■ 墨壺

 まだ火照りの残るからだを抱き寄せられ、雪鳶は瞼を閉じて司馬師の肩に頭を預けた。
 上気した頬には夫に大切にされ満ち足りた思いが滲んでいる。
 そしておやすみを言おうとして顔を上げたが、天井を見上げている司馬師の表情が何か考えているようであることに気づき、雪鳶はふと顔を曇らせた。同じ幸福を共有しているとばかり思っていたのに、夫の心が早くもよそへ飛んでいると知って少し悲しくなったのだ。
「旦那さま」
「……うん?」
「何かお考え事ですか」
「いや……」
 ぴたりと触れ合った司馬師の肌はまだ熱い。
 雪鳶はからだが熱くなると心も同じく燃えてしまうが、司馬師は心身を分離させて動かせるようだ。
 私のように間抜けではないらしい、と雪鳶は拗ねて夫の胸元にこめかみを寄せた。
 勉強は割合に良くできるほうであったが、婚家の人々といると何だか自分が愚鈍に生まれついたような気になってくる。
「ご思案めされるのは明日にして、早くおやすみになってくださいね。頭の使いすぎはおからだに障ります」
 そう言って雪鳶が掛衾を肩まで引き上げると、ようやく司馬師も妻がへそを曲げたことに気づき、薄く開いた唇の隙間から白い歯を覗かせた。
「これは……お前がそばにいるのに考え事などして悪かったな」
「それこそ考え過ぎでは」
「謝ったのに許してくれないのか」
「怒ってもいないものを、許してさしあげることなどできません。それに……『悪かった』は厳密には謝罪ではありませんし」
 司馬師は肩を抱く手と反対の腕を雪鳶の腰に回し、引き寄せて妻の髪の奥に鼻先をうずめた。少し汗をかいたあとであったので、雪鳶は恥ずかしくなった。司馬師は気にせず息を吸い込み、妻の匂いを確かめている。豊かな黒い渦のなかで唇が動く気配がし、雪鳶は瞳だけを持ち上げた。
「実をいうとな、伝えておかねばならぬことがあるのだ」
「大事なお話のようですね?」
「うん……いや、そう深刻でもないのだがな。母上が小姨母(おば)と呼んでいる方のことは覚えているな」
「義母上のお母さまの妹さまでしたっけ。随分と年の離れたご姉妹であったので、むしろ義母上にお年が近いというおばさま……」
 雪鳶も二度ほど会ったことがある。
 春華が子供のころに大層可愛がってもらったらしく、ふたりは姉妹のように仲が良かった。
「そうだ。その方が、ご病気になられたらしい」
「まあ。お悪いのですか」
「今すぐどうこうというご様子でもないのだが、かといって捗々しくもないようだ。それで母上は明日からしばらくそちらへ手伝いに行かれることになった。急な話で、夕方報せが来たのだ」
 雪鳶はからだを起こし、心配そうな表情を浮かべて司馬師を見下ろした。
「私も義母上にお供したほうが宜しいでしょうか。なんだか大変そう。義母上がお気の毒です」
 すると司馬師は妻の肘のあたりを撫でてやりながら、安堵したような笑みを浮かべた。
その様子を見て、続く言葉を察した雪鳶はふたたび司馬師の肩に頭を預けた。急いで明日の準備をしなくてはならないわけではなさそうだ。姑を思い遣る気持ちに偽りはないが、かといって夫抜きでしばらく姑と過ごすというのはどうしても気詰まりだった。
「お前は心根のやさしいことだ。それを聞けば母上も感激なさるだろう。しかしあちらは手が足りているらしいから、雪鳶はここにいればよい。問題は母上ではなくてだな……」
「問題が多いのですね。いったい何事です」
「いや……父上がな」
「義父上がどうかなさいましたか」
「母上のご不在は長ければ半月ほどにもなるだろう。だが父上はだな……何というのか、身の回りのことを使用人にあまりやらせたがらない人だ。信用していらっしゃらないわけではないようだが、あれで案外気疲れするたちなのだ。だから父上のお世話の大半は母上がしていらっしゃるのだが……」
「ご不在ですね。どうなさるのですか。もうお勤めも以前ほどには出ていらっしゃらないのだから、大抵はご自宅におられるのでしょう」
「それなんだがな」
 しばらく沈黙が続いたあと、雪鳶は再びからだを起こして司馬師の顔を覗き込んだ。
「こちらへお呼びしたのですか」
「仕方がないだろう。昭のところは母屋の改築の真っ最中だから仮住まいで手狭ゆえ、父上を置いておく場所などないし……とにかく他に案がなかったのだ」
「そんな……明日から? 急すぎます。だって旦那さまは明後日から視察に行ってしまわれるのでしょ。私きりじゃありませんか」
 狼狽する雪鳶はつれない夫の胸に縋りつきながら、舅の仏頂面を思い浮かべた。
司馬懿のことが嫌いなわけではない。
 嫌いになるほどよく知らなかった。
 ただ漠然と、おそろしいひとだという印象を抱いている。確かにこれまで衝突したことはないが、司馬懿と会う時は常に夫か姑を間に挟んでいたから、正面から彼と相対したことがなかった。
「仕方がないではないか。あの方はひとりでは生きられないひとなのだ」
「そんなか弱いお方でしたっけ」
 つい無自覚に突慳貪な口ぶりになった。
「いや、とてもしたたかなひとだ。しかし、したたかであっても他人なしでは生きられない人間もいるのだ。急なことで申し訳ないとは思うが、しばらく付き合ってやってくれ」
 もとより雪鳶の希望が通るわけもないことなのだから、彼女とて最後の悪足掻きをしてみただけだ。司馬師が決めた以上、覆しようのないことは雪鳶もわかっている。
 しかし少しの間考えてから、はたとあることに気づいて顔を上げた。
「よもや今夜私をお抱きになったのは、義父上の件があったからなのですか」
 司馬師はもう寝入ったわけでもあるまいに、黙ったまま目を閉じている。
 それがこたえだ。
 雪鳶は怒りで頬がかっと熱くなるのを覚えた。
 愛しあう行為だと思っていたものが、急に汚らわしい取引のように感じたからだ。
「何かと引き換えにからだを与えるような真似なんて、ひどすぎます」
 こういう率直な物言いが、司馬一族のなかで浮いている原因なのだということは知っている。だが世情がいかに複雑になろうとも、せめて家庭のなかだけでも打算抜きでありたいというのが雪鳶のささやかな願いだった。一本気なのは、武官の娘だからだろうか。
 司馬師はようやくゆっくりと目を開けた。
「雪鳶。そうはいっても、お前こそ先日窓を張り替えたいといって私に『からだを与えた』ではないか」
 客間の窓の格子に張られている絹布が、経年のために黄ばみ始めている。それがどうしても気になっていた雪鳶は、先日司馬師におねだりをしたのだった。
 しばし天井を仰いでそのことを思い出していた雪鳶は、「それは確かにそうですけど」と視線を夫に戻した。
「あっ、まだお話は終わっていませんよ。おやすみになってはだめ」
「雪鳶。私は明日も早いのだ。半ば隠居の身の父上と違ってな」
 司馬師の声はすでに小さく、呟きのようになっている
「そういう義父上だからこそではありませんか。だって殆どうちにいらっしゃるのでしょ」
「……だろうなぁ」
「じゃあ一日中ご一緒するのはやはり私ではありませんか」
「あの方とて何も嫁と一日茶飲み話をするおつもりはなかろう。書物のいくつかも与えておけば部屋に籠もっておられるだろうよ。実際、色々とご思案なさりたいこともおありのようだしな……雪鳶」
「はい」
「おやすみ」
 渋々床のなかに戻った雪鳶の肩を、既に目を閉じて眠る体勢に入った司馬師が抱き寄せた。本当に今夜はこれ以上話をしてくれないらしい。
 雪鳶は寝床のなかで唇を尖らせ、仕方なしに夫の肩に顔を寄せて目を閉じた。



 雪鳶は皿の上を睨みつけながら手を慎重に傾け、匙の先から溢れ落ちる塩の量を念入りに見極めている。
 初日に司馬懿に出した食事は辛くて食べられないと言われ、翌日は薄すぎて味がしないと言われ、試しに今度は二日目と同じ味付けで出してみたところ丁度よいと言われるなど、ここのところまったく正解のわからない義父の舌に翻弄されている。
 司馬師が宮中から帰ってきている日にはそういう我儘を言われたことがないので、ひょっとすると息子の居ぬ間に嫁いびりでもされているのだろうかと疑問にも思ったが、味付けをし直してやった時のあの済まなそうな顔つきを見るにそういうわけでもないようだ。
 司馬師がいつも間に入ってくれればよいのだが、彼は現役の宮仕えの身であるから、四、五日のあいだ宮中で仕事をしては二日ほど家に戻ってまた休み明けに参内するという生活である。四六時中一緒に過ごしてもらうわけにはいかないのだ。
(相談したいことがあるのに)
 匙で汁をかき混ぜながら、雪鳶は台所の隅の戸棚へ目を遣った。
 装飾が少なく素朴だが、上質な烏木でつくられた食器棚は雪鳶の嫁入り道具だ。もとは母の嫁入り道具で、他の品は新たにしつらえたがこれだけは気に入ってお古を持ってきた。
 その年季が入って細かな傷のついた扉の奥に、司馬懿の墨壺を隠している。
 匙を口に含んで味見をすると、程よい塩気が鼻孔まで香った。
 だが、雪鳶の胸中にはその塩気よりもはるかに深い苦味が広がっている。
 いつから使っているのかわからない古びた墨壺は、いつも司馬懿の文机の端に置いてあったが、昨日掃除をしている最中に誤って床へ落としてしまった。大した高さではなかったことに期待してすぐさま拾い上げたが、あいにく拳のようにころんとした形の壺は見事なまでの真っ二つに割れていた。破片は大きいものばかりであったから、どうにか接着できそうではあるものの、残念ながら雪鳶にはその技術はなく、また修理に出すにもその間司馬懿にばれずにいられる保障はなかった。幸い昨日は司馬懿は机に向かわなかったようだが、今日の午後にも何か書きつけようとして、そこにあるはずの物がないことに気づくかもしれなかった。
 蒸した豚肉に汁をかけながら、雪鳶は泣きたい気持ちになった。
 もともと家中での評価は高くないという自覚はある。聡明な姑や怜悧な義妹とくらべられては、雪鳶ははなから期待薄ということになるのも致し方なく、そのことに不満もなかった。
 高望みはすまい。
 それが雪鳶が少女時代を通して学んだことだ。賢い人や美しい人だけでは世の中は回らない。一生懸命働いて真面目に生きてさえいれば、きっと誰かが見ていてくれて、きっと何かいいことがあるはずだ。司馬師に嫁ぐと決まった時、これはいままで高望みせず頑張って生きてきたことへのご褒美だと思った。
(でも失敗してはだめ)
 特に、大きな失敗は。
 目を引く功績なしに地道に積み重ねた評価は、大失態の前では吹き飛んでしまう。
 青菜を包丁で切りながら、雪鳶は手の甲で目元を拭った。
 期待が外れることなど、これまでの人生で幾度もあった。
 夏至の祭りのために何日もかけて縫った晴れ着は、とびきり美人の友達の登場で話題にもならなかった。彼女が着ていたのは、親戚から貰ったという斬新な意匠の古着だった。初めて先生に詩の出来栄えを褒めてもらった日の夕食は、優秀な兄が予想以上の官位で仕官したという話でもちきりだった。そんな兄は、不器用だが真面目な妹の健気さを愛でて「かわいい、かわいい」と褒め、「きっと良いお嫁さんになる」と保証してくれたが、彼自身は涼し気な瞳が際立つ才女と恋愛結婚した。
 誰にも話したことのない思い出を辿る作業をふとやめて、雪鳶は包丁を持ったまま目線を横へ動かした。何もない場所を眺めながら、昼寝をしているであろう司馬懿の姿を思い浮かべた。
 何故だか知れないが、すべて放り出したい気持ちになった。別にこれまで義理の両親に対して日々の奉公以上のことをしてやったことなどないのだから、今度の失態について格別の寛大さを期待する理由がない。大事な墨壺を割ったことで叱咤されても、殴打されても、凡庸な嫁の立場からすれば受け入れるよりほかにない。
 手首を返して、鈍く照り返す包丁の切っ先を見つめた。
 寝ている司馬懿の首を刺したところで、その後の展開はきっと予想通りだろう。きっと誰も雪鳶を擁護しない。何か事情があったに違いないとは言わないだろうし、まさか墨壺を壊したことが知れるのが嫌で、などという理由だとは想像だにしないだろう。
 まったく世界は予想通りに回っている。
 よく考えてみれば、雪鳶は期待されてこなかったのと同じくらい、彼女自身が誰かに、あるいは何かを強く期待したことがなかった。根拠もなく期待することができるのは、周囲から期待された経験のある人間だけだ。
 雪鳶は布巾で刃を拭い、俎板の上に包丁を置いた。
 それから戸棚のところへ行き、扉を開けて布でくるんだ墨壺を取り出した。手のなかで、割れた破片がかちゃんと崩れる音がする。それを両手で持って、ひと息吐き出したあと舅の部屋へ向かった。
 声をかけても返事がなかったので室内に入ると、横になっていると思っていた榻は空で、かわりに窓際の椅子に司馬懿の姿があった。近寄ると、膝の上から床のほうへ竹簡が流れている。ひなたで読み物でもしているうちに寝入ってしまったらしい。
 雪鳶は膝をつき、中身を見ないようにしながらていねいな手付きで竹簡を巻き取り、そばの花台に置いた。
「義父上」
 その姿勢のまま声をかけると、司馬懿は身じろぎをし、小さく呻いてからゆっくりと目を開けた。
「お休みになるなら何か掛けないと」
「うん? ああ……」
「それに、そんな姿勢で眠ったら身体が痛くなりますよ」
「いや、ちょっとうたた寝しただけで本気で眠っていたわけではないのだ……何か用でもあったか」
 用事もなく声をかけてくることのほとんどない嫁がそばにいることに気づき、司馬懿は怪訝そうな顔をした。
 少し怯えたが、雪鳶は墨壺を差し出し、布を開いて見せた。手の上で、黒ずんだ鉄の破片が崩れて音を立てる。
「申し訳ございません。昨日掃除をした時に、義父上が大切になさっている墨壺を落として割ってしまいました」
 司馬懿は黙って破片を見つめている。
「どうにか直せないかと思って手元に置いていたのですが、仮に直せたとしても完璧に元通りになることはありませんから、まずは正直にお話ししてお詫びしようと思いました。お叱りは受けます。かわりの物を探せとおっしゃるなら、つてをあたってみようと思います」
 さすがに舅の顔を直視することはできなかった。雪鳶は目を伏せて床の杢目を見た。頭上でかちゃり、という音がしたので顔を上げると、司馬懿は破片のひとつをつまんで難しい顔をしている。
「……これは思い出のある品でな」
 雪鳶は再び目を伏せた。部屋の空気がまるごと石になって、肩に重くのしかかってくるような感覚に襲われた。
「若い頃、父が異国の商人から購入して私に贈ってくれたものなのだ。貴重な品だと思ってはじめのうちは大事にしまっておいたのだが、道具は使わなければ意味がないと父に諭されて机に置くようになった」
 司馬懿が破片を戻し、不意に雪鳶の手をとった。肩をびくつかせた雪鳶の耳に、思いがけず優しい声が降ってくる。
「怪我はしていないのだな」
 思わず顔を上げると、探り当てれば微笑ともいえなくもないような表情の義父と視線があった。
「思い出があると言っただろう。これが壊れるのは二度目でな」
「二度目?」
「気づかなかったか? ここのところに、薄い線があるだろう。これは一度割れたのを接いだ跡なのだ」
 言われて凝視してみれば、確かに大きな破片のひとつにうっすらと線が入っている。雪鳶が壊したのとは無関係の場所だ。
 司馬懿は少し遠い目をして、今度ははっきりと笑った。
「壊した犯人がわかるか」
「どなたなのです」
「子元よ。子どもの頃にな。あれは私の机の周りで遊ぶのが好きでな。勝手に触れてはいかんと言い聞かせてあったのに、ある時私が留守にしている隙に遊んでいて落としたらしい」
「まあ。随分お怒りになったのでしょう」
「それがな、子元は私が帰ってくる前にすっかり接ぎ直して元あった場所に戻しておいたので、間抜けなことに私はまったく気づかなかったのだ。いつ真実を知ったかわかるか? お前が嫁いでくる前の晩、久方ぶりに親子で呑んだ時にやっとだ。あいつが白状してな」
 呆気にとられていた雪鳶だったが、予想だにしない愛息の打ち明け話に驚いたであろう司馬懿の姿を想像してつい笑いそうになった。
 司馬懿はまた指先で破片を撫でて、ため息を吐いた。
「親心として聞いてほしいのだが……はじめ子元がお前をつれてきた時、きっと良い娘なのだろうとは思ったが、どうも、いまひとつすっきりしないものがあったのだ。親の贔屓目もあろうが、あれは望めばどんな妻でも得られただろう」
 それは「親の贔屓目」とはいえなかった。実際のところ家勢といい官位といい、そして実力といい、司馬師ほど嫁取りの簡単な男も少ないだろう。雪鳶自身、何故自分に白羽の矢が立ったのか理解していなかったくらいだ。
 不思議そうな顔をしている雪鳶に、司馬懿が少し苦味のある笑みを浮かべ、束の間のためらいを挟んでから腕を伸ばした。身構える雪鳶の頭に、手のひらがあてられた。
「いまはわかる。良い娘だからなのだろうな」
 司馬懿の膝を見つめていた雪鳶は、数拍をおいてから、一瞬のうちに物の輪郭がぼやけて何も見えなくなるのを自覚した。水に溶かしたような景色の向こうに、一生懸命に針仕事をする幼い日の雪鳶自身が見えた気がした。

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