■ 手ぎれ

 その人はまだこの世にあるという。生きているというだけでなく、俗世に留まっている。かねてより兼続が事あるごとに様子を知らせるようにと金銭を握らせておいた農夫が、先頃先方に請われて雉を一羽絞めてやったと伝え寄越した。肉を食うということは、まだ髪を下ろしてはいないということだ。
 文盲の農夫のかわりの村の長者の代筆を繰り返し読みながら、兼続はまず安堵し、すぐに不安に駆られて襟元を掻いた。
 たしかに肉を口にするということはいまだ仏門に入ってはいないことの証だが、かといって女人が日頃から生臭いものを食べるわけもあるまい。既に出家した主人に倣った精進料理に飽きてのことならばよいが、もしかすると病に臥せるなどして活気をつけるために血肉を要したのではあるまいか。
(雪鳶どの)
 床についたまま下女から匙で雉の吸い物を口へ運んでもらっている雪鳶の姿を脳裏に描き、兼続は苦し紛れに書状を丸めた。が、すぐに開き、皺だらけになった文字を再びはじめから読みはじめた。
(埒が明かぬ)
 所詮は明き盲の農夫に内密の目付役など期待できたものではない。やはり兼続自身がこの目でしかと見ねばなるまい。会わずともよい。せめてひと目、その姿を見ることがかなえばそれでよい。
 居ても立ってもおられず、兼続はすぐさま領内視察と銘打ち城を離れる許しを景勝に乞うことにした。
 上杉家臣団に名を連ねる雪鳶の父と兼続の父はそれなりに親しくしていたために、雪鳶のことは幼い頃から知っている。まだのどかな時分で、ふたりでゼンマイやらワラビやらを採りに山へ入ったこともあった。籠いっぱいになった山菜を幼い足取りで持ち帰ると、雪鳶の母がすぐに煮物にして、余分を別に除けて土産として兼続に持たせてくれた。
 ちょうど勢力図の境界線上にある雪鳶の母の実家は何代か前に上杉方と北条方で分かたれた一門であり、今になって考えてみれば兼続と雪鳶の運命を左右する種子は既に数十年も前に植えつけられていたのだ。
 長じて兼続は景勝の近習となり、雪鳶は綾の腰元につけられた。当時はまだ春日山城で顔を合わせることも多く、綾を挟んで昔語りをしたり庭で一緒に餅をついたりした。
 元服して間もない兼続と雪鳶がともにいると、年上の連中は口々にからかったものだが、兼続は不思議とそれがいやではなかった。雪鳶もそうだ。兼続が時折山菜を持っていってやると、雪鳶は「与六どのはまだこんなものが」と笑いながら水煮にしてくれた。
 漠然と「ゆくゆくは妻に」と思っていたのは兼続だけではないはずである。そのような空気ができていたから、家中の誰も雪鳶をあからさまに口説こうとはしなかった。綾に化粧を教えてもらい紅を引きはじめた雪鳶は、娘盛りだった。
 風向きが変わったのは謙信が家中に不穏な気配を残してこの世を去った時のことだ。後継問題は御家騒動に発展し、兼続ら樋口一族は景勝方に、雪鳶の一族はその多くが景虎方についた。もっとも一族の去就を考慮せずとも、雪鳶は綾に従って景虎方についていたかもしれない。
 春日山城内で本丸と三の丸にわかれて睨み合いが続くなか、兼続はしばしば急拵えの櫓に上って三の丸の屋根を眺めた。敵情視察の風を装ってはいたが、内心はあの屋根の下で怯えているであろう雪鳶のことを想っていた。
 景虎が三の丸に籠もる直前、兼続は雪鳶と会っている。動けば何かと人目につく男衆のかわりに、景勝と綾のあいだの遣り取りを繋いでいたのが雪鳶だ。景勝から内密の書状を持たされた雪鳶は、中庭を囲む廊下で兼続と鉢合わせると軽く目を伏せた。
「やはり梨のつぶてか、御前は」
 景勝は幾度も綾に翻意を促す手紙を送っている。その返事が剣呑であることは現在の情勢から見ても、また受け取った景勝の表情からも明らかだ。きっとこの手紙も綾の心を動かすことはないと雪鳶は感じているのだろう。御家の内紛を望むはずもない雪鳶が表情を曇らせるのも無理はなかった。
「景虎さまは近日中に三の丸をお移りになると思います。綾さまもおそらくご一緒に」
「移るのか。いずこへ」
「ご容赦を」
 それはそうだ。兼続は
(ばかなことをきいた)
と恥じた。教えてもらわずとも景虎が拠点に選ぶであろう場所は二、三に絞り込めるが、雪鳶の口からそれを明かせるはずもない。
「雪鳶どのも一緒に行くのだな」
「はい。綾さまについてゆきます。こうして兼続さまとお話しできるのもきっとこれが最後です」
「何故御前も景虎さまもご理解くださらないのだ。謙信公の跡継ぎには景勝さまが最も相応しいというのに」
 憤懣やるかたない兼続は柱に手をついて庭の水仙を睨みつけた。
 その様子を見つめていた雪鳶が、不意に周囲を見回し、そっと柱と兼続の間に身を入れた。胸元に寄ってきた雪鳶に兼続が驚いて腕を下ろすと、雪鳶は背伸びをして兼続の耳元で「わたくしもそう思います」と囁いた。踵を再び床につけて見上げてくる雪鳶の目元は、朱でも引いたかのように染まっている。それで兼続は、これが雪鳶にとっては限りなく勇気のいる行為であったことを知った。
 人の気配を感じてまた身体を離した雪鳶に、兼続は「そうか」と頷いた。侍女が向かいの廊下を足早に通り過ぎていく。その姿が消えるのを待ってから、兼続は肘を伸ばしたまま腕を少し前へ動かした。同じく垂れたままの雪鳶の白い手と、指先がわずかに触れている。
「ことが落ち着けばまたこうして話もできよう。それまで息災でいるのだぞ。女子の身だ。義も不義も考えてはならん。ゆめゆめ城を枕になどするものではない」
 言い聞かせながら、自分でもおかしいと兼続は思った。これがおのれの妻であったなら、武家の妻として恥をかくなと言っただろう。娘でもそうだ。卑怯なことをしてでも生き延びよとは言えない。だが淡いものなれど恋をする男としてならばそれが言えた。
 こくりと頷いた雪鳶と別れたのがわずか数日前のことだ。
 三の丸を眺めながら、兼続はあの時少しだけ触れた指先の感触を思い出して両手を胸に抱いた。
 だがその姿を目撃した景勝に「すまぬな」と声をかけられてからは、それもやめた。間もなく景虎は三の丸から立ち退き、いよいよ全面的な衝突が避けられぬ局面に入ると、兼続も雪鳶どころではなくなった。
 その後は雪鳶のことを心配するいとまもなかった。御館に退いた景虎に対し、周辺勢力への工作に成功し優位に立った景勝は総攻撃を仕掛け、景虎は御館を脱出したのち鮫々尾城にて裏切りに遭い命を落とした。
 この間の雪鳶の動きは判然としない。御館で綾と別れて景虎一行とともに鮫々尾へ向かったようではある。だが途中で引き返したのか、とにかく景虎の最期の時には傍らにいなかった。どうも景虎の側室のひとりを落ち延びさせようとしていたようだ。嫁して間もなく、子もなかった彼女は戦後景勝に赦され、仏門に入った。それからは或る山寺の境内の隅にある庵に住んでいる。雪鳶も綾のもとへは戻らずにそこにいる。
 これが今日に至るまでのあらましである。景虎の死は兼続に目下の情況以外のことを考える余裕をもたらした。
 一旦立ち止まって考えてみると、雪鳶についてはわからないことばかりである。実をいうと、綾とともに戻ってくるものと思い込んでいた。事実、彼女について御館へ向かった女たちはそのほとんどが乱の集結とともに帰ってきている。たしかに雪鳶にはもはや帰る家はない。景虎に味方した父親と兄弟たちは既に亡く、母親と姉妹も早いうちに脱出し北条麾下の親類のもとへ身を寄せている。だからこそ、綾とともに戻るものと兼続は考えていたのだ。
(なにゆえに戻らぬ)
 山寺へ向かい馬を歩ませながら、兼続は最後に見た雪鳶の後ろ姿を思い描いた。景虎の妻たちの侍女にくらべれば、雪鳶は余程幸運のはずだ。景勝とも懇意にしていたし、もとの主の綾は息災である。
 畦道をゆくにつれ、山寺の様子が見えてきた。麓から中腹にかけて建物が点在している。もっとも山頂近く、木々に半ば隠れている庵が雪鳶と景虎の側室が住むところだろう。思いのほか厳しい高低差に、井戸が引かれていればよいが、さもなければあれでは麓から水を運び上げるのも難儀するであろうと兼続は胸を痛めた。
 麓には人の気配もあり、それ以上近づけないと踏んだ兼続は目付役の農家に馬を繋がせてもらい、そこで暗くなるまで待った。暇潰しに家の主人に話を聞くと、雪鳶は庵の世話を一身に引き受けており、日々写経をして過ごす主には余人を近づけさせないという。気苦労がたたったのか、過日自ら雉を求めて下りてきた時も青白い顔をしていた。おそらく体力をつけようとしたのだろう。
 これはやはりいずれその身を引き取らねばならぬと考えているうちに日が傾きはじめ、山際を残照が染める頃兼続は徒歩で脇道から山を登った。庵を眼下に見下ろす場所まで来ると木陰に身を寄せ、気配を窺った。誰も出てこない。そう思った時、音もなく障子が開き女がひとり庭へ下りてきた。
(雪鳶)
 遠目にも少し痩せたような気がするが、鼻筋の通った美しい横顔はあのままだ。
 思わず茂みのなかで身を乗り出すと、雪鳶は周囲を見渡してから水の張った盥を用意した。それから再び奥へ入り、布を数枚持って出てきた。盥の脇に屈んで洗濯を始めた雪鳶の手の布は、一部が黒ずんでいる。
 経血を手当てした布を洗っているのだ。そのことに気づくと、兼続はたまらず斜面を駆け下りていた。
 突然茂みの揺れる音がして顔を上げた雪鳶は、茂みの奥から現れた兼続の姿を見て目を瞠った。立ち尽くす兼続の前で、その目がみるみるうちに潤んでいく。だが雫をこぼす前に、はっと手もとを見遣ると素早く布を水のなかへ沈めた。それを見て兼続も出ていく機を見誤ったことに気づいた。
「あっ、すまない。もう少し待てばよかったのだな……」
 背中を向けて頭を掻いていると背後で小さく笑った気配がしたので、兼続は嬉しくなって振り返った。
 質素な着物を着た雪鳶が手を胸の前で重ねて兼続を見つめている。
「何故こちらへ」
 しかし兼続がこたえる前に、雪鳶は束の間浮かんだ喜びを消して顔を背けた。
「いえ、いらっしゃるべきではなかったのです」
「いや、もっと早くに来るべきだったのだ。随分と苦労したようだな」
「わたくしの苦労など取るに足らないものです」
「雪鳶。こっちを見てくれ」
 近づいて頬に手をかけると、雪鳶はゆっくりと顔を兼続へ戻したが、視線は持ち上げなかった。睫毛が小さく震えている。こうしてやって来てしまった以上、兼続はもはや指先が触れるだけでは気がすまなかった。
 闇が濃くなっている。
 麓からも見えまい。
 兼続が唇を重ねても雪鳶は拒まなかった。初めて触れるそこは思い描いていた通りの柔らかさであり、兼続は夢中で吸った。腕のなかの雪鳶は肩をすぼめて耐えている。苦しがらせているという自覚は兼続にもあったが、とめられずに雪鳶の腰を抱き竦めた。
 しばらくして唇を離し、鼻先をつけたまま兼続が視線を庵へ向けると、雪鳶は小さくかぶりを振った。
「二間しかないのです」
 隣室に主が休んでいるので無理だという。しかし今日を逃せば次にいつ会えるかわからない。試しに兼続が雪鳶の袖を引いてみると、雪鳶は狼狽えながらも引きずられて部屋へ上がった。
 必要なものだけが置かれた質素な板間で雪鳶を押し倒し、兼続はその白い首筋を見下ろした。兼続を知る者ならば誰でも驚くような、大それたことをしている。だが兼続自身は恋のために道を誤る男ではないつもりだ。事実、すべてが片付いてからこのようなことになった。無分別であるならば、乱のさなかに雪鳶と通じていたはずだ。ゆえにこれは不義ではない。兼続はそう自分に言い聞かせた。
 懸命に声を押し殺し、荒れる息すらも抑えようと喉を閉める雪鳶の姿は、かえって兼続のからだをよろこばせた。雪鳶は唇を噛んで兼続の首にしがみついた。極力音を立てぬようしかとからだをあわせて不自由に揺れるのは、難儀である一方でふたりのこころを少なくともその間は完全に一つのものとした。
 雪鳶のからだは男を知っていた。兼続は敢えて問い糾そうとはしなかったが、道中で何か不運な出来事があったか、あるいは不幸のなかでも最も幸福な可能性としては、御館に籠もるあいだに景虎の手がついたかしたのだろう。それも咎めまい。
 ことが済むと、ひと眠りする間もなく雪鳶は隣室を憚って兼続を追い立てた。追い立ててはいるが、その手つきには一度通じ合った者同士の情が滲み出ている。
 庭先まで見送りに出た雪鳶は、月灯かりに浮かぶ白い首筋を一瞬喘がせ、それから兼続の胸に頬を寄せた。
「もう来ないで」
 その肩を片腕で抱き寄せ、兼続はこたえた。
「いいや、来るとも」
「御仏がご覧になっています」
「御仏の前であればこそ嘘はつけない。あの時にもっと粘ればよかったのだ、景勝さまと景虎さまのどちらかをお前に選ばせるなど酷なことをさせてしまった。私はもう後悔したくないのだ」
 兼続は腕を下ろし、「からだを労れ」と念を押して再び茂みへ分け入った。背後からは足音も障子を閉める音もしない。雪鳶は佇んだまま兼続の背を見つめているのだろう。あの時は見送る側だった。だが、もう見送るのも見送られるのもなしだ。兼続はどうにかして景勝の許しを乞おうと決意しながら山をおりた。
 兼続が見えなくなるまで待ってから、雪鳶は視線を残したまま庵に戻り、静かに障子を閉めた。同時に反対側の襖が開いた。
「去ったのですか」
 やつれてはいるが美しい婦人だ。しかし、初めての子を産んだばかりの喜びはその顔にはない。理由は心身の疲弊だけでなく、その子が既にここにいないからだろう。
「床からお出になってはいけません」
 雪鳶は主人を床へ促し、衾を掛けてやった。
「まだお辛いのならまた雉か兎でも貰ってきましょうか」
「たしかに精をつけるにはよいけれど、あまり度重なれば疑いを招くでしょう」
 景虎とともに死ぬ覚悟はふたりともにあった。だが道中主人の懐妊に気づき、雪鳶は雪のなか彼女を連れて引き返したのだ。身籠っていたことを知っているのは景虎を含めた三人だけだった。いまは、ふたりだけだ。懐妊がほんの少しでも早ければ、子供は産まれた途端に殺されていたに違いない。景虎一行と別れてからはこの世の地獄だと思ったが、それだけは救いだった。庵に籠もる主人の妊娠中は、敢えて人目につくように月の障りの始末をするなど気苦労が絶えなかった。
 子は既に手筈通り人の手に渡っている。女児だった。おのれの血筋については何ひとつ知らぬまま育ち、そして死ぬだろう。
「雪鳶には気の毒なことですが、ここの方々には目を瞑って頂いたのです。疑いを招き、更なるご迷惑をかけぬよう……」
 瞼をおろし、うわごとのように呟く主人を見ていた雪鳶は、二度と兼続とは会うまいと誓った。風に舞い上がる雪のなか目を凝らして歩きはじめたあの時から、これよりのちはこの女性のために生きると決めたのだ。兼続のことはいとおしい。だが選ぶならこの女性を選ぶ。兼続は理解していない。雪鳶が選んだのは景勝でも景虎でもなかった。愛されていても、兼続とは暮らせない。
 その夜、雪鳶は筆をとった。
「貴方様のことだけが気がかりでしたが、こうしてお会いすることが叶ったうえは、もはやこの世に心残りはありません」
 そんな手紙とともに雪鳶の出家の報せが兼続に届いたのは、その月のうちのことである。


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