■ 0017

水面に揺れる月が不意に割れ、無数の欠片となって揺れたあと再び身を寄せ合ってひとつの満月に戻った。
今しがた月を砕いたばかりの陸遜は既に去り、川幅のちょうど中央あたりで水を掻きながら岸のほうを見ている。
川岸の岩に腰掛けてつまらなそうに脚を組み替えている雪鳶は、陸遜の視線がこちらにあることを見て取ると抗議した。

「返して」

小さな水飛沫を立てて陸遜の腕が水上へ現れた。
その手には玉の首飾りが握られている。
手のなかの首飾りを見てから、陸遜は顔を上げたままゆっくりと岸へ寄ってきた。
そうして近くまで泳いできた陸遜に向かって雪鳶が手を伸ばすと、あともう少しで届くというところで陸遜は不意に反転し、そのまま滑らかな動きで再び奥へと戻っていってしまった。
幼馴染のあまりに子供じみた振る舞いに閉口し、雪鳶は険しい顔つきで顎を引いた。

「私のですよ」
「私があげたものでしょう」
「それはそうだけど……頂いたものだから私のです」
「欲しいのなら取りにおいでなさい」

もちろん雪鳶が水に入ってゆけるわけもなく、また陸遜が何故そんな悪戯をするかも何となくわかってはいたので、雪鳶は仕方なしに岩に座り直した。
ほんとうに拗ねているのは、雪鳶ではなく陸遜のほうだ。
雪鳶が手に入らないから怒っている。

数年前に陸遜は一族を率いて去ったが、この土地は陸氏の故地であり、彼もまたここで育った。
ようやく孫氏との友好関係を築き、今度の帰郷は言わば凱旋、地元の人々は陸遜一行を歓迎し現に今も周辺集落の有力者たちは寄り集まって宴会をしている。
雪鳶の父もそこにいるはずだが、彼女は自宅にいたところ、宴会を早引けしてやって来た陸遜に連れ出された。
酒席の賑わいは川の畔までは届かず、あたりにはただ虫の声のみが響いている。

その時夏だというのに妙に薄ら冷たい風が川面を撫でたので、雪鳶はこれを理由に陸遜に声をかけた。

「ねえ、なんだか雨でも降りそうですよ。風邪を引くから上がってらっしゃいよ、私も寒くなってきました」

すると立ち泳ぎしていた陸遜も同じ風を頬に受け、雪鳶に同意したのか、ようやく水を掻いて岸へ向かった。
確かに急に月が雲に覆われて姿が見えなくなっている。

岸へ上がった陸遜の肌の上を、透明な水が弾かれるように滑り落ちた。
袴子(ズボン)の腰から伸びる瑞々しい褐色の肉体に、雪鳶は思わず目を逸らした。
岩場に脱ぎ捨ててあった上着に腕を通しながら、陸遜が小さく笑った。

「ばかね、袴子をそんなに濡らしてしまって。戻ったら何と言い訳するつもりです?」
「さあ。雪鳶に川へ突き落とされたとでも言いましょうか」
「……濡れているのは下だけだもの。誰も信じやしませんよ」
「だって突き落とされたと言ったら、きっとあなたのお父上はお詫びにあなたを私に下さるでしょう」
「博徒みたいな言い草ですね」

服を着終えた陸遜が雪鳶の手首を掴んだ。
雪鳶は屋敷の方向へ足を向け、そのまま陸遜を連れて戻ろうとしたが、今度は強く引っ張られて木の葉のように反転すると陸遜の胸に正面からぶつかった。
今度こそ驚いて肘を伸ばし胸板を押し返すも、腰に腕を回されているせいで仰け反るばかり、揉めているうちに脛をつま先で掬われて後ろへ倒れ込む。
幸いにして膝丈の草の生い茂る柔らかな土の上、頭こそ打たずに済んだが伸し掛かる陸遜の体に潰されて身動きのとりようもない。

「何するの!」

頬のひとつも叩いてやろうと振り上げた手は上から握られて顔の横に戻された。

「そういう口の利き方」

陸遜の言葉に雪鳶は身構えた。
いくら昔馴染みといえども、陸遜と雪鳶の家では格が違う。
とっさの言葉とはいえ無礼には違いない。

「……昔はよくしてくれたのに、何故今はそう他人行儀な口調で話すんです?」

咎められたわけではなさそうだと知り、雪鳶は密かに安堵した。

「だって陸遜殿のお家と私の家じゃ身分が違うでしょう。友達にするような口は利けません」
「幼い頃はともに遊んだこともあるのに」
「それは父上たちがお話をなさっている間に、暇潰しにあてがわれただけのことかと……」

これについては雪鳶の言い分が正しい。
大人たちが膝を突き合わせて話している間、陸遜の相手をするように言われたことが幾度かあった。
ただし子供同士といえども大人の事情と無縁ではいられず、雪鳶のほうはとにかく陸氏の若様を怪我させるようなことがあってはならないときつく言い含められていたために、まったく「一緒に遊んだ」というふうな記憶ではない。

実際当時の陸遜は聡明だが色々と加減のわかっていないことが多く、雪鳶は反撃の許されない相手に度々泣かされたものだ。
したがって幼馴染といっても決して対等な関係ではなく、雪鳶には苦々しい思い出も多いのだった。
川に突き落とされた云々の話にしても、かつて池に突き落とされて濡れ鼠になったのは雪鳶のほうだ。
離れていた数年の間に、陸遜は随分と都合の良い方向へ記憶を書き換えたらしい。

「そういう他人行儀な口調は向こうで聞き飽きてるんですよ。こうして戻ってきたら、あなただけは打ち解けて接してくれると思っていたのに」
「ご活躍はお噂に聞いています。だからこそこんなところを人に見られたら事ですよ」

陸遜が濡れた腰を押し付けてくるせいで、裙子(スカート)の布がじんわりと不快に湿りはじめており、雪鳶は一刻も早く解放されたくて仕方がない。
そこで陸遜のからだをどかそうと脚をもぞもぞと動かしていると、それまで鼻先のつきそうな距離に顔を寄せていた陸遜が、ふと怒ったような表情を浮かべて肘を伸ばした。
見下ろしてくる双眸を不審げに見返していた雪鳶だったが、やがて陸遜の腰のあたりに異変を感じて狼狽えた。

さすがに長老格の雪鳶の家では表向きはそのようなことは許されていないが、このあたりの漁夫農婦たちの野合をうっかり垣間見たことは雪鳶にもあった。
そのため、いま陸遜の身に何が起こっているかは雪鳶にもわかる。
わからないのは、何が引き金になったかだった。

いやだ、と口のなかで呟き、雪鳶は今度こそ陸遜の頬を軽く叩いた。
それが気つけとなったようにハッと表情を変えた陸遜は拘束を緩め、雪鳶はその隙に臀部を滑らせて彼の下から脱した。

「首飾りも返してくれないような人とは、いやです」

そう言いながら雪鳶は立ち上がり、まだ土の上に座ったままの陸遜に背を向けて髪を直した。
その時頬に冷たいものを感じたので思わず指の腹で撫で、天を仰ぐと、今度は眉のあたりにもう一滴落ちてきた。

「とうとう降ってきましたよ。私は戻りますからね」
「どうぞお先に」

相変わらず座って暗い川面を眺めている陸遜の後頭部を見下ろして雪鳶はしばし逡巡したが、やがてため息を吐いて緩やかな土手を登りはじめた。
どの道既に陸遜はほとんど全身濡れているようなものだ。
雨に降られたところで状態は変わらないし、雪鳶の知ったことではない。
へそを曲げてばかりでろくに会話もできない陸遜の態度も不愉快だった。

(もう知らない)

そのまま雪鳶は家へ戻り、宴から帰った父親に陸遜のことを問われたが白を切った。

翌日も陸遜とは話さなかった。
姿は見た。
叔母の家へ行く途中、昨日の川で飽きもせず泳いでいる陸遜を遠目に見かけただけだ。
声をかけようか束の間迷ったが、特に話すこともないと気づいてその場を後にした。

再び陸遜と口を利いたのは、その次の日のことだ。
昼下がりになって、陸遜のほうから訪ねてきた。
服こそ濡れていないものの、髪から水を滴り落としながら勝手口に現れた陸氏の坊っちゃんに雪鳶の母はすっかり慌て、布を差し出して奥へ通した。

部屋に案内したあと雪鳶に世話を言いつけて戸を締めてしまったあたり、母親は娘が陸遜とどうなっても構わないと思っているらしい。
というよりも、既に手がついたものと考えているのだろう。

榻に座って髪を拭く陸遜から少し距離を置いて腰を下ろした雪鳶は、薄気味悪いものでも見るような視線を隣へ向けた。
髪を拭き終えた陸遜は布を持った手を膝に置いてふうとひと息吐き、懐に手を差し込んで何やら取り出した。

「これを。昨日あなたに言われた時に、落としたことに気づいたので」

雪鳶は腕を伸ばし、陸遜の手から首飾りを受け取った。
小さな玉の首飾りは、確かに雪鳶のものだ。

「水に落としたのですか? それで昨日も川に……?」
「見ていたんですか」
「通りがかった時にね」

良い身分の若様が毎日川で遊んでばかみたい、と思ってはいたが、もっとばかばかしい理由だったとは。
雪鳶は手のなかの玉を見つめながら呆れ返った。
それから一昨日自分の言ったことばを思い出し、急いで付け加えた。

「首飾りを返してくれたからって、別にすべて許すわけではありませんよ」

そんな誤解をされては困る。
それに、たとえ贈り主は陸遜とはいえ雪鳶のものが持ち主である雪鳶の手に戻っただけのことだ。

「そんなつもりじゃありませんよ。ただあなたのものを失くしてしまったから、捜しただけのことです。それに、そんなものでよかったらこれから先にいくらでも差し上げられますよ。あちらでは、何か大切なものと引き換えにするほどの価値のあるものじゃありませんから」

そのことばに、雪鳶は不快げな顔をした。

「そりゃ陸遜さまほどのお立場なら街でいくらでも宝石を買えるでしょうけども」
「そういう意味では」

陸遜は顔を上げた。
真意が伝わっていないと気づいた表情だった。

「私はただ、そんなものを青春の想い出にして生きてゆくような女性になってほしくないだけです」

首飾りと陸遜を見比べ、そしてそのことばを噛み砕き、ようやく雪鳶は陸遜の言わんとしているところを完全に理解した。

日々の生活に追われながら、時折青春の日の名残を眺めては仕舞い、平凡に老いていく、そんな女はこの辺りにはごろごろいる。
そういう想い出があるのはむしろ恵まれているほうだ。
自分と一緒に来てくれれば、変化に富んだ環境のなかで鮮やかに生きていくことができると、陸遜はそう言いたいのだ。
変わらぬ暮らしのなかで何事もなく老いていくということ自体がそもそも、彼にとっては罪なのだろう。

その思い上がりと我儘に、雪鳶は怒りを覚えた。
将来故郷を訪ねた時に、かつて青春のきらめきを共有した相手が平凡な男と暮らし、その輝きを失くしつまらない中年女になっているところを見たくないのだ、という陸遜の本音を雪鳶は見抜いていた。

「そんなことを言うようになったなんて、私にとってあなたはもう想い出だわ」

一度伸ばしかけた腕を下ろした時、陸遜の顔は幼い恋の終わりを理解したことを物語っていた。

背後で戸が閉まる音がするまで、雪鳶は振り返らなかった。
娘がしくじったことを悟ったらしい母親が、狼狽がちに陸遜を送り出す声が壁越しに聞こえてくる。
首飾りを強く握る手のひらの痛みが、勝者のいない恋もあるのだということを雪鳶に教えていた。



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