■ 迷い鳥

「ああ、わかる。あれってどうしてもやめられないんだよね、気づくと触ってる」

木陰で兵の訓練を眺めながら、馬岱が言った。
うんうんと頷く張苞や関興も、どうやら心当たりがあるらしい。
それを聞きながら腕組みをして兵の動きを観察している姜維にも、思い当たる節はあった。

数人で群れて四方山話など主婦の井戸端会議のようだが、今日は小隊長たちの兵卒指揮の訓練も兼ねているため、指揮官は時折檄を飛ばす以外は如何せん暇なのであった。
どうしてそんなことになったか定かではないが、遠目には部下の動きに目を光らせているように見える指揮官たちの今日の話題は「睡眠時の手の位置」だった。

「仰向けに寝てると知らないうちに手で押さえてるんだよなあ」

張苞が斜め上を見上げて夜の自分の様子を思い出しながら言った。

「関興、お前は寝る時横向くよな」
「そう」
「でも触ってんのか」
「触ってる」

あまり下世話な話題には乗ってこない関興だが、これは女が不在の話だから平気のようだ。
樹の幹の皮を手持ち無沙汰に捲りながら思案し、もう一度「ああ、やっぱり触ってる」と頷いた。

一旦気になりだすと不思議で仕方なくなったのか、馬岱は腕を組んで考え込んだ。

「あれってどうしてなんだろうねえ。眠ってる時って無防備だから、無意識のうちに守ろうとしてるのかな」
「起きている相手ならまだしも、寝ている相手を殺そうと思ったらそこは狙わない……と、思う」
「だよねえ。首ががら空きだもんねえ」

すると馬岱がふと姜維へ目を向けた。

「姜維はどうなの」
「えっ」
「寝てる時、触らない? 昔、若も触ってるって言ってたし、今のところ俺の周りで触らない男ってひとりもいないんだけど」

そんな昔からこんな話をしているのか、と姜維は内心呆れたが、「いや……」と苦笑するに留め、かぶりを振った。

「いつも、というわけでは」
「それって自分で制御できてるってこと?」
「いや、仰向けで腕組みをして眠っている時などもあるので……」
「あ、それ金縛りになるよ」

それで彼らの話題は睡眠時の金縛り、そしてこむら返りへと移っていった。
鳥の囀りのようにぺちゃくちゃと続く会話をぼんやりと聞きながら、姜維は頭に自分の寝室の牀を思い浮かべている。

蜀に入ってから成都に小さいながら屋敷を貰ったが、調度品は以前の住人が残していったものをそのまま使っている。
新参者が贅沢をいうわけにいかず、また姜維自身が身の回りのものに対するこだわりを殆ど持たないからだ。
だが、牀だけは先頃新しいものを入れた。
同居人ができたので一人用の牀では狭かろうと、月英が彼女の名義で、しかし実質的には諸葛亮の指示を受けて贈ってくれたのだ。

新品の牀は分不相応に感じるほど具合が良かったが、最近はそこに眠るのが億劫になってきている。
昨夜は遅くまで仕事をするといって書斎に籠もり、そのまま榻の上で横になった。
だが同じ手を何遍も使えるわけではない。
夜は、今日もやって来るのだ。

燭台の火を吹き消し寝床に入り、月明かりに目が慣れてきた頃、部屋の入口の方で物音が立った。
寝支度を終えた雪鳶が、香油を手に摺りこみながら入ってきたのだ。
彼女は姜維の脱いだ靴を揃えてから、しなやかな動作で寝床に滑り込んできた。

「明朝はお早いのですよね」
「ああ」
「では早くおやすみにならないと」
「ああ」

我ながらぶっきらぼうだとは思ったが、雪鳶は気にする様子もなく衾を整えている。
そしてすっかり首元まであたためると、姜維の肩に掴まるようにして満足気に「おやすみなさい」と囁いて目を閉じ、自然な仕草で手をそこへ伸ばした。

ちん。

意識してきつく瞼をおろしていた姜維だったが、そこでついに目を開けた。
隣へ視線を遣ると、雪鳶は微笑を浮かべて幸せそうに目を閉じている。
一見するとごく普通の夫婦の寝姿だが、衾一枚のその下で女が男の股間に手を添えているというのは、やはり姜維としては強い違和感を覚えずにはいられなかった。

何故眠る時にいつも私の股ぐらに手を遣るのだ。
そう尋ねればよいことだが、あまり当然のようにやられると却って問いただしづらい。
不気味ですらある。
すっかり眠気の吹き飛んだ姜維は、忌々しげに腕を組んだのであった。

雪鳶は、姜維が天水にいた頃に知り合った女だ。
約束した仲ではなかったが、姜維もずるいことに上手くはぐらかして関係を続けていた。
雪鳶に対して気持ちがまったくなかったわけではない。
ただ、幼少の頃から高い評価を得ていた姜維は決して上昇志向の弱い方ではなかった。

野心には主に二種類ある。
ひとつは目の上の瘤を排除して縦横無尽に番狂わせを狙うもの、もうひとつは組織のなかで早足でしかし順序どおりに勝ち上がろうとするもので、姜維の野心は後者だった。
だから結婚相手は自分にとって利益になる家からしか選ぶ気はなく、そういう意味において雪鳶は不適格だったのだ。

したがって、思いがけず魏を離れ蜀に降ることになった時も、雪鳶を置いていくことについて未練は感じなかった。
気の毒だとは思ったが、実際あの混乱のなかで彼女に人を手配する余裕などあるはずもなく、またそうするつもりもなかった。

そうして諸葛亮の下に入り、しばらく遠征軍のなかに身をおいたあと、やっと一旦落ち着いて成都に居を構えた。
気づけば天水を去ってから一年以上が経過していた頃、或る嵐の晩に突然雪鳶が屋敷の門を叩いたのだった。

出迎えた姜維が度肝を抜かれたのはいうまでもない。
格好のくたびれ具合から、雪鳶がまさにたったいま成都に着いたということは明らかだった。
姜維にとってはとっくに切れた縁だったが、彼女の方はそうではなかったのである。

「ほんの時折商人の行き来があると知って、頼み込んで一行に混ぜてもらったのです」

汚れと汗を洗い流した雪鳶は姜維に借りた寝間着を纏い、やっとひと息ついた様子でそう語った。
夜には使用人を帰してしまうため、姜維自ら作りおきの包子を出してやりながら、内心では冷や汗を掻いている。

「無茶なことをしたものだ」

姜維が絶句したのも無理はない。
たとえ金品を積んだところで旅商が約束を守る保証はどこにもなく、まして人の行き来の少ない経路で野盗に襲われでもしたら彼らは雪鳶など真っ先に放り出すだろう。
そうなればどこへ連れていかれ、どんな目に遭うか知れたものではない。

「お父上は」

いや承知のはずがない、と姜維は言葉を呑んだ。
大した家柄ではないが、雪鳶の両親は健在である。
家出同然で飛び出してきたに違いなかった。

「何故そのように愚かなことをしたのだ」
「そんなの」

今度は雪鳶が言葉を呑み込む番だった。
姜維とて雪鳶が言わなかった言葉程度用意に想像がつく。
姜維に会いたい一心で斯くも無謀な道を駆けてきたのだろう。
嬉しいというより、そこまで深く想われていたことに戸惑いを覚えていた。

「ご迷惑なのはわかっています」

唇を噛んで俯く雪鳶を姜維も不憫に思わないではないが、実際迷惑の方が勝っている。
まず第一に、雪鳶の父親へ申し開きが立たない。
雪鳶の父は義理立てするような相手ではなかったが、かといって恨まれているであろうと想像して平気でいられるほど姜維は厚顔ではなかった。
そして当然ながら、新天地における去就がどうなるかわからない状況で雪鳶の存在は重荷でしかない。
姜維に期待をかけている諸葛亮に対しても面目が立たない。

机に向かってやや斜に構えるような姿勢で頬杖をつき、床を睨みつけていた姜維はやがて「たぶん、」と溜息を吐きながら口を開いた。

「お前は夢を膨らませすぎたのだと思う」

雪鳶は悧発な娘ではない。
愚鈍ではないが、少なくとも賢くはない。
豊かとは言いがたい想像力を働かせて思い描いた姜維との未来が、現実からかけ離れていたのだろう。
姜維をお伽話の貴公子のように思われては困る。

「私たちの間にあったことは、そんな大それたものではないのだ。それに姜維というのは普通の男で、恋をするほどにはお前は私のことを知らないし、知ったとしてもそう深く想われるほど女にとって素晴らしい男ではない」

文字通り襤褸切れのようになってまで訪ねてきた女に言う言葉ではないが、ほかに表現が見つからなかった。
家族を裏切り危険を冒してまで遠路はるばる訪ねてきたにもかかわらず、恋そのものを錯覚だと諭された雪鳶こそ悲劇だった。

雪鳶は椅子を蹴って姜維のそばまで歩み寄ると、その足元に膝をついた。
そして座っている姜維の顔を食い入るように見つめたあと、ついに彼の腰に縋りついて泣き始めたのだった。

うんざりして天井を仰いだ姜維だったが、噎び泣く雪鳶を無視するわけにもいかず、躊躇いながらその肩を抱いた。
もとはといえばいい加減にしてきた姜維に非がある。
だからといってわざわざ追いかけてくることはないではないか、という言葉は、さすがに心のなかでのみ吐き捨てた。

「……私のことがお嫌いですか」
「嫌いではない。嫌いではないが、こんなことをされるほどの縁とは思っていなかったのだ」
「私を送り返されるのですか」
「いや……そうしたいが、生憎いまはそんな余裕がない」

小匙一杯分程度の安堵を手にして、雪鳶はしゃくり上げながら顔を上げた。
その肩越しに、白い足首が見えた。
この細い脚で懸命に旅してきたと思うと、ほだされるものはある。

とりあえずその晩は雪鳶に牀を貸して自分は榻に横になり、翌日姜維は諸葛亮のもとへ報告にいった。
無様な話を諸葛亮の耳に入れるのは気が進まなかったが、魏から走ってきた女を匿っていると噂になれば新参者の姜維にどのような災いが振りかかるかわからない。
案の定終始渋面の諸葛亮の前で姜維は蛇に睨まれた蛙のように硬直した。

「姜維」

諸葛亮は椅子の背凭れに身体を埋め、溜息に混ぜてもう一度呼んだ。

「姜維」
「そ、そのように幾度も呼ばれずとも姜維はここにおります……」

机を挟んで諸葛亮の前に立つ姜維は、俯いて視線をよそへ走らせた。
とてもではないが諸葛亮の顔を直視できない。

「あなたが時々『お返事だけは上出来』の生き物だということは私もよく知っていますがね」
「無論耳だけでなく心でも聞いております。此度のことはすべて私の不始末です」
「……それで、その女性と結婚するつもりなのですか」
「まさか、滅相もない。ただ今更実家にも戻れぬでしょうし、どうにか世話はしてやるつもりです」
「世話とは、縁談でもとりつけて差し上げるつもりですか。それで納得するようなかたならそもそもあなたを追いかけてはこないと思いますが」
「仰る通りです。いずれ私はこちらでどなたかと結婚することになりましょうが、そうなってもあれのことはそばに置いてやりたいのです」
「そうするほかにないでしょうね」
「はい……」

かねてより諸葛亮からはいずれ蜀の女と結婚するように言われている。
よその土地から来た男に向けられる警戒心を打ち払うには、最も手っ取り早い方法だからだ。
当然諸葛亮がその相手を見繕う予定だったのだろうが、正室の座は依然空席とはいえ既に女をひとり迎えてしまった姜維が縁談市場で値下がりした事実は否めない。

諸葛亮は羽扇で口元を隠し、ほんの僅かに眉を八の字にして盛大な溜息を吐いた。
感情表現の乏しい彼にしては珍しいことだ。
それだけ失望させてしまったのだと姜維は落ち込んだ。
脳天気な雪鳶のことが恨めしくすら思えてくる。

「とにかく、そこまでさせた女性を粗雑に扱うことはないように」

負け犬の顔で退室した姜維に月英を通して牀が贈られたのが、それから数日後のことだ。
諸葛邸に出入りしている職人のところに在庫があったので、姜維の屋敷へ回すよう手配してくれたとのことである。
雪鳶には月英あてに礼状を書かせたが、その文面はすべて姜維の考えたものだ。
姜維の書いた原本をつたない手つきで一生懸命書き写している雪鳶を監督しながら、これでは父親のようなものだと何度目かわからない溜息が姜維の口から漏れた。

何となくその気になれずにその後も雪鳶のことはあまり抱かずにいる。
雪鳶の奇妙な癖が始まったのは同居生活が始まって間もなくのことだ。
決して性的な触れ方ではないのである。
何かしらの動きを加える様子はなく、ただただ手を添えるのだ。

朝起きた時には雪鳶は離れているものの、寝入るまではいつも姜維の股間に手を置いている。
雪鳶がいつ手を離しているのか、一度遅くまで起きて観察してみたことがあるが、どうやら眠った雪鳶は最初の寝返りで手を離し、その後再び姜維のそばまで戻ってきた時にはもう触らないらしい。
おさなごがお気に入りの品を握っていないと眠らないというのはよくある話だが、大人の女がそんなことをするとは聞いたことがなく、その上「何故私のものなのだ」という疑問の解決には至っていない。

もっとも、何故自分がそこまで彼女の癖に固執しているのかも姜維にはわからなかった。
害はないのだから触らせておけ、という気もしないではない。
一方で、やはり急所には違いないのだからたとえ雪鳶に害意はなくとも安易に触れてほしくないという思いもある。
ひたすらに不気味であった。

実をいうと、この話はもう随分と昔のことである。
結局雪鳶の癖は最後まで直ることはなかった。
ただ、姜維がそれについてとやかく思案することもまた途中で絶えたのだった。
それは、以下のような出来事があったからだ。

雪鳶が成都での暮らしに馴染んだ頃の或る日、馬岱が群れで飼っていた鶲(ヒタキ)に一斉に逃げられたという話を姜維が家へ持ち帰った。
あの掴みどころのない馬岱が鳥の繁殖を趣味にしているというのが姜維にとっては常日頃から不気味であり、今回事故で逃げられたというのも気の毒である一方で少々面白く思っていたのだが、雪鳶の言ったことは彼にとって少々意外だった。

「翼のね、」

と雪鳶は片腕を広げ、垂れた袖をもう片方の手で指し示した。

「この辺りにある羽根を少し切ってあげると、飛ばなくできるのだそうですよ」

食事中だった姜維は、箸で羊肉の炒めものを取りながら神妙な顔をした。

「翼を切るのか?」
「いえ、そんなバッサリいくのではなくて。風切羽という飛ぶのに必要な羽根があって、その一部をちょっと切るだけです。そうすると、ぱたぱたとはやるんですけど、あんまり遠くへは行けなくなるのですって」

飛べなくなった鳥の姿を想像して姜維は少し嫌な気分になったが、厩舎に馬を繋いでいることの正当性とどう折り合いをつければよいかわからなかったので批判は胸に留めた。
幼い頃から馬に親しんできた姜維にとって彼らは別格に可愛いが、他の獣に対してはこれといって愛着を抱くことはない。

姜維は他の皿に箸を伸ばした。
雪鳶を迎えて良かったことがあるとすれば、第一には料理が挙げられるだろう。
宮廷で出される成都の料理よりも、舌に馴染んだ郷里の味に癒やされる。

「鳥を飼ったことがあるのか」
「ええ、子供の頃に。鶲みたいなのではなくて、もっと飼いやすいやつでしたけど。可愛かったなあ、名前つけたりして」
「名前か」
「阿黄っていいました」
「そうか」

たぶん茶色い鳥だったのだろう。
素朴なことだ、と姜維は思った。

「その鳥の羽根を切っていたのか」
「いえ、私は可哀想で切れなかったのです。でも、そのせいでうっかり開けていた窓から逃げられてしまいました。人に世話されないと生きられない子だから、きっとだめだと思うと悲しくて悔しくて、随分泣きました」
「そういうものか」
「だからもしまた鳥を飼うことがあったら、少し可哀想だけどきっと羽根を落とそうと思ったものです」
「うちでは動物は飼わない」
「ええ」

雪鳶は頷きながら姜維に茶を注いでいる。
その顔を観察しながら、姜維は(やはりわからない)と首を捻った。
天水にあった頃にはあれほど明快であった雪鳶の心理が、ここへきて途端にぼやけている。
本来相手の胸の内を窺わねばならない立場であるのは雪鳶のはずなのに、いつの間にか逆転しているのも不可解であった。

「……飼いたいのか?」
「飼わせてくださるのですか?」
「いや、そういうわけではないのだが……」

雪鳶が訝しんで目を瞠るのも無理はなかった。

「すまない、お前の人となりを知ろうとしただけだ」
「左様ですか、私は……私はできれば小さな動物を飼いたいけれど、家の人が無理というのを押し切ってまで飼うほどには拘らない人間です」
「そのようだな……忘れてくれ」

ひょっとすると雪鳶の方が成熟しているのかもしれない。
姜維は一瞬そう考えて、(まさか)と己の頬を叩いた。
向かいの雪鳶が驚いて顔を上げたが、姜維は何も言わなかった。

夕食後、また遅くまで書物に目を通していた姜維は、いい加減瞼が重くなってきた頃になってやっと寝室へ入った。
姜維が寝るまでは起きていると決めているらしい雪鳶も、その様子を見て針仕事を片付け寝支度をしている。
いつも通り、姜維が牀に入って少し経ってから雪鳶がやって来た。

「毎晩遅くまでお仕事をなさって、身体に障りませんか」
「大丈夫だ。それにいまは少々無理をしてでもやらなくてはならないことが多い」
「お立場のせいですね」

その立場を作り上げたもののひとつはお前じゃないか、と姜維は心のなかで悪態をついた。
元々気楽ではいられない立場であったのに、それに追い打ちをかけたのが雪鳶の登場だ。
雪鳶に政治感覚を求めても無駄なことか、と姜維は腹の上で手を重ね、眠る姿勢をつくった。
いつものように雪鳶は姜維に寄り添い、その手を彼の股ぐらに添えた。
そして姜維の肩に頭をのせ、眠るかと思いきや珍しく話し始めた。

「ほんとうは最近も鳥を飼っていたのです」
「……勝手に飼っていたのか?」
「いえ、こちらへ来る前。なので、最近といっても去年とか一昨年のことですが」
「ああ……鳥を置いてきたのか」

うつらうつらしながら、姜維は雪鳶がしつこく言うなら鳥くらい飼ってやってもよいかと思いはじめている。
あまり賑やかな鳥では仕事の邪魔になって困るが、身寄りのない雪鳶の慰めになるのなら一、二羽あってもよい。

「ええ。でも逃げてしまいました。姜維さまが姿をお消しになったあとのことです。風で籠が倒れたせいで蓋が開いてね。慌てて窓を閉めようとしたのですが、だめでした。あっという間に外へ飛び出して、家の上で挨拶するように一回りしたあと、青空に吸い込まれるようにどんどん小さくなってしまったの」
「それで私を追いかけてきたのか」

えっ、と雪鳶が顔を上げるのと、姜維が雪鳶の手を乱暴に振り払って起き上がったのは同時だった。
怒らせた理由がわからずに狼狽えながら身体を起こした雪鳶を、姜維は忌々しげに睨みつけている。

「それで鳥の羽根を切って飛べなくする話など私にしたのだろう。そうか……わかったぞ。鳥の羽根の話と、そうやって私の股ぐらを毎晩押さえていることの根っこは同じなのだな。いずれも深層心理のあらわれということだ」
「ごめんなさい、何のお話かわかりません」
「とぼけるな。結局は『二度と逃さぬ』という意思表示なのだ。言っておくが私は女房に急所を掴まれて飼い慣らされるような男ではないからな」

そこまで聞いて雪鳶も姜維の言わんとしているところが理解できたらしい。
違う、と言いかけてから唇を噛み、俯いたまま黙り込んでしまった。
穢されたおとめのように襟を掻き合わせて雪鳶を睨みつけていた姜維は、少々勝手が違うと思いはじめ、「……違うのか?」と低い声で尋ねた。
すると雪鳶はかなしそうな表情のままわずかに笑みを浮かべ、かぶりを振った。

「逃げていく鳥と重ねあわせたのは、姜維さまの姿ではありません。自分自身を見たのです。はばたいていく鳥を見て、私にも翼があるのだということを思い出したの」
「それで家を飛び出したのか?」
「ええ。色々複雑なことがあったとは私も聞いていますが、姜維さまが飛び立つ決心をなさったのなら私も挑戦くらいはしてみようと思って」
「私の了解も得ずに」
「『こちらに飛んで来るな』と言う権利は誰にでもあるでしょうが、『飛ぶな』と命令することはできないはずです。だから、そんなに姜維さまがお嫌なら私はいつでも出ていきます」
「……馬鹿を言え。今更放り出せるものか。丞相に何と言われるか」

姜維はようやく襟から手を離し、前髪を掻き上げながら尋ねた。

「では、その癖はいったい何なのだ。何故毎晩私の股ぐらを触る必要が?」
「……変なやつだとお思いになりませんか?」
「勿体ぶるな。もうじゅうぶんに変だ」
「あのね……天水にあって私はつまらない人生を生きていたのです。でも姜維さまと出会って、色々なことがあって……一世一代の賭けに出ようと考えるほどに私は変わったでしょ。姜維さまのそれはまさに私を変えてくれたものだから、触っているととっても安心するの」

聞いている姜維にとって、雪鳶がそれほどに変化を求めていたとはまったくの意外であった。
天水にいた頃の彼女は、単に日々を消化するだけの、ある意味でごく普通の町娘に見えていたからだ。
そのように変化への渇望を胸のうちに秘めていたとはまったく気づかなかった。

姜維もまた、変化を求める片田舎の青年だった。
天水では名が知れていても常に中央から派遣されてくる官僚の下に就くほかになく、そこから中央へ出仕しようにもツテがなければ難しい。
既に三国が膠着状態に入っていたために政治機構も整備され尽くし、地方からの牛蒡抜きの抜擢などそうはなかったのだ。
停滞した地方政治のなかで埋もれつつあった姜維にとって、諸葛亮との出会いとそれに伴って生じた激烈な変化は、渡りに船とまではいわないものの、まったくの不本意というわけでもなかった。

姜維はいまになって、雪鳶が苦難の道のりを越えてまで自分を追ってきた理由がわかった気がした。

「……お前を抱いた時にはそんなつもりはなかったのだがな」

諦めたように溜息を吐き、ばったりと後ろへ倒れた姜維のそばに雪鳶が寄ってきた。
雪鳶は姜維の肩に寄り添いながら、おかしそうに笑っている。

「男のひとの具合というのは、女にとって大変な意味を持つのですよ。別に姜維さまだけではないわ」
「意味?」
「私の幼馴染、嫁いだお相手のものがあんまり粗末なので毎日身悶えしそうだって」
「……嫌な話だなあ、女同士でそんなことを喋っているのか」
「こっちではそんなことを話せる相手はいないのだからご安心あそばせ」

そうであろう。
これから行儀や嗜みについて教えてやらねばならないが、どれだけ馴染もうとも成都において雪鳶が本性のままでいられるのは姜維の前だけだ。
それは姜維にとっても同じことだった。
幾人か天水から連れ立ってやってきた友人がいるが、さほど行き来はできていない。
姜維が「天水の姜維」に戻れるのは雪鳶とともにある時にほかならなかった。

姜維は雪鳶の手を上から握り、己の股ぐらにあててみた。

「こうすると安心するのか」

雪鳶が肩をクイと上げて嬉しそうに笑った。

「自分の乳でも掴んでいろ」

雪鳶の手を放り捨てて頭の下で手を組むと、彼女は怒った顔をつくってからやはり幸せそうに姜維の胸に頬を寄せた。

こうして姜維は雪鳶の奇妙な癖を甘んじて受け入れ、その後蜀において念願の出世を遂げるに至ったが、結局最後まで蜀の令嬢と婚姻するという夢は叶わなかったのであった。



【終】
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