■ 蜜の夢

息を止めて計量匙に酒を注ぎ、最後は一滴ずつ様子を見ながら瓶を傾け足してゆく。きっかり一杯になったところで鍋のなかで待つ豚肉にそっと振りかけ、ようやくふうと気の抜けたような溜息を吐いた。

雪鳶の料理はいつもこうだ。
まるで劇薬か何かを調合するように、嫁入り道具の料理手帳に書かれた分量を些かも違えないよう極めて慎重に量る。だから夫人仲間に料理を教わっても、材料の欄に「適量」と記された箇所を見ると途方に暮れてしまう。
作ってみてできないはずはないのに、それでも雪鳶には頑なに「正確な」調理法に固執するという、或る種の強迫症の気(け)があった。その理由を誰より知っているのは雪鳶自身だが、未だ払拭することができずにいる。
理由は、雪鳶の母にあった。

雪鳶の顔は母親似である。
どちらかといえば淡泊で小作りな顔立ち。
一方三つ違いの姉は父親似で彫りが深く、華やかでどこか西方の人を思わせる。

姉妹を知る人はしばしば「上手い具合に片親ずつに似た」などと言ったが、雪鳶の中身は母とは正反対といっても過言ではなかった。

母は、最低限の家事はきちんとこなし、雪鳶たち子供には陽気に接する女であったが、どこか雑なところがある。机の花活けが中央からやや逸れた位置にある。昼過ぎになっても廊下の隅に箒がぽつんと立てかけたままになっている。
そして料理の味付けはいつも彼女独自の分量で決められた。
彼女はその時々の気分によってころころと手順を変えたり抜かしたりする女である。それでいて、或いはだからこそか、なかなか飽きの来ない味を作ってみせる。今の雪鳶からすると少々憎たらしくもあった。

母の独自の味として特に雪鳶の記憶に強く残っているのは、すこぶる甘い煮豚である。
料亭から取り寄せたものよりも、よその家でご馳走になるものよりも、母の作る煮豚は甘い。恐らくは相当の蜜で以て煮染めているのだろう。
身体に良くはないかもしれないが、とにかく濃厚で、箸の先で押すと熱い煮汁がじんわりと染み出してくる。
幼い雪鳶の大好物のひとつだった。

また、煮豚に限らず母の料理の特徴だったが、味は良いものの家庭料理丸出しの歪な形をしているものが多かった。盛りつけも、色合いや見栄えまでは気が回らずざっと皿に載せてあるだけだった。味にしても、確かに癖になる味ではあるが決して上品ではない。

そういう点を雪鳶の父であり彼女の夫であった男があまり快く思っていなかったことを、雪鳶は幼いながらにうっすらと知っていた。

父にはよそに女があった。
さすがに気が引けて委細尋ねたことはないが、どうやら目抜き通りの一本裏手で料亭を営んでいたこともあるというその人は、あっさりとした品の良い味付けの料理を、きちんと選んだ皿に少量ずつ見場良く並べてみせるという。
料亭をやっていたというくらいだから、逐一計量しながら調理するのか、常に変わらず一定の味を作るのだそうだ。

勿論それを実際に目にしたことがあるわけではなく、父の微細な変化で女の影に気づき、父のよく語るその人とを頭のなかで結びつけただけだ。だが概ね正解だろう。母も同様に推測していた素振りがあった。
女ができて、父は母の料理に殆ど文句をつけなくなった。

父上はずるい。
母が嫌がるので口には出さなかったが、雪鳶はずっとそう思っていた。
あれほど母の手料理をがさつだの大雑把だのと口煩く批判しておきながら、その癖庶民風の気取らない味付けに愛着もあるため手放そうとはしない。しかし整然とした芸術品じみた料理も知っているという自負心まで欲し、手に入れようとする。自身に関しては当然のように「男子厨房に入らず」を生涯通した。
仮にそれを是としても、もしよそに毛色の違う女を囲うならば、こちらの家ではそれをおくびにも出さず料理を平らげるべきである。それが雪鳶の考えだった。正式に側室として迎えるのも憚られるような身分の女性だからだ。

母は女の素性を知ったあとも、何も存じませんというような顔でそれまで通りの味を作り続けた。鼻歌など歌いながら、台所で鍋にたっぷりと蜜を流し込んだ母の横顔に明かりとりの窓から金色の西日が差した時、一瞬狐のように見えたのを雪鳶は鮮やかに記憶している。
あの時は、どうしても母の背に声をかけることができなかった。

ひとりの男を取り合うふたりの女は、まるで用意されたように片方が表で片方が裏であるかのような表現のされ方が多いが、雪鳶の家の場合、或いはどちらも表でどちらも裏だったのかもしれない。狐か狸か。その程度の違い。今となっては、雪鳶にはそう思えてならない。

表も裏も大差ないのだ。物語にはなるまい。
どこか張り付いたような微笑を浮かべる狐の面をつけて、何も知らないかのように豚肉を甘く、甘く、甘く煮続けた母は、一体胸のうちで何を思っていたのだろう。
既に亡くなった人の心は確かめようがない。

しかし家族のなかで最も客観的に状況を眺めていたと思っていたはずがいざ妻になって料理をしようとした時、酒一滴、塩ひと匙すら正確に量らねば気が済まない病的なまでの几帳面さが己のなかにあったことを初めて知り、雪鳶は驚愕した。

父のような男を内心では嘲笑していたつもりだったのに、実際には心のどこかに眠っていた雪鳶の"雌"が自分は決して母のようにはなるまい、自分は相手に飽きられぬよう母よりももっと「よそ行き」の人間であろうと強く決め込み、静かに密かに成長していたのか。

台所に立つと、いつも母に見られているような気がしてならない。

* * *

年の瀬も押し迫った頃、雪鳶は風邪を拗らせた。
はじめは喉がいがらっぽいだけだったのが、騙し騙し数日を過ごすうちについに倒れて床に伏した。新年になれば挨拶の往来で夫の司馬懿も忙しくなる。それまでに直しておこうと今は昏々と眠ることに決めた。

毎朝出勤する前に司馬懿が様子見に寝室へ来るのだが、はじめの二日間はそれすらも煩わしく感じた。次第に病状が落ち着き、四日目に熱が下がると、遠慮がちに心配そうな顔を覗かせる司馬懿をようやく可愛らしく思う余裕が生まれた。

日々の糧は当然雪鳶に丸投げしている男だから食事はいったいどうしているのかと問えば、昼は同僚と会食でその他は女中に作らせているという。
それを聞いた雪鳶は手ずから食卓を調えてやれないことを申し訳なく思ったが、未だに若干揺れる頭では正直なところ秤の目盛など読みたくはない。

「ごめんなさいね、元気になったらちゃんと作りますから」

雪鳶が寝床のなかから謝ると、司馬懿はむっとした表情で頬を染めた。

「別にいい、餓鬼ではないのだから。だいたいお前はいつも秤の目盛を親の仇のように睨みつけて、あんなのを見たら出された料理も大して美味く感じない」

ひどいことを仰るのね。そんな風に笑って返しながら、雪鳶は内心冷や汗を掻いていた。

秤の目盛が「親の仇」、である。
何も事情を話していないはずの司馬懿が戯れに口にした文句は、恐ろしいほどに鋭いものだった。雪鳶自身が半ば目を背けていたことを、司馬懿はあっさりと暴いてみせたのだ。

(……そうだった)

司馬懿が出掛けたあと、雪鳶は天井に移る陰翳を眺めながら考えた。

(私にとっての秤はやはり仇だった。父のような男を亭主に持った時点で既に負けていた母の仇。問題から一歩離れた場所でただひとり平静であると天狗になっていたけれど、やはり私もまた囚われていたんだろう。母から父を掠め取った人の象徴が秤で、私は無意識のうちにそれを母のかわりに克服してやろうとしていた。母が拒むことしかできなかった秤の針を、私が征服して折ってやるつもりだった)

窓から差し込む鈍い冬の光が、部屋のなかを仄暗く染めている。
不意に昔風邪を引いて寝込んだ記憶が蘇ってきた。

幼い頃はあまり身体が強い方でなかった雪鳶は頻繁に体調を崩した。
丈夫な姉や従姉妹たちが愉しげに廊下を走り回る音が聞こえているのに、閉め切った薄暗い部屋で寝床に入っていなくてはならない我が身を幾度も恨めしく思った幼い自分。
思わず泣き言を洩らせば、母は決まって「手のかかる子ほど可愛いんだから」と笑いながら、雪鳶の火照った額をひんやりとした手で撫でてくれた。そしてそっと雪鳶の身体を支え、生姜湯を飲ませてくれるのだ。

(あれも確か、甘党の私のためにうんと甘くしてくれたんだった)

長い間分量通りの料理にこだわりすぎて自分の舌に合った味を作っていなかったことに、雪鳶はその時初めて気がついた。
鍋のなかで白く変色しながら渦を巻く蜜。
一旦落ち着いた熱が再び上がってきたのか、雪鳶は頬の辺りに熱を感じながらゆっくりと瞼を閉じた。

* * *

何かが落下して床にあたる音と妙な臭いで目が覚めたのは、既に日が落ちて部屋のなかが真っ暗になった頃のことだった。
雪鳶は眉間に皺を寄せて異臭の正体を考えながら傍らに転がしてあった肩掛けを適当に引っ掻け、そろそろと立ち上がって部屋を出た。日中熟睡していたせいで体調は随分良い。明日からは少しずつ元の生活に戻していけそうだ。

板敷きの廊下に素足の指が触れ、じんと冷たさが伝わってきた。
使用人は既に自室へ引き取ったのか、家のなかは台所から時折聞こえる物音を除けばしんと静まりかえっている。

「あっつ……!」

大袈裟な物音と小さな悲鳴に導かれて台所を覗くと、何かを焦がしたような臭いが強まった。

「何なさってるの」

すると布巾越しに鍋の耳を掴もうとしている司馬懿が振り返った。

「鍋掴みをお使いになったら」

四苦八苦している姿に雪鳶が思わず口出しすると、司馬懿は決まりの悪そうに、

「もう遅い」
「何です、それ」
「粥……を、作ろうと思ったのだが、どうもよくわからなくてな……」

見れば流しにも調理器具やら皿やら食材やらが散乱している。司馬懿は相変わらず途方に暮れたように鍋を持ったまま立ち尽くしていた。

「まあ、珍しい。普段台所になどお入りにならないじゃありませんか」
「やかましい。普段何もしないからこそこういう時には何かするのであろうが」
「屁理屈……」
「人が折角腹に優しいものを作ってやろうとしているのにその言い草は何だ」
「私のためなの? ご自分のお夜食かと……」
「貴様」
「あんまりうるさくて目が覚めてしまったわ」

司馬懿が反論しようと口を開く前に、雪鳶は近寄って鍋の蓋を開けた。

「あら、焦げてる」
「そう、焦げた」
「でも食べられそうだわ」
「食うのか」
「頂くわ」
「よした方がいいんじゃないのか」
「作った本人が仰る言葉じゃないわ。大丈夫です、普段から料理している私が見ているんだもの、食べたらまずいかどうかくらいわかります」

雪鳶はまだ何か言おうとする司馬懿を制して鍋を受け取り、食堂に戻ると食卓の隅に置きっぱなしになっていた鍋敷きの上に置いた。司馬懿はその時初めて我が家の鍋敷きの存在を知ったらしく、興味深げに眺めている。
その様子を横目に見て気づかれぬように笑いながら、雪鳶は食器を並べていった。混乱状態の台所はあとでまとめて片付ければよい。

「それじゃあ、頂きます」

食卓についた雪鳶が手を合わせて挨拶をすると、司馬懿は向かいの椅子に座りながら

「う、うむ」

と居心地の悪そうに咳払いをした。

雪鳶は焦げていないところを探して小皿によそい、二、三度息を吹きかけて冷ましてから口へ運んだ。少し焦げが含まれていたようで若干苦味を感じたが、雪鳶は表情を僅かばかりも変えずに頷いた。

「美味しい」

向かいで茶を飲んでいた司馬懿がすかさず混ぜっ返す。

「嘘だな」
「嘘じゃありません。作り方はどうなさったの」
「前にお前が作っているのを見たことがあるから、それを思い出しながら」
「味付けは」
「味見しながら適当に」
「正統派の味付けではないけれど、私は好き。香草が欲しかったけれど」
「香草……? 何だそれは」

思わず雪鳶の肩が落ちた。

「いつも入れてるじゃありませんか」
「ああ、あの葉っぱのことか」
「もういいわ」

司馬懿は腑に落ちないという顔をしているが、雪鳶は気にせず小皿に残っていた粥をすべて口に運んだ。そうして飲み込んでから、一旦匙を置いた。

「正統派の味付けではないけれど美味しいって言ったでしょう」
「うん?」
「旦那様は味付けをしながらご自分で美味しいと思う味を作られたのね」
「いや、これは不味いぞ」
「でもきっとこれは旦那様の味なのよ」
「え、嫌味じゃないか」

雪鳶は思わず噴き出して、「そうでなくて」と首を横に振った。

司馬懿の手料理を食べて、ようやく気づいたことがある。
雪鳶の料理は確かに定められた分量を厳守して作られていたが、それはあくまで「理想の味」であって「雪鳶の味」ではなかったのだ。
既に腕をすり抜けて取り返しのつかない存在を、雪鳶は未だに追い求めていた。

(私はそんなに上品な舌を持っているわけじゃない。煮豚は甘いのが好きで、生姜湯もめいっぱい甘くしたのが好き。気取ってちまちまとした盛りつけの料理なんて箸で崩してぐちゃぐちゃにしたくなる質だった、本来は)

かつて父は母独自の味付けの料理を批判し、どこに出しても恥ずかしくないほど整った料理を作る女を求めた。それは事実だ。
しかし、晩年病床に伏した父が子供のように妻にねだったのは、あの女の料理でも、この世の見納めにと贅を尽くした料理でもなく、母の手料理だった。

舌に味が残るほど甘い煮豚を幾つも頬張る父の姿。
傍らに座って給仕する母の笑みは、果たして狐の笑みだっただろうか。
狸に勝ったと嗤う狐だっただろうか。

「旦那様」
「うん」

書物に目を通していた司馬懿が顔を上げた。

「もう一杯よそってくださる」

珍しく甘えたことを言う雪鳶に、司馬懿はぎょっとした様子で書物を卓に置いた。

「お前、こんなものをまだ食うのか」
「あとちょっとだけ」

澄まし顔で答える雪鳶の気持がわからない、という風に首を傾げながら、それでも司馬懿は雪鳶の言う通り小皿に粥をよそった。縁のあたりは卵が焦げて鍋にこびりついている。中心の辺りをほじくり返して、やっと丁度良く火の通ったところを見つけた。

「はい」
「有難うございます」

ひと口食べ、再び「旦那様」と声をかける。

「今度は何だ」

書物に目を戻そうとしていた司馬懿が好い加減煩わしそうに雪鳶を睨んだ。

「豚を煮たやつのね」
「はあ」
「味を変えようと思うのだけど、いいかしら。ちょっと作ってみたい味があって。だいぶ甘くなってしまうとは思うのですが」

突然何を言い出すのかと思えば、と司馬懿は再び書物に視線を落とした。
雪鳶の元には

「どうぞ」

と興味のなさそうな声が返ってくる。

「そっか、よかった」
「何だいきなり。また新しい調理法でも仕入れてきたのか」
「いいえ」
「じゃあ何だ」
「お袋の味ってやつかしら」

わけがわからない、と司馬懿は首を振ってみせた。
勝手にしろ、という合図だ。
雪鳶はにっこりと微笑んだ。むろん司馬懿は見てなどいない。

最後のひと口を終えて匙を置くと、すかさず司馬懿が

「もう一杯食うか」

と声をかけた。

「もう結構」
「そうだろう」

思わず顔を見合わせて、肩を揺らして笑った。



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