戻すと同時に徐庶が口を開いた。

「手紙を受け取ったんだ」
「何て言ってたの」
「母からでね、曹操の下にいるらしい。そちらへ来てくれとのことだった」

日頃から徐庶が自分や仲間のことを少しずつ話しているせいで、雪鳶はそのひと言でおおかたのところを察したようだった。
或いは常に土地から土地へ移動するために雪鳶の方が情勢については詳しい部分もあるのかもしれない。

雪鳶は肩に顔をのせてきた徐庶の頬を指先で撫でながら思案顔をしたあと、怪訝そうに眉根を寄せた。

「行かないの」
「俺の心が劉備殿とともにあることは君も知っているだろう」
「曹操の下へ行けば出世も望めるわ」
「義心がそれを拒むんだ」
「友達のために人を傷つけたほどの義侠心だものね」

雪鳶の肩が小さく揺れた。
以前聞かせた若い頃の話を持ち出されて徐庶は羞恥を覚えた。
本質は今でも変わりないとは思うが、さすがに今はあそこまで勢いに任せた行動はできない。

「俺は真面目に話してるんだよ」
「私も真面目よ。その義心、お母上の方へ向かないのが不思議だわ」
「向いてるさ。だからこんなに悩んで君に相談してるんだ」
「意見が欲しいの? 慰めてほしいの?」
「……ひと時でも忘れさせてほしい」
「そういうのは得意よ」

すると徐庶の腕のなかで雪鳶はくるりと振り返り、徐庶の顔を両手で挟んで瞳を覗き込んだ。
どの土地の血が混じっているのか、雪鳶の薄い灰色の瞳が妖しく燦めいている。

「奇術師だもの。さっきまでそこにあったものを跡形もなく消し去るなんて朝飯前だわ」

どちらからともなく寝台に倒れ込んだ。
降ってくる唇を受け止めながら、雪鳶の細い腕が器用に徐庶の服を脱がせてゆく。
あっという間に一糸纏わぬ姿になった徐庶の脚に雪鳶が絡みついた。

徐庶の舌が性急に唇を割って入ってきても雪鳶は咎めなかった。
必死に食らいついてくるような接吻の間、徐庶の手はお留守になっている。
そういう器用さがないのはいつものことだ。
雪鳶は自ら徐庶の胸に手を這わせた。

冷えた指先が乳首に触れ、徐庶は唇を離してゆっくりと息を吸い込んだ。

「……君は何か得るためにしか男と寝ない人だよね」

鼻先が触れそうなほど顔を近づけているのに目が合わない。
不意に空気の変わったことを訝しんで「え?」と眉間に皺を寄せた雪鳶の首を、突然徐庶の右手が上から押さえつけた。

「ちょっと、何……!」

暴れようとした雪鳶の腕を徐庶が掴み、下半身にも体重をかけて制圧する。
ひどいことをするのね、と下から睨んだ雪鳶は徐庶の目が攻撃的というよりもむしろ悲しげに歪められているのを見て息を呑んだ。

「手紙……」
「手紙が何よ」
「手紙が来たと言ったら君は『何て言ってたの』って訊いたね。普通はまず『誰から?』じゃないかな」
「だから、そういうのもまとめて『何て』って訊いたのよ」

もういいじゃないと言いたげに雪鳶が身じろぎをした。
その身体を尚も押さえつけながら徐庶は雪鳶の首筋に噛みついた。
唇を肌につけたまま舌で押しつけるようにひと舐めする。

「嘘の味がするよ」
「何が言いたいの」
「そうだな、言いたいことなら山ほどありそうだよ……。母はひっそりと暮らしていたはずなのに君と知り合ってから突然居場所が曹操に知れるし、そもそも普通旅芸人というのは紛争地帯を避けて移動するものじゃないかな。まして長く滞在するだなんて」

その時初めて徐庶は雪鳶の瞳を真っ直ぐに覗き込んだ。

「君はいったい何者なの」

数拍の間射貫かれたように固まっていた雪鳶だったが、やがて顔を背けると「やめてよ」と起き上がろうとした。

「帰ってよ」
「暴れると怪我をするよ」
「乱暴するなんて最低だわ」

さすがに以前は武術で鳴らしただけあって、がっちりと押さえ込まれた雪鳶が暴れても、網にかかった魚のように不自由な動きしかできない。
乳房を掴んできた徐庶の手を雪鳶が引っ掻いた。

その間も徐庶の唇はしきりに雪鳶の首筋を探っている。
肉の薄いところにあたる無精髭がくすぐったく、雪鳶は思わず身体を震わせた。

寝台を踵で蹴り上へ逃げようとして浮いた雪鳶の腰の下の隙間に徐庶の手が滑り込み、臀部を掴んで引き寄せた。
咄嗟に開いた脚の付け根が塞がれる感触に、雪鳶はついに観念したように瞼を閉じた。



数日ののち、徐庶は曹操を訪ねるために馬上にあった。
馬に揺られながら最後に別れた時の雪鳶のことを思い出している。

強引な結合のあと、雪鳶は徐庶に背を向けて裸のままぐったりと横たわっていた。
引っ掻かれたりはたかれたりして傷だらけなのはむしろ徐庶の方だ。
立って身支度を調えていると雪鳶が寝返りをうち、頬を寝台に押しつけたまま悔しそうとも悲しそうともとれる表情を浮かべた。

何かを言おうと開きかけた徐庶の口から出たのは僅かな吐息と苦笑だけだった。

部屋を出てから一度は引き返して雪鳶を始末しようかとも考えたが、今更そんなことをしても歯車は既に回り始めていると思い直してそのまま宿を後にした。
こんなところで雪鳶を殺しても曹操への意趣返しにもなりはしない。
奇術に見事に嵌められたのだと笑うしかなかった。

街へ入ると、さすがに曹操が治めているだけあって往来は賑わっていた。
道端で曲芸師の男が火のついた棒をいくつも手玉にしている。
通り過ぎざまに何気なく眺めた彼の瞳が薄い灰色だったので、徐庶は一瞬背筋に薄ら寒いものを感じた。



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