■ 桃の夭夭たる

昔、我が家はあまり豊かではなかったので菓子の類が口に入ることは滅多になく、したがって時折近所の子どもたちと林へ入って見つけた果物が私にとってのご馳走だった。
もちろん殆どの場合見つかるのは野苺のような小粒の果実ばかりで、腹の足しにもならなかったが、普段甘いものを口にする機会がない私たちは指先を紅く染めながら、競い合うようにして食べた。

少し大きくなり、男女にわかれて大人たちの仕事を手伝うようになっても、私と女の友人たちは薪拾いの合間に楊梅(ヤマモモ)などをもいで中食にした。
倒木を椅子にして果実を食べながら話すのは、将来どんな家へ嫁ぎたいかということばかりだった。ある娘は「首飾りや簪をつけさせてくれる家」と言い、またある娘は「使用人がいる家」と言い、私は「お腹いっぱい食べさせてくれる家」と言った。つまり、私たちは皆金持ちに嫁ぎたがっていた。

最初に結婚したのは李家の娘だった。長女だったからだ。
彼女が嫁いだのは同じ集落の家で、もちろん首飾りも使用人もなかった。結婚式は食べ物や衣装を持ち寄って盛大に行ったが、翌日からは元の暮らしだ。その上未婚の娘たちと一緒に果物を採りに林へ入ることもできなくなった。
次いで周家の娘が隣の集落へ、私の姉が母方の遠戚へ嫁いだ。宋家の娘は嫁ぐ前に風邪をこじらせて死んだ。

その頃になると私は何故自分がいつもお腹を空かせていたのかわかるようになっていた。
大人たちは自分たちの貧しさを土の質や、近隣で暴れる水賊のせいだと言った。
ならば土地を移ればいいのに、彼らは誰も動かなかった。
水賊が商売の邪魔をするのなら、追い払うか、或いは水賊に仲間入りしてしまえばいいのに、そうする人はいなかった。
だからきっと私たちの子も孫も貧乏だろう。

或る日、また母親が「お前もそろそろ嫁がなければいけない」といつもの説教を始めたのでそそくさと逃げ出した私は、ひとりで林へ入った。
かつてはただ甘い果物が欲しくて林へ来たが、その頃にはどちらかというとひとりになれる場所を欲して林へ行った。

母の話のせいか心がざわついていた私は、いつもよりずっと奥へと向かった。日が傾いたら戻らねばならない、そうすると遠出は後々帰り道が面倒になるだけだとわかっていても、鬱蒼とした樹々の間を歩いていく足を止めることができなかった。

しばらく進むと、ぽっかりと開けた場所に出た。
開けた、といっても私たちの粗末な家が三軒ほど収まる程度の小さな空間だったが、そこだけ枝葉に遮られることなく陽光が注ぎ、奇妙に明るかった。
更に不思議なことには、中央に一本だけ桃の木が生えており、そのそばには石に腰を下ろした老婆が膝で針仕事をしていた。

訝しみながら近寄ると、老婆は顔を上げて言った。
珍しいね、こんなところにお嬢さんがひとりで現れるとは。普通女の子たちは幾人かで集まって歩くものだよ。変わった子だね。

「こんなところでひとりで縫い物をしているお婆さんも、なかなか変わった人だと思うわ」

私が言うと、老婆は手を動かしたままうふふと笑った。
その笑みが思いの外優しげだったので、私は警戒心を少し和らげ、すぐそばまで行った。

お婆さんが言った。
変わった子には、変わった運命が訪れるよ。そこの桃の木に実が生っているだろう。もしその実をもいで食べたら、きっと最高の夫に出会えるよ。ただし夫の死に目には会えないけれどね。

幹の周りを半周してみると、確かに老婆の言う通りに桃がひとつだけ生っていた。
びっしりと産毛の生えた、見たことのないほど大きく熟した桃だった。
ちょうど歩き続けて空腹を感じていた私は、夫のことなど関係なくこの実を食べてしまいたいと思ったが、その前に「何故そんなことがわかるの」と幹の裏側にいる老婆に尋ねてみた。
返事がなかったので不審に思い、桃を見上げていた視線を下ろしてみると、幹の向こうに見え隠れしていた老婆の姿がない。反対側へまわってみても、やはり老婆は跡形もなく消えていた。地面にはくるぶしまで沈む草が生い茂り、足跡を追うこともできなそうだ。

桃のところへ戻った私は、腕を伸ばしてその実をもいだ。
手のひらの上でずっしりとその重みを主張する桃は、陽光を浴びて輝いている。
私は迷わずに齧りついた。
柔らかく瑞々しい果肉が喉の渇きを癒やし、くどいほどの甘みが口のなかを満たした。
腰を下ろすことも忘れ、立ったまま無我夢中で桃を貪っていた私の意識を現実へ引き戻したのは、背後の茂みが揺れるがさがさという音だった。

唇を濡らしたまま振り返ると、ひとりの男が茂みのなかからこちらを見ていた。
髪を逆立て、入れ墨の施された上半身を晒している男の風体は異様だったが、私は恐怖よりもまず恥ずかしさに襲われて思わずつま先を重ねた。
彼は靴を履いていて、私は裸足だったからだ。

私が「誰?」と尋ねると、別に答える筋合いもないのに、彼は素直に甘寧と名乗った。
それから甘寧は或る土地の名前を言い、それが見当違いな方角であったのでそう伝えると、困り果てた様子で頭を掻いた。

「ばらばらになったら野郎どもとそこで落ち合う約束をしてたんだけどよ……道間違えちまったかな」
「道、そんなに複雑じゃないのよ。このあたりは」
「水の上なら迷わねえんだけどなぁ」

周囲を見回しながら木のほうへ歩いてきた甘寧は、私が持っている食べかけの桃へ目を留めた。

「それ、まだ食うのか?」
「何故?」
「いや、ずっと歩いてきたもんで喉カラッカラなんだよ……他に生ってないのか?」
「これだけよ。ひとつしかなかったの」

すると甘寧は私の桃へ注ぐ眼差しを更に強くした。
実を言うと桃の予想以上に大きく芳醇なせいで、私の腹は既に殆ど満たされていた。食べきる自信のなかった私が少し考え込むと、甘寧の手が私の手に覆い被さるようにして桃を掴んだ。

「貰っていいか? 礼はするから」

もし半分しか食べなかったら、お婆さんの予言はどうなるのだろう。
そんな考えが一瞬頭をよぎったが、私は甘寧の力強い瞳に気圧され小さな声で「どうぞ」と桃を手放していた。

甘寧は私から桃を奪うと物凄い勢いで食べはじめ、あっという間に種だけにしてしまった。
果肉を削り取る犬歯に見惚れていた私は、彼が種をぽいっと放り捨てて私を見たことで我に返った。
桃を食べたことで精気が満ちたのか、甘寧のまだ何か食べたそうな瞳が今度は私を見ている。

「お礼」

思わず口走っていた。
甘寧が驚いた顔をした。

「お礼。くれるって言ったでしょ」

自分でも何故そんな言葉が口をついて出たのかわからなかった。
どんなに優しそうな男に見えても、人目のない場所で相手の神経を逆撫でするようなことは言うべきではない。周家の娘はひとりで村外れのお廟を掃除していた時に隣の集落の若者に出くわし、既成事実を作られて嫁に行った。嫌な話だが、よくある話でもある。

その時老婆の嗄れた声が遠くから聞こえてきたような気がした。
変わった子には、変わった運命が訪れるよ。
私は甘寧の二の腕を掴んでいた。

「お礼をしてくれるなら、私を遠くへ連れ去って」

少しの間呆気にとられていた甘寧だったが、やがて顎のあたりを掻きながら言った。

「それ、俺しか得してねえけど……」
「そうでもないのよ」

本音だった。
どこにでもあるような集落の、普通の家のつまらない娘に生まれた私の一生で、風変わりなことが起きる機会などもう二度と巡ってこようはずもない。

甘寧が私の裸足のつま先を見下ろした。
また恥ずかしくなり、とっさに裾のなかにつま先を隠すと、甘寧が笑みを浮かべた。

「ここまで裸足で来たのか」
「ええ」
「野郎どもと合流したら、そん中で一番足の小せえヤツの靴をお前にやるよ。名前は?」
「……雪鳶」

名乗ったのは久しぶりだった。
私の名前を知らない人と出会うなど久しくなかったからだ。
私は自分の名前を忘れかけていた。

「よっしゃ、雪鳶。根っこやら石やらで怪我させるわけにいかねえから、抱えていってやる」

そう言うと甘寧は私の腰に腕を回し、いとも軽々と持ち上げた。
てっきり横ざまに抱えてくれるのかと思いきや、甘寧はそのまま私の腹を肩に載せ、まるで荷物でも担ぐようにして歩きはじめた。

西日が差す頃に合流した甘寧と配下の男たちは、数艘の舟に分乗し河を下った。
日が沈むと甘寧は自分の舟を岸辺に近づけさせ、漕手の者たちを別の舟へ移らせて、離れた場所へ遠ざけた。
ふたりきりになった舟のなかで甘寧は貪るように私を抱き、そうして私は二度と村へは帰らなかった。

実をいうと、当時私は夫となった甘寧のことを大層立派な貴公子だと思っていた。老婆の言葉通り、最高の夫であると。
何故なら彼が身につけているものは少なくとも私たちよりはずっと上等な品であったし、靴も履いていたし、私に「少しくらい太ったっていいからいっぱい食え」と毎日お腹いっぱい食べさせてくれ、私よりはずっと物知りで、そして優しかったからだ。

甘寧が水賊の身から孫家に仕える身になり、彼とその配下以外の男たちを見るようになって初めて、自分の夫が世間の人々の言うところの「最高」には程遠いことを知った。
例えば周瑜殿は甘寧とは比べ物にならないくらい優雅で、呂蒙殿はずっと賢く、陸遜殿は遥かに金持ちだった。

しかし老婆は正しかった。
現実を知ってもなお、甘寧は私にとって最高の夫だった。
優雅ではないが荒削りの優しさを持ち、賢くはないが鋭い勘を秘めていて、受け継ぐ資産はなくとも一代で成り上がる強かさがあった。他の女を抱いても翌朝には必ず戻ってきて私の機嫌をとってくれたし、子どもを生んで少し弛んだ私の身体を隅々まで愛してくれた。

昼前から催して私を寝床へ引きずり込んだ甘寧の、熱く荒々しい愛撫を受けながら、私は「愛してるわ」と何度も喘いだ。
甘寧は私のその言葉と肌の貪欲さに苦笑し、「お前はいっつも全身全霊懸けてるって感じだな」と言った。

「そうよ。だってきっとあなたの死に目には会えないと思うから」

そうだな、と甘寧は不意に真剣な声で応え、私を抱く腕を一層強くした。
たぶん、武人たる者いつどこで命を落とすかわからない、といった意味で受け取ったのだろう。
また、どこからか桃の薫りが。



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