■ 13番目の月

※『めぐりめぐる月』続編


雪鳶には信じていない言葉がたくさんある。
母親の「怒らないから」という言葉。
ほんとうに親しいごく僅かを除いた女友達の「誰にも言わない」という約束。
このように雪鳶が信じていない言葉はたくさんあるが、目下疑ってかかっているのはこの台詞だ。

「ああ、疲れた」

ため息混じりにそう言うと、李典は雪鳶の腕から赤子を取り上げて、隣室にあるその子のために設えた小さな寝床に置いた。
生後半年の赤子は幸い機嫌が良かったのか、突然母親から引き離されても平気な顔をしている。
それから李典はすぐにつかつかと雪鳶に歩み寄り、ひょいと抱えると牀の上に転がした。

雪鳶にとって「疲れた」というのは、もう何もする気が生じない、力を使い果たした状態のことだ。
他人にとってもそうなのだとずっと思ってきた。
だから、何故夫が「疲れた」と愚痴りながら寝室でもうひと仕事しようとするのかわからない。
初めて李典の「疲れた」を聞いた時に抱いた「今日のおつとめは無し」という期待は、その日のうちに裏切られた。

「疲れたならお休みになったら」

疲れたという言葉に対する認識の相違について、雪鳶は今ではよく心得ている。
だから雪鳶がこう言うのは「おつとめ」を回避するためではなく、無言でいると夫が「ねぎらってくれないのか」と拗ねるからだ。

「今日は何してたの」

雪鳶の帯を解きながら李典が尋ねた。
結婚してから数年、ようやく生まれた子供、留守がちの夫。
この状況でそんな問いが生じること自体、雪鳶には理解できない。

「お庭で花を眺めたり……先日芙蓉が咲いたから」

実際は赤子を抱いたまま庭の長椅子で失神していたのだ。

「ふうん、風流だな」

怒っても仕方がない。
雪鳶は心を鎮めるために軽く目を閉じ、心のなかで十干十二支を数えはじめた。
甲子、乙丑、丙寅、丁卯……。

「今日は曹丕殿のお供で郊外まで行ってさ」

戊辰、己巳、庚午。

「牧場に行って今年の馬を見てきたんだけど」
「えっ、うま?」
「兵を増員するから馬の数も足りなくなるだろ。だから調査に行ったんだ」

ああ、成る程……雪鳶は頷いた。

「そしたらちょうど生まれたばかりの仔馬がいてさ。それがもうめちゃくちゃ可愛いの。ずっと母親にべったりで」
「父親はそばにいた?」
「父親? さあ、見当たらなかったけど」

でしょうね、と言いたいところを雪鳶はぐっとこらえた。
李典は「変なやつ」という顔をしたが、妻がはっきりと口にしないだけで何かを不快に感じていることだけは感じ取ったようだ。
どことなく気まずい空気になり、李典は黙って作業を再開した。

雪鳶の耳元を探っていた李典の唇が、首筋をつたって肩口まで下りてきた時のことだ。
不意にその動きがぴたりととまり、数拍の間を置いてから李典は身体を起こし、頭を掻きながら雪鳶を見下ろした。

「あの……何か」

下着の襟を掻き寄せながら、雪鳶は不安げに尋ねた。
いくら気乗りしないからといって可愛げがなさすぎたか。

「いや……別にいいんだ大したことじゃ……いや、やっぱり無理だ。なあ、その肩んところ……」
「肩……? ああ」

思い当たるところがあって、雪鳶は自分の下着の左肩のところを摘んで引き寄せると、ちょっと臭いを嗅いでみた。

「昼間、あの子がやったの」
「げろっと」
「そう。着替えたけれど、下まで染みていたとは気づかなかったわ」

赤子が吐き戻すのはよくあることだ。
まだ乳離れもしていないからさして臭いもしない……と少なくとも雪鳶は思っている。
だが李典は違うようだ。

「こういうこと言うと女みたいって思われるかもしれないけど、男って案外繊細なところがあるから……だめなんだよなぁ、こういうの」
「こういうの?」
「だから……わかるだろ? 奥さんには所帯じみてほしくない……いやいや、家事に育児に頑張ってくれてるのはよく知ってるよ、俺」
「では乳母を雇ってください」
「子供は母親と一緒にいるのが一番だよ……なに、なんでそこで満面の笑顔?」
「これがあなたの見る最後の私の笑顔だからよ」
「おお、こわ」と李典は雪鳶の頬を指でつつき、「やっぱり母親になると可愛げがなくなるもんだな」

それで今夜は何もせずに眠ることになるかと思いきや、李典はしっかり二度貪った。

疲れている。
雪鳶は髪を耳に掛けながら、腕のなかの赤子を抑えた声であやした。
部屋のなかを歩き回る雪鳶は、やっとまどろみはじめた我が子の額にくちづけをした。
こんなことを毎晩している。
隣室を覗くと、李典の裸の背がゆったりとした速度で穏やかに上下しているのが見え、雪鳶は天井を仰いで息を吐いた。

李典は良い夫であり、良い父親だ。
なかなか身籠らなかったあいだにも愛情を注いでくれたし、それはいまでも変わらない。
任務で家を空けることも多いが、出先から頻繁に手紙を寄越してくれる。
妻としてこれ以上の贅沢はいえないということは、雪鳶にもわかっていた。

だから李典の前では泣けないのだ。
赤子の襟に顔を埋め、雪鳶は唇を噛んで声を殺した。
望むものはすべて手に入ったにもかかわらず、無性に息苦しくてさびしい。
李典が良き夫、良き父親であればあるほど、自分が母親として不適格に思えてくる。
こうして声を殺して泣くのも、毎晩のことだ。

すっかり眠った我が子を寝台に寝かせると、雪鳶は涙を拭きながら夫婦の寝室に戻った。
静かに寝床に入ったつもりだったが、李典が緩慢な動作で寝返りを打った。
雪鳶を見上げている瞳には、眠気と、そして妻への愛情が満ち溢れている。
李典の逞しい腕に抱き寄せられて雪鳶は横になった。

「……また泣いてたのか」

どきりとして夫の胸を撫でながら雪鳶が瞳で尋ねると、李典は眠そうにあくびを噛み殺してかすれた声で呟いた。

「赤ん坊」
「ああ」

ああ、ともう一度言い、雪鳶はさり気なく目もとに触れてそこが濡れていないことを確かめた。

「お腹が空いてたんだと思う」
「全然気づかなかった、俺」
「疲れてたんだもの。仕方ないわ」

李典はしばらく満ち足りた笑みを浮かべて雪鳶を見つめ、それから愛する妻の生え際に接吻すると再び瞼を閉じた。
間近に夫の寝息を聞きながら、雪鳶は眠れずにいる。
闇のなか目を凝らし、何も失っていないのに感じる喪失感や、何も壊れていないのに感じる失望感の正体を探っていた。

実際に壊れたものもある。
夫婦の寝室から直接中庭へ出られる扉の調子が悪いことに雪鳶が気づいたのは、明くる日のことだった。
子供を片手に抱いたまま、もう一方の手で扉を開閉している雪鳶の背中に李典が声をかけた。

「やっぱりおかしくなってる?」
「ええ。たぶん蝶番が緩んでるんだと思う。開け閉めしようとすると引っかかるの」

数歩引いて見ると、戸が僅かに傾き、角が床を擦っていることがわかった。
後ろへやって来た李典が、雪鳶の頭越しに戸を掴んで具合を確かめた。

「ガタついてんな」
「この家結構古いもの。修繕の手配をするわ」
「いいよ、俺がやる」

振り返って見上げた雪鳶の目の前で、李典が眉をクイと持ち上げて笑った。
ひと呼吸置いてから雪鳶は困惑げな笑みを返した。

「……大工仕事なんてしたことないでしょ?」
「別に家を建てようってんじゃないんだ。できるだろ、こんくらい」
「いや……ああ、ちょっと待ってよ。別に腕を信用してないわけじゃないけど、どうせなら本職の人にきちんとやってもらって完璧に直したほうがいいんじゃないかしら」
「完璧? 俺だってこの程度の扉くらい直せるって、完璧に」

完璧に、と言った時の口調に、妙な敵意を感じて雪鳶は笑みを濃くした。
笑うのは、過度に雰囲気を悪くしないためだ。
そうしないと喧嘩になりそうな気配があった。
しかも原因もわからないままに。

扉に手を掛けたままの李典が顎を引き、唇の触れそうな距離で雪鳶の目を覗き込んだ。

「人なんか入れなくたって家のなかのことくらい上手く回していけるって。扉は俺が直す。そんで赤ん坊は雪鳶が面倒を見る。職人は無し。乳母も無し」

無し、というところでご丁寧に手つきまで添えた李典の真意が雪鳶にはわからない。
とにかく今までに見たことのない態度の夫に驚いていると、さすがに剣呑すぎたと思ったのか、李典は軽く口づけて「な」と念を押した。
「この話はこれで終わり」と言っているようにも雪鳶には聞こえる。

「ねえ」

工具を取りに物置へ向かう李典の背に、雪鳶が声をかけた。

「あなた、私に何か言いたいことがあるんじゃない?」

李典は振り返ったが、足をとめることはなく後ろ向きに部屋から出ていこうとしている。
困惑げな笑みを浮かべてはいるが、そういう表情が実は困惑そのものの表れではなく、大抵は何かを隠すために使われるということを雪鳶は知っていた。

「何もないよ。雪鳶は?」
「私は」

雪鳶は言葉に詰まったが、子供のぐずる声に引き寄せられて視線を下げた。
再び顔を上げると廊下の奥に消えるところだった。
胸の奥にざわざわとしたものを感じながら、雪鳶は腕のなかの子を見つめてひとり呟いた。

「私もないわ」

同郷の李典のことは昔から知っているが、彼が芸術家肌という話は聞いたことがない。
少なくとも絵はすこぶる不得手だった。
詩を詠むのも拙かったと思う。
歌は悪くなかった。
だから雪鳶が修繕の行方に不安を抱いたのも当然のことで、そして多くの場合、そういういやな予感というのは的中するものだ。

まず聞こえたのは、重い物が落下するような大きな音だった。
次いで「ああ!」という焦った声。
居間で離乳食として磨り潰した米粥を子供に与えていた雪鳶は、匙を持つ手をとめ、壁の向こうの気配を窺った。

「ねえ、大丈夫なの?」

膝の上の赤子が次のひと口を急かして猫のような声を発する。
匙を子の口に運んでいると、不自然な沈黙のあとに「ああ、大丈夫……くそッ」という声が壁越しに返ってきた。

「『大丈夫』ですって。あなたは信じる? ……ええ、そうね、私もそう思う。(パパ)は何かまずいことしちゃったみたいよ」

独り言を言っているようでたまに虚しくなるが、他に話し相手もいないから癖になっている。
雪鳶は最後のひと掬いを子供に与え終えると、布で口の周りを拭いてやってから立ち上がった。

どうせ「大丈夫」ではないのだろうと思いながら寝室へ向かった雪鳶は、それでも部屋へ入って事態を把握すると口を開けて驚いた。
母親の顔を真似たのかそれともただの偶然か、腕のなかの赤子もぽかんと口を開けている。
振り返った李典は妻子の姿を見てばつの悪そうに頭を掻いた。
その足元に横たわる戸の真ん中には、大きな穴が開いている。

しばらく口を開けていた雪鳶だったが、やがて困惑げな笑みを浮かべた。
今度のは何かを誤魔化したり隠そうとしたわけではなく、ほんとうに困惑したからだ。

「あなた、それどうしちゃったの?」
「別に……なんでもないよ」
「なんでもないのに扉に穴は開かないわ。怪我はないの?」
「ああ、大丈夫」
「嘘。おでこが赤くなってる。何があったのよ」

額を手で押さえた李典が言うには、不具合を起こしている箇所もその原因も特定し、その部分に調整を加えたあとまずは仮止めをしようと一旦戸を壁に立て掛けた。
それから少し離れたところにある工具を取りにいき、戻ってくる途中で布を踏んづけて頭から戸に突っ込んだのだという。
雪鳶が聞いたのはその時の音だ。
そして目の前に星をちらつかせながら身体を起こしたら、戸に大穴が空いていた。

「じゃああなたおでこで扉に……穴を開けちゃったの?」
「笑うなって」と李典は目を眇めてぶつけたところを擦り、「一瞬両足が宙に浮いたんだぜ」

笑うなと言われても無理な話だ。
雪鳶は子供の腹に顔を埋めて笑いを堪らえようとしたが、どうしても肩が震えてしまう。
クソ、と吐き捨てた李典がそばにあった椅子を引き寄せ、どっかと腰を下ろした。
その様子がほんとうに悄気げているようだったので、雪鳶は笑うのをやめて近寄った。

「……格好悪いよなぁ、俺」
「まあ……格好良くはないけど、私は少し安心したわ。それだけ丈夫な頭だったら、戦場で少しくらいのことがあってもきっと無事で帰ってくるって思えるもの」

雪鳶は夫の肩に片手を起き、指にやさしく力をこめた。

「ねえ、やっぱりちょっと何か言いたそうに見える」

李典は一度雪鳶を見上げたあと再び視線を落とし、雪鳶の手を上から握った。

「いや、別に……雪鳶のせいじゃないんだ。ただ何ていうか、男として情けないような気がしてさ。家のことも自分でちゃんと管理できないなんて」

しばらく李典の言葉の真意を探っていた雪鳶だったが、やがて「あ……」と気づいた。
なかなか子に恵まれず雪鳶が沈んでいた時期というのは、李典にとっても自信がすり減っていくときだったのだ。
よその家庭の話を聞いても決して妬むまいと雪鳶は自分の感情を律する努力をしていたが、李典とて人間関係のなかで苦しい時があったであろうことには思い至らなかった。
李典が雪鳶には何も言わなかったからでもある。
そのことに気づいた雪鳶の胸に、様々な感情が怒涛のように押し寄せてきた。

堪らなくなって夫の膝の上に腰を下ろすと、李典は不思議そうに雪鳶の顔を見つめながらその腰に腕を回した。

父親となった李典がそこまで気負っていたとは知らなかった。
ようやく自信を取り戻しつつある李典が、「男たるものは」という理念に適おうと躍起になるのも無理はなかったのだ。
故障した扉を自力で直してみせると意固地になったのも、雪鳶にひとりで子供の世話をするよう強いたのも根っこは同じだ。
自分たちは誰の手も借りる必要などない、このままで完璧なのだと示したかったのだろう。
誰に対して、というよりも、自分自身に対して。

「私も言いたいことがあるの」
「……なに?」
「誰の手も借りずに初めての子供を自分ひとりで面倒見るのはもう限界。乳母を雇うか、せめて実家の母を呼び寄せたい。ほんとうに必要としている時に人の手を借りるのって、そんなに悪いことじゃないでしょ」

李典は雪鳶の言葉にじっと耳を傾けている。
彼もまた、雪鳶の言葉の裏の真意を読み取っているのだ。

「……お義母さんは勘弁。良い乳母がいないか当たってみるよ」
「よかった……決まり?」
「ああ。決まり」

李典の鼻先に自分の鼻先をくっつけて雪鳶が笑う。

「それと職人さんも呼んで。このままじゃ赤ちゃんがハイハイを始めたらそのまま庭に出てっちゃうわ」

わかった、と頷きながら李典も肩を揺らしている。
それからふと真顔になって雪鳶の頬を撫で、囁いた。

「いつか言っただろ。『雪鳶は母親に向いてる』って。あれ、やっぱりほんとだったな」



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