■ 路地裏

途中で買った包子を頬張りながら市を冷やかして歩いていると、不意に前方へ猫が飛び出してきた。往来の中央で立ち止まったその猫は、張苞のほうを向くなりニャア、とひと声鳴いて、人々の足の間を抜けて反対側へ飛び去った。
白い毛皮に黒い長靴を履いた面白い柄の猫であったので、興味を惹かれた張苞は小走りに駆け、猫がいた四つ辻へ立ってみた。猫の去ったほうを見ると、猫は長い尻尾を揺らしながら歩いていくところだった。

すると猫は顔だけ振り向き、肩越しにまた鳴いた。
それが何やら張苞を呼んでいるようで、俄然面白くなった張苞は猫のあとを追って歩き始めた。
猫は張苞と距離を保ちつつ、しかし時折ついてきているか確認するように振り返りつつ歩いていく。一度、二度と道を折れ、次第に喧騒は遠ざかり閑静な界隈に入り込んだ。小路が入り組んだ一角には小さな民家がひしめき合い、道の上には洗濯物を干した紐が渡っている。昼でも仄暗い、どこか湿ったような町並みは、日頃張苞のような身分の者が訪れない場所だった。

やがて猫は小さな民家の板塀の破れたところへするりと入り込み、そのまま姿が見えなくなった。
猫のおかげで思いがけず不慣れなところへ来た、と興味深げに周囲を見回しながら、張苞は包子をひとつ食べきった。手のなかにはあとふたつ、竹の皮で包んだものが残っている。これは関興への土産だ。
些細な不思議のためにつかの間楽しむことができた。とはいえこれ以上こんな界隈に用もなく、張苞が立ち去ろうとしたまさにその時、今度は少し長めの猫の鳴き声がした。

先程猫が消えた板塀のあたりではない。もっと上のほうだ。
見上げると、塀にほとんど接するように建っている民家の壁の、二階の窓が開いている。
ひょっとして、と思うのと、猫の白い頭が覗くのはほぼ同時だった。

「そこがお前んちか」

面白がって声をかけると、あたかも会話しているかのように猫がニャアンと応えた。
張苞はふと手に持っているものを一瞥したあと、猫を見上げてそれを小さく揺らした。

「餌は貰ってんのか? よかったらこれ食うか。そっちに投げてやろうか」

もちろんからかっただけのつもりだった。猫が人の言葉を理解するわけがない。だから、笑って立ち去ろうとした。

「ご飯はちゃんとあげてますよ、失礼しちゃうわね」

驚いて振り返った張苞の目に、猫の顎を華奢な指で撫でながらこちらを見下ろしている女の姿が飛び込んできた。着ているものは質素で髪も緩く結っただけだが、化粧を施した顔がはっとするほど艶やかな女だ。張苞を見て唇の片端を持ち上げている。失礼しちゃうわね、という言葉は猫に掛けたもので、口調は笑っていたから本気で怒っているわけではないのだろう。

誰にも見られていないと思っていた張苞はすっかり慌てて「いや、あの」と口籠った。聞こえていないと思って人の家の悪口を言ったのも、猫のあとを尾けてきたというのもどうにも不格好なことだ。
それに気づくと張苞は頬を染めて頭を掻いた。

「いや……てっきり腹が減ってるから俺を呼んだのかなと思って……」
「あら、あなたったらあの方のことを呼んだの?」

窓際に腰掛けているらしい女は、窓枠に座って顔を洗っている猫の耳の後ろを掻いた。
猫が呼ぶわけがない。またドジを踏んだ張苞は更に狼狽した。
その様子を見下ろし、女は肩を揺らした。それからふっと柔らかな表情になった。

「お優しいのですね。畜生に食べ物を分け与えようとなさるなんて」
「いや……友達のために余分に買ったんだけど……友達に遣ってもひとつ余るんだ」
「なるほど、そういうことでしたか。でもご友人のぶんもお買いになったのだから、やっぱりお優しいということでよいのでは」
「え? ああ……まあ、そうかな」

なんだか丸め込まれたような格好になった張苞に、今度こそ女は袖で口もとをおさえ声を立てて笑った。
またからかわれたと知った張苞はいよいよいたたまれなくなり、「じゃあ、もう行くよ」とその場を立ち去ろうとした。

「もし」

呼び止められ、少し迷ったが仕方なく足を止めて振り返る。

「どのみちおひとつ余るのですよね。もしよかったら、私にくださいませんか。久しくあの辺りには行っていませんので、最後にお店の包子なんて食べたのはいつだったか思い出せないほどです。もちろんお代は払いますので」

女が室内を振り返り、近くから何かを取ろうとしているのが窺えたので、きっと銭を拾おうとしているのだと気づいた張苞は「いや」と声を張った。

「金なんかいいよ。大したもんじゃないし……あ、じゃあそっちに放るぞ」

女の一人住まいならまだいいが、もし夫か情人がいるのならなかに入るのはまずい。張苞は窓の下まで近寄り、竹皮の包みをひとつ持って、ゆっくりと揺らして女に呼吸を示した。
女が両手を差し出し、笑って頷いたのを見て、「いくぞ」と高く放り上げる。女の手が包みを一瞬捉え、掴んだと思いきや指が弾いてしまい、二、三度手のうえで跳ねたあと部屋のなかへ飛び込んだ。それと同時に女の姿も消え、なかの状況がわからない張苞は数歩下がって「大丈夫か」と声を掛けた。猫だけが驚きもせず、相変わらず顔を洗っている。

数拍ののち、片手に包子を持った女が笑顔を覗かせた。

「捕まえました」
「よかった」
「うん、いい匂い。お前、幸運を運んできてくれたわね」

女が猫の頭を撫でた。

「まあ、折角だから堪能してくれよな。じゃあ、俺はもう行くから」

あまり外をほっつき歩いていると、父親はともかく妹には小言を言われる。
張苞は手を挙げて挨拶すると、もと来た道を引き返した。

「私の名は雪鳶といいます。若さまは?」

歩を緩めた張苞は迷った。若造とはいえ張飛の息子、こんな界隈で名乗る名前ではない。だが振り返って雪鳶の顔を見ると、嘘を言うのも誤魔化すのもなんだか嫌で、結局ほんとうのことを言った。

「俺か。張苞ってんだ」
「張苞さま。覚えておきます」

妙に子どもっぽい顔で笑った雪鳶は片手の包子を高く持ち上げてみせると、部屋のなかに入って見えなくなった。

まあいいか、張という姓のやつは多いし、そのなかには苞って名前のやつもひとりやふたりいるだろう……張苞は何とはなしに浮かれた心地で家路についた。
また表通りに出て喧騒のなかを歩いていても、不思議と音が遠退いて聞こえる。そのかわり雪鳶の「張苞さま」という声と、あの笑顔が幾度となく頭のなかを駆け巡った。
奇妙な気分だ。こんな思いはいままで感じたことがなかった。



「そんな界隈へ行ったの」

包子を齧りながら、関興が非難がましい目で張苞を見た。
どうせ朴念仁の関興に言ってもこんな心境は理解されないとは思ったが、自分の気持ちを持て余していた張苞は言わずにはいられなかったのだ。案の定関興は僅かにだが不快感を催したらしい。

「別に何てことはない路地裏だったよ。そりゃ感じの好いところじゃなかったけどよ」
「それはそうだろう。あの辺りは以前色街だったのだから」
「え、そうなのか」
「ずっと昔のことだ。劉備どのが蜀へ入られるより前。でもいまでもあんまりたちの好い界隈じゃない……と思う。博徒まがいが住んでたり、とか」
「博徒? 博徒には見えなかったけどなあ」
「博徒の愛人……かも」
「げ」

もしそうなら、名乗ったのはやはりまずい。いらぬ揉め事を引き起こしかねない。
雪鳶の顔を思い出すと、言われてみれば確かに玄人っぽい雰囲気はあった。昼間から化粧をしている女なんて、庶民であれば大店の女房くらいだ。

榻に横になった張苞は、自室と同じくらいの大きさなのにずっと広く感じる関興の部屋を眺めながらぼうっとした。

「相変わらず殺風景な部屋だな」
「張苞の部屋が片付いていないだけだ。物が多すぎ」
「……ちょっと怒った?」
「……別に」
「けどよ、あんまり物が少ないと自分の場所って感じがしなくて落ち着かなくねえか」

自分自身に帰属する物の存在がその部屋の空気を醸成する、と張苞は言いたいのだ。
ずぼらの言い訳、と関興が呟いたのは、まったく正しい。
そういえば、二階の窓しか開いていないせいで雪鳶の部屋がどんな雰囲気なのかはまるでわからなかった。昼間だったから、かえって灯りをつけない室内は暗く、かろうじて雪鳶の動きから椅子や、そのそばに抽斗のついた戸棚か何かが置かれていることが推測できただけだ。

(入ってみたいなあ……)

そこまで考えて、張苞は一瞬のうちに顔が熱くなるのを感じ、寝返りを打って背もたれのほうへ顔を隠した。
母親や、妹の星彩の部屋になら入ったことがある。「汚さないで」と歓迎はされなかったが、兄妹なのだから長居しなければ別によくあることだ。
だがそれと、雪鳶の部屋へ入ることは全然意味が違う。安易に想像することは、雪鳶に対する無礼のようにすら思えた。

「また行くつもり」

関興が低い声で言った。
再度寝返りを打った張苞が目を遣ると、机に頬杖をついた関興はこちらに背中を向けたままだった。

「あの路地へ?」
「決まってるだろう……そうやってわかりきったことを聞き返してくるのは、図星、ということ」

よくわかってる。
女房かよ、とつまらなそうに眉間に皺を寄せた張苞は、頭の後ろで組んだ手を枕にして昼寝の体勢をとった。

「関興には関係ないだろ……あだっ」

目を開けて額にぶつかった何かを探し当てると、まだ墨をつけていない筆だった。
なぁにをそんなに……、と関興のほうを見たが、彼は相変わらずこちらに背を向けている。



翌日、張苞の足は知らずのうちにあの路地裏へと向かっていた。
途中で買った焼栗の皮を剥きながら角を曲がると、塀の上にあの猫が現れた。張苞が歩く速度にあわせて塀の上を器用に歩いてついてくる猫が面白く、張苞はちょうど皮を剥き終えた栗を手のひらにのせて差し出してやった。
猫は首を伸ばし、匂いを嗅いだあとぱくりと栗を咥えた。その場で食べるのかと思いきや、今度は小走りになって塀の上を駆けていく。途中の家の門扉などひょいと飛び越えながら、しなやかな動きで駆け、やがてあの家の下まで来ると壁の突起などを足場にして開いた二階の窓のなかへひらりと消えた。

速度を変えずに歩いてきた張苞が窓の下に辿り着くのと同時に、猫を抱いた雪鳶が顔を覗かせた。

「やっぱり。この子が私の膝に栗を落としたので、きっと張苞さまだと思いました」
「おう。そいつ、土産に持ってったんだな」
「そうみたいね。優しい子なの」
「つったって猫が齧ったもんなんて食えないだろ。こっちのをやるよ」
「あら、でも栗を投げたらばらばらになってしまうでしょ」
「包んであるから大丈夫だ。ほら!」

少しからかってやろうと思い、張苞は返事を待たずに拳大の包みを窓に向かって投げた。驚いた雪鳶はとっさに腕を伸ばしたが、掴みそこねたせいで包みごと窓のなかに消えた。一拍遅れて栗が床に飛び散る音がする。包みが破けたに違いない。猫はとっくに逃げて塀の上に座っている。
張苞がほくそ笑んで待っていると、はじけるような笑顔の雪鳶が窓枠のなかに飛び込んできた。

「ひどいわ!」

それは張苞がこれまでに聞いたどんな声よりも、どんな言葉よりも鮮烈だった。朝靄に差し込む光の筋とか、川面の煌めきのようで、張苞は自分の胸がすっと軽くなるのを感じた。心を奪われると、やはり胸は軽くなるのだ。

「いじわる」

雪鳶が笑いながら栗をひとつ張苞に向かって投げつけた。
胸のところでそれを捉え、張苞は笑い返した。

「好きか、栗」
「ええ、大好きよ。甘くて美味しいもの」
「なあ、ひとりなのか? 家族もここに?」
「あ……いいえ、ひとりです。ずっとひとりで住んでるの」
「そっか」

少なくとも夫婦者ではないということだ。張苞はひそかに安堵し、返ってきた栗を剥いて口へ放り込んだ。

「ずっと家に? 出掛けたりしないのか。生活費はどうしてんだ」
「ずっと家よ。実をいうと、脚が悪くて出歩けないのです。生活に必要なものは、届けさせてくれるひとがいるわ」
「男か? 恋人?」
「……」

雪鳶の顔が暗くなった。
男なのだろう。家族ならば手助けのいる彼女と一緒に暮らさない理由がない。
だが不思議と張苞は残念な気持ちにはならなかった。
負けた気がしないからだ。張苞には、恵まれた体躯がある。男らしさもあるはずだ。虎の威を借るのは本意ではないが、少なくとも成都で張飛の子という肩書は何にも勝る。そして何より、こんなうらぶれた路地裏の、小さな家に雪鳶をひとりぼっちにしておくようなずるい男に負けているところがあるはずがない。

「そっちへ行ってもいいか」
「だめよ。出入りはできないの」
「……これきりにしたほうがいいかな」

雪鳶は窓枠にしなだれかかり、額をつけて苦しげに目を伏せている。
来るな、というひと言が言えないでいるのだ。
昨日出会ったばかりの相手を拒否できないのなら、それは恋以外のなにものでもないじゃないか。張苞は自信をつけた。

「嫌がられても、俺たぶんまた来るよ」

まだ困った顔のままの雪鳶が、唇だけ微笑んだ。
少し肌寒さを感じ、張苞は腕をさすりながら雪鳶に「明日も来る」と言った。やっと顔を上げた雪鳶は何か言いかけ、しかし視線をずらして何かを見た。
張苞がその視線の先を目で追うと、小路の入り口のところに見慣れた影が立っている。

「関興。こんなとこで何してんだ」

関興は黙ってそばまで歩いてくると、雪鳶のいる二階の窓を見上げた。窓枠に手をかけた雪鳶も困惑げな表情を浮かべて関興を見つめている。
やがて関興が瞳を雪鳶の上に留めたまま尋ねた。

「あれが張苞が言ってたひと?」

雪鳶が悲しげに目を伏せた。
事態の呑み込めない張苞は「お、おう……」と頷いた。

数拍の沈黙ののち、関興は張苞のほうを向いて小さく笑った。

「帰ろう。劉備どののところへ酒に呼ばれた。張苞も連れてこい、と」
「えっ、まじか」
「ああ。急いで」

張苞は二階の窓を振り返ったが、すでに雪鳶の姿はなかった。
先に行く関興の足取りは速い。小走りで追いついて関興に話しかけようとした張苞は、思わず言葉を呑んだ。行く手を見据えた関興の横顔が、予想外に厳しく、そしてどこか蒼褪めていたからだ。
いくつか角を曲がった。

「……もうあそこへは行かないでくれ」

関興が低い声で言った。
だから何でだよ、と張苞が口を尖らせると同時に表通りへ出た。ちょうど夕の市が捌ける頃で、大勢の人が行き交っている。
関興が足を止めて振り向いた。

「まだ寒いのか」

そう言われて張苞はまだ自分が腕をさすっていることに気づいた。
確かに肌寒かったが、それがどうしたというのか。
少し躊躇ってから、関興が言った。

「いまは真夏だ、張苞」

熱風が張苞の頬を撫で、髪をさらった。
成都の夏は蒸した鍋底のように暑い。
装束の下の背筋を、汗が流れるのを感じた。



数日後、張苞は雪鳶の窓の下に立っていた。
最後に会ってから少し間が空いた。実をいうと来ようとはしたのだが、関興に「せめて調べがつくまでは」と引き止められ、渋々報せを待ったのだ。
閉じたままの窓を見上げながら、昨日の関興との会話を思い出していた。

「……何かわかったのか」

扇で風を顔に送りながら、張苞は重い口を開いた。
関興は相変わらず涼しい顔で、果物の皮を剥きながら頷いた。

「何から話せばいいのか……」
「……どうせ空き家なんだろ」
「……そう。ここしばらくは。その前は時々人が住んだけど、どれも理由はわからないけど短い間だけ。皆すぐにいなくなってしまうそうだ。あんまり借り手がつかないんで、地主も放置してしまった。それで、更にずっと前には女人がひとりで住んでいたって」
「男に住まわされてたんだろ」
「ああ。数軒先に住んでる老人が覚えてた。そのひとが子どもの頃のことって言うからには……」

よくできてはいるが、ありきたりな怪談話だ。何十年も昔に死んだ女が、いまだにその家に住んでいる。どこかで聞いたような話だった。子どもだって怖がらない。
あんな生き生きした笑顔をする幽霊もいるんだな。張苞は天井を見上げながら雪鳶の顔を思い出した。

「……じゃあ、いまだに男を待ってんのか。それであの家から動けないのか」
「さあ……あ、でも再建だって。あのあたり一帯」
「再建……? なんで」
「火事が起こった。火元はあの家の二軒隣。食事の支度の最中だったって。七〜八棟焼いたところで消火できたそうだ。冬場だったらもっと延焼していただろう、と。それで、焼け跡から女の死体が」
「……お前は最初から何か感じてたんだな」

関興はこたえないが、おそらくそうなのだろう。雪鳶と出会ってすぐに関興と話したが、あの時の彼は妙に態度が悪かった。張苞の身体に染みついた不吉な何かを関興は嗅ぎ分けていたに違いない。昔から、関興にはそういう不思議なところがあった。

「なあ、関興」
「なに」

関興が果物を口に含んだ。

「……お前、雪鳶に会ったよな。あの時、すごく怖い顔をしてた。お前、あの窓にいったい何を見たんだ」

関興は口をもぐもぐと動かしている。

「……別に」
「嘘つけ」
「別に、ふつうの……焼けた、」

張苞の手のひらに制され、関興は喋るのをやめて口のなかのものを飲み込んだ。

そんなやりとりを思い起こしていた張苞は、やがて心を決めると足元の小石を拾い、雪鳶の窓に投げた。今日は猫は姿が見えない。
かたん、と小さな音がして、窓がゆっくりと開いていく。
張苞はごくりと喉を鳴らしたが、気落ちした様子で顔を覗かせた雪鳶は張苞の知っているままの姿だった。

「……もういらっしゃらないかと」
「来てほしくなかったのか」
「わからないわ。ご友人にはすっかり嫌われてしまったようだし。無理もないことだけど……」
「あいつは勘が鋭いんだ。俺はからっきしだけど」

雪鳶は袖口で口もとを隠して具合が悪そうにしている。
自分の素性が知れたことを気に病んでいるのかと思いきや、それだけではなさそうだ。ほんとうに調子が出ないらしく、髪のつやも以前より悪い。

「それで、全部お聞きになったのですか」
「全部かどうかはわからないけど、たぶんだいたいのところは」
「それでもなおいらっしゃるとはよくわかりませんね。実をいうと、明日が私の命日なのです。毎年この日が近づくとどうにも身体がだるくてだるくて……何十回も繰り返したことなのでいい加減慣れはしましたが」

幽霊というと恨みを晴らす機会を虎視眈々と窺っているような、害意の塊のような存在を想像していたが、雪鳶は拍子抜けするほど普通の空気を持っている。別段恨みがましくもなければ、悲嘆に暮れているわけでも復讐心に燃えているわけでもない。死んでいるということさえ除けば、ごくごく普通の女だった。
そう指摘すると、雪鳶は薄く笑った。

「何十年も死んでいると、次第に細かいことはどうでもよくなっていくのかもしれませんね。思えば、生きている時からさほどの執着というものはなかったような気がします。炎に捲かれた時だって、どうせあのひとが助けに来るはずもないとわかっていました。その頃にはすっかり冷え切っていましたし、そもそも愛していたのかも……。そうして長い時を過ごすうちに、自分が何を望んでこの世に留まっているのかもわからなくなってしまったのです」

話を聞いていた張苞はふと考え込み、それから顔を上げた。

「なあ。どの程度動けるんだ?」
「え?」
「脚が悪いって言ったろ。まったく歩けないのか」
「歩けはしませんが、少しの距離なら腕でこうやって……」

雪鳶は肘をつかって床を這う動作を空中でしてみせた。
それを見て張苞は更にフム、と思案して、それから「ちょっと待ってろ」と断ってから塀をよじ登り、荒れた庭に着地した。生い茂る草を掻き分けながら玄関側に回ると、朽ち掛けた扉を見つけた。
扉はごく普通の観音開きで、取っ手を引いてみるといとも容易く開いた。

内部は表同様ひどく荒れてはいるが、前の住人が残していった調度品などがわずかに残り、別段変わった様子もない。一階には土間と一間があるだけだ。居間として使われていたのかもしれない。部屋の隅に欠けた花瓶が転がっている。床はところどころ抜け落ちており、室内に入るのは危険そうだった。
この分だと二階も相当だろうと考えながら張苞は狭く急な階段を慎重に上った。

二階には広めの一間があるだけだった。宙を舞う埃が、開いた窓から差し込む光のなかでふわふわと雪のように舞っている。張苞が片膝をついて床を撫でると、山のように積もった埃がずれて色の沈んだ床板が顔を覗かせた。
部屋の奥に、かつて寝台であった木片が朽ちて重なり合っている。それ以外には何もなかった。雪鳶が座っていた椅子も、銭が仕舞われていたはずの抽斗つきの棚も、何もない。もちろん雪鳶の姿もなかった。
よく見ると埃だらけの床のところどころに小さな足跡が点々とついており、どうやら猫だけは実在していたことがわかった。

外へ出た張苞は再び塀を飛び越え、路地から二階の窓を見上げた。
窓枠に頬杖をついた雪鳶が、不思議顔で張苞を見下ろしている。

「なあ、ここは雪鳶が住んでた家とは違うよな」
「ええ、建て直されたものですから。でも、どうせ狭い敷地ですから、以前の家もほとんど同じ間取りでしたね」
「だよな。こんなに狭い家なんだ。腕を使って這えば玄関まで行けないことはないよな。階段は急だけど、多少の怪我を覚悟で滑り落ちることだってできる。なあ、この前俺がそっちに行ってもいいかって訊いた時、『出入りはできない』って言ったよな。普通、そういう時は『鍵をかけてるから入れない』とか『入れてはいけないと言われてる』……とかって言うんだ」

張苞が入れないことについて言及するのは状況的に正しい。だが、『出』入りはできないというのは余計な情報だ。
考えてみれば、「生活に必要なものは人が届けてくれる」というのも、入ってくる人間についてしか言っていない。

雪鳶はぼうっとした顔で遠くの夕空を眺めている。

「雪鳶。お前、扉に鍵を掛けられていたんじゃないのか」

ものにした女を他の男から隠したかったのか、それとも世間から関係そのものを隠したかったのか、かつて雪鳶を囲っていた男は文字通り彼女を閉じ込めていたらしい。再建前の家の玄関が封印されていたのなら、おそらく一階の窓も外から板を打ち付けるなどして封じられていたのだろう。
だから雪鳶は二階の窓から外を眺めるのだ。
そこ以外に外を見られる場所がないのだから。
そして逃げ道がないまま炎に包まれて命を落とした。

「私、ずっと外へ出たかったのね」

ずっと忘れていたことを思い出した雪鳶が、小さな声で呟いた。
それからふと嬉しそうな笑みを浮かべて張苞を見下ろした。

「外へ出たくなったのなんて数十年ぶりよ。何十年もこの窓から外を眺めていたけれど、張苞さまが通りかかるまで一度も外へ出たいなんて願わなかったの」

雪鳶はまぶしげに瞳を細めた。

「会いたいと思うひとがいなかったからかもね」

その顔を見た張苞は無性に嬉しくなって、たとえ雪鳶が生きていようが死んでいようが、彼女が望むなら何としても外へ出してやりたくなった。
とはいえ、方法がわからない。何せ張苞自身は自由にこの家へ出入りできるのだ。それでも雪鳶と接触ができない。

「ああ、自分の望みがわかったら何だか俄然気力が湧いてきました。張苞さま、是非明日またここへいらしてください。だって明日は私が死んだ日です、私が生涯で最も外へ出たいと願ったはずの日なのですから」

ありもしない力こぶを作ってみせる雪鳶の可憐さに、張苞は胸が熱くなるのを感じ大きく頷いた。

「ああ、きっと来るよ。来て、絶対にお前をここから出してやる」

それまでどこかに行っていた猫が雪鳶の後ろからひょいと現れ、窓枠に座った。
すると雪鳶は髪に挿していた瑪瑙の嵌った簪を抜き取ると、猫の顎の前に差し出して揺らしてみせた。猫は雪鳶の意図を理解したように簪を咥えると、軽い足取りで窓から塀へ、塀から地面へ下りてきて、張苞の足もとへやってきた。
張苞が腰を屈めて猫の口から簪を取ると、猫はまた二階の窓へ戻っていった。
簪は確かに張苞の手のなかにある。何かがふたりの間を隔てていても、確かに雪鳶はその窓にいるのだ。

「約束ですよ」

雪鳶が猫の顎を撫でてやりながら言うと、念を押すように猫がニャアン、と鳴いた。



「ばかな約束して」

街の賑わいのなか、張苞の後ろを歩きながら関興が文句を言う。
もう何度聞いたかわからない。張苞はため息を吐いた。

「なにため息ついてるの。ため息つきたいのは私のほう」
「じゃあついてこなければいいだろ。家に帰って好きなだけため息ついてりゃいいじゃないか」
「その言い草。心配してついてきたのに。張苞がまたばかなことするから。何かあったら『なんで止めなかったんだ』と私も叱られる、どうせ」

細切れの台詞から推測するに相当頭にきているらしい。
向こうしばらくずっとこのことを言われるんだろうなあ、と張苞は今度こそ聞こえないように息を吐いた。

あれほど忠告したにもかかわらず張苞が雪鳶のところへ行ったと知った関興は、その上今日も行くつもりだと聞くと珍しく眉を釣り上げて怒りを示した。むろん関興は猛反対したが、張苞の決意が固いことを理解すると自分も一緒に行くと言い出したのだった。

「お前の考えてるような幽霊とはちょっと違うんだって」
「何が違うの。張苞には普通の女の人に見えてるからいいかもしれないけど、私にはどう見えてるか言ったはず。またあんな怖いものを見なくてはならない私の身にもなってほしい」
「怖かったのかよ……」

関興の言っている言葉の通りなら、きっと世にも恐ろしい形相が彼には見えているのだろう。
だが事実として張苞には艶やかで、しかしどこか寂しげな雪鳶の姿が見えているのだ。関興がどれほど恐怖を訴えようと張苞には実感が湧かない。

「昔から張苞はそうだ。私が何を言っても結局は我を通す。私の言葉なんて寝物語程度にしか聞いてなっ……」

関興の言葉が途絶えたのは、先を行く張苞が急に足を止めたせいでその背中にぶつかったからだ。他人には少しむっとしているようにしか見えないが彼にとってはとびきりの怒り顔で文句を言おうとした時、関興はふと張苞の様子がおかしいことに気づいた。

「張苞」
「関興、あれ」

張苞が指差す先へ関興が目を遣ると、そこには家々の向こうから立ち昇る黒ずんだ煙があった。勢いよく晴天へ駆け昇っていく煙の勢いは、その出処である炎の強さを示しているが、不思議と往来を行き交う誰もがそれに気づいていない。道の真中で立ち止まり指をさす張苞の姿を認め、その指し示す方向へ視線を走らせるひとはいるが、皆一様に首を傾げて足早に立ち去っていく。

皆にはあの煙が見えていないのだ。
関興がそのことに気づくのと同時に、張苞が勢いよく駆け出した。関興もあとを追い、並んで駆けながら小路へ入り、角を二回曲がった。

あの路地へ出ると、途端に煙を吸ってふたり同時に咳き込んだ。
袖で口と鼻を覆いながら進み、案の定雪鳶の家を含む数軒が炎と煙に包まれていることを確認すると、張苞は大声で「雪鳶!」と呼んだ。
開いていた窓から飛び出してきたのは猫で、それから煤で顔を汚した雪鳶が姿を現した。袖口で口もとを覆い、苦しげに肩を揺らして咳き込んでいる。くぐもった「張苞さま……」という声がかすかに届いた。

毎年のことなのだ。
何十年もの間、毎年この日に燃え盛る炎に焼かれて死ぬことを雪鳶は繰り返している。

それも今年で最後だ。今日で終わらせる。
張苞は「いまそっちに行くからな!」と声をかけ、塀を飛び越えた。一瞬逡巡した関興もすぐにそのあとを追った。ここまで来たら最後までつきあうと決めたようだ。

火のついた草を払い除けながら庭を進むと、玄関へたどり着いた。
やはり昨日見たこの家とはところどころが少しずつ違う造りになっている。これは雪鳶が死んだ家だ。

張苞は玄関扉へ飛びつくと、その取っ手を見て「やっぱりだ」と呻いた。
観音開きの扉には、外側から錠前が取り付けられている。よほど雪鳶を外へ出したくなかったらしい。男の歪んだ欲望を目にして、張苞は胸が怒りで熱くなるのを覚えた。

苛立たしげに取っ手を揺さぶった張苞は、一歩下がって剣を抜いた。

「張苞、無理だ。鉄でできてる」

関興の制止をよそに張苞は剣を振り下ろした。
硬質の音を立てて剣は跳ね返され、錠前は平然としている。
だから言ったのに、という声が背後からした。

「張苞。所詮民家の戸だ。蹴破ったほうが早い」

これといって雪鳶に思い入れがないぶん、関興のほうが冷静のようだ。
促されるまま張苞は関興とともに扉の前に立ち、せえの、と呼吸を合わせて肩から突っ込んだ。二度、三度と跳ね返されては体当たりを食らわせるうちに、蝶番のあたりが鈍い音を立てはじめ、四度目でバリバリという木材の破壊される音とともにふたりの身体が内部へ飛び込んだ。

どうにか踏み留まった関興の隣で張苞は頭から突っ込み、そのままなかへ転がった。慌てて立ち上がってあたりを見回した張苞は、虚を衝かれて言葉を失った。

そこには在りし日の雪鳶の生活があった。
一階へ下りてくることはあまりなかっただろうが、狭い家のなかに趣味の良い調度品が整然と置かれている。絶対に男じゃなくて雪鳶の趣味だ、と張苞は思った。
家のなかは奇妙なほどの静寂に包まれている。
火も煙も見えないが、熱気と、そしてぱちぱちという火の粉が飛ぶ音がする。
壁の掛軸が炎もないのにじわじわと黒ずみ、灰と化してゆく。奥の間に見える円卓がみるみるうちに炭に変わってゆく。壁が焦げて変色してゆく。
頬に見えない火の粉がついたのか、不意に感じた耐え難い熱さを張苞は思わず手で払い、我に返って階段を見上げた。ここは雪鳶の家だから、昨日入った時と少し階段の位置が違う。

その階段の上のほうから、ごとり、という鈍い音がした。
ご、という何かが床を打つ音がして、それからずずず、と重たいものを引きずる音。ご、とまた何かが床を打つ。ずずず。
下から二段目に足をかけた張苞は、不意につま先から冷たいものがせり上がってくるのを感じた。頬も髪も焼けるように熱いのに、身体の内側だけが凍ったように冷たい。

そうだ。ここは雪鳶の家。彼女が生きていた頃の、いままさに焼け落ちようとしている家。
だからいま二階の床を這いずり、階段の上に姿を現そうとしているのは、窓辺に座っていたあの雪鳶ではなく、炎に捲かれて命を落とした彼女……とんだ間違いを犯しているのではないかと思い始めた張苞は、思わず階段にかけていた足をゆっくりと下ろそうとした。

ご。階段の上、壁の後ろから、赤く焼け爛れた細い腕が生えてきた。力の籠もらない指先が懸命に床を掻いている。
無理だ。後ろへ下がろうとした張苞だったが、突然背中に衝撃を受けて振り返った。関興が張苞の背中に張り付くようにして後ろからぐいぐいと押している。

「後ろ。つまってる。早く行って」
「関興。だって、お前」
「早く。熱い!」
「ああ、もう!」

張苞は意を決し階段を駆け上がり、二階に飛び込むなりぱっと振り返った。
階段の下から関興が上がってくる。その手前には、横たわる雪鳶の姿があった。
おそらくはあの日関興が見たという雪鳶だろう。張苞は思わず目を背け、口もとを手で覆った。

「張苞さま」

黒ずんで判別のできなくなった顔のなかで、何かがぐるりと動き、ようやくそれがふたつの目であることがわかった。
雪鳶、と名を呼ぼうとした瞬間、焼け崩れた衣装棚が雪鳶の上へ倒れてきた。ちょうど駆け上がってきた関興が両腕でそれを受け止め、あちち、と呟いてから関興が振り返る。

「張苞、そのひとを抱いて先に」
「お、おう」

関興が戸棚を支えているうちに、今度こそ張苞は躊躇わずに雪鳶に近寄り、いまにも崩れそうなその身体の下に腕を差し入れて抱え上げた。力が抜けてあらわになった雪鳶の喉から、ひゅうひゅうと空気の通る音がする。何か言おうとしているようだ。

「いま外に出してやるからな」

張苞は雪鳶を抱いたままどたどたと階段を駆け下りた。後ろで関興が支えていた戸棚を放り捨てる物音がする。皮膚の剥がれ落ちた雪鳶の手のひらが、弱々しく張苞の頬を撫でた。

先程破った玄関から外へ飛び出しやっと新鮮な空気にありついた張苞は、胸いっぱいに空気を吸い込みながらゆるゆると膝をついた。庭の草を燃やしていた炎はすでに見えず、ぱちぱちと家を焦がす火の粉の音もしない。煙もないようだ。そのことに気づいて振り返ると、家はいつもと同じように無言のまま佇んでいる。
その玄関から、けろっとした顔の関興が出てきた。

「綺麗なひとだ」

関興に言われてはっと腕のなかを見遣ると、あの可憐な雪鳶が微笑みを浮かべて抱かれていた。煤ひとつついていない白い肌が、真珠のように輝いている。

「雪鳶。外だ。やったな」
「張苞さま」

か細い声で、もういちど言った。張苞さま。
気配がひどく弱くなっている。張苞は命運を察し、雪鳶をきつく抱きかかえるとその胸もとに顔を埋め、かたく目を瞑った。
腕がふっと軽くなる。
再び目を開けると、すでに雪鳶の姿はどこにもなかった。

にゃあん。
視線を走らせた先、庭の隅にあの猫が座っている。
猫は張苞をじっと見つめて尻尾をゆっくりと揺らしたあと、またひと声鳴き、それから板塀の隙間から外へ出ていった。

きっとまたこの路地裏へ足を運んでも、あの二階の窓から外を眺めるひとはいないのだろう。

それきり張苞は雪鳶について口にすることはなく、その心境を察した関興もまた敢えて触れようとはしなかったので、彼女の名がふたりの間で口に上らないまま数ヶ月が過ぎた。
張苞自身駐屯地の設営で都の外に出たり、関興もまた荊州にいる関羽との間を行ったり来たりして忙しく過ごしているうちに半年が経った頃、成都の庶民街では小さな事件が起きた。

借り手のつかない家を煩わしく思った地主が、隣家を数軒買い上げてまとまった土地にし、自分の屋敷を建てようと考えた。そこですでに建っていたぼろ屋を皆壊して更地にしてしまい、新たに大きな家を建てるために基礎を造ろうと地面を掘り下げたところ、あの家の下から次々と人骨が発見されたという。
その数十体以上、着物から推測するにすべて男であった。なかにはあの家を借りてすぐにいなくなったと思われていた者と思しき死体もあったというが、それだけでは到底数が合わない。
そういえばこのあたりでは若い男が急にいなくなるってことが時々あったっけねえ、との老人の証言もあったが、結局被疑者も被害者も不明のまま、死体は墓地へ移されたという。


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