■ 煮るなり焼くなり

しばらく唇を合わせたあと、首筋のあたりに吸いつきながら手は下へ下へ、襟を割って柔らかな脇腹を撫で、やがて指が帯の結び目に絡みつく。
愛撫を受けながら雪鳶は眩暈を起こしそうになって慌てて天井を睨みつけた。

視線を下げれば馬超のつむじが雪鳶の脚の付け根の方で動いている。
思わず漏れそうになった溜息を、すんでのところで噛み殺した。

眩暈を覚えたのは快感やその予感のせいではない。
激しい既視感のせいだ。

雪鳶が馬超のもとに嫁いでから早くも一年が過ぎ、夫婦生活は二年目に突入した。
その間彼らは順調に「夫婦のアジェンダ」をこなし、一通りのあれこれを経験して安定期に入り、あとは子を待つだけかと思われたが、安定期と倦怠期は紙一重であることに雪鳶が気づくまでさほどの時間はかからなかった。

次の段階へ、それが終わればその次へ、と目の前の課題をこなしている間はよかった。
至近の未来に対して目標があったので道筋を立てやすかった。
しかし男女のあらゆる「初めて」を既に終え、一年の季節を過ごした彼らを待ち受けていたのは、茫漠として捉え所のない時間の山だった。

男女の、という表現はあるいは不適切かもしれない。
見たところ危機感に見舞われているのは雪鳶ひとりだからだ。

馬超の方は波も立たない毎日を幸せそうに過ごしている。
二年目は既に一度経験した季節を再度迎えることになるのだということを、馬超はまるで理解していないのだ。

(迫り方もいつも一緒)

いざ行為が始まればそれで雪鳶も満足を得られるのだが、導入部においてはここのところ不満を感じている。

この誘い方なら雪鳶は乗ってくるものと馬超が決めてかかっているのが気に入らない。
と同時に、相変わらず雪鳶と一緒に眠りに落ちることができるだけで幸福そうな馬超に申し訳ない気持も抱いている。

要は、雪鳶がそんな様々な思いに駆られて複雑な心境に陥っているというのに、何も感じていない風の馬超が悔しいのだ。

(でも、夫婦だから)

夫婦だから、小さな不平不満がどれだけ沢山あろうとも、決定的な何かが起こらない限りはふたりでひとつだ。
騙し騙し、これから先の途方もなく長い時を一緒に過ごしていく。
もしかしたら、世の中の夫婦なんてだいたいそんなものなのかもしれない。
そんなことを考えながら、雪鳶は馬超の唇が腰骨に触れたのを感じ、そっと片膝を折って脚を軽く開いた。
軽く目を閉じ、次の愛撫を待っているが、馬超はそれ以上進む気配がない。

訝しんで瞼を開けば、こちらをじっと見つめている馬超と目が合った。

「……なに?」

軽く眉を顰めた雪鳶の前で、馬超は真顔である。

「私、何かしたかしら……」
「今」
「え?」
「今、俺がまだ触れないうちから脚を開いたなと思って。いつもは俺が膝を割るのに」

ああ、と納得しながら雪鳶はふと恥ずかしくなって頬を染めた。
自分から体を開くなんて、と思ったが、馬超の考えていることは違うらしい。

「……どうしてわかった」
「だっていつもそうなさるし」
「……」

あ、と雪鳶は口元に手をあてた。

毎度同じ作法で仕掛けてくるからこちらもそれを心得ていると知れれば、男の立場からしたら当然面白くないだろう。
まして女を守り女を満足させることこそ男と見なしている馬超のような人間にとっては、自尊心を酷く傷つけられる言葉に違いない。

恐る恐る馬超の顔に目を遣ると、案の定すっかりやる気をなくしたようだった。

「あの、私そんなつもりじゃ」
「……いつからそう思っていた?」
「何をです」
「退屈だって」
「そんなこと言ってません」

元々が頑固な馬超にその言葉は届かない。
脱ぎかけていた寝間着を早くも戻しながら、馬超は雪鳶の上からおりると体を横たえた。

拗ねてこちらに背を向けて横臥する馬超の肩に手をかけて、雪鳶は必死に取りなそうとする。

「私、ちゃんと満足しています」
「そうは思えない」
「……」
「いつも感じている風に振る舞っていたの……あれも嘘か」
「そんな。飛躍しすぎています」

予想以上にへそを曲げてしまった馬超に、大人しいたちの雪鳶もさすがに手を焼く。
そんな子供じみた真似をしなくても、と思うがそれを口にすれば更に馬超の心は頑なになるだろう。

どうしたものかと思案しながら、雪鳶は馬超の肩に頬をのせて甘えてみせた。

「私、ちゃんと幸せです」

それ自体は嘘ではないのだ。

「……体が満足せずにどうして心が満たされるんだ」

それは男の論理だ、と雪鳶も呆れた。
優しいが単純な考え方をする馬超のような男には、きっと説明してもわからないだろう。
そんな男であっても惚れているというのに、馬超はそれを察しない。

腹を立て、雪鳶は「もう!」と小さな声を漏らしながら馬超の背を軽く引っ掻いた。

意図したわけではなかったが、その仕草が馬超の心をくすぐったらしい。
面白そうに振り返り、「猫のようだな」と呟いた。

少し態度が軟化したと見て、雪鳶は馬超の腕に縋りながら口を尖らせてみた。

「構って頂けなくて怒っている猫です」
「構ってほしいか」
「やさしく構ってほしい」
「……ふん」

すると馬超は体を起こし、雪鳶の顔を覗き込んだ。
そして難しそうな表情を作る。

「無理だな。腹を立てているからやさしくなどできそうにない」
「……意地悪するのですか」
「でもない。が、いつも通りのやり方が気に食わないというのなら、雪鳶にもそれなりの振る舞いを要求するぞ」

だから気に食わないとは言っていないのに。
雪鳶は不満に思ったが、口にはしていないだけで似たようなことを思っているという負い目がある。
それで仕方なく、やや怖じ気づいて上目遣いになりながら「それなりの、とは?」と尋ねた。

「いつもしてくれないことをしてほしい」
「する? 私から?」

雪鳶は狼狽えた。
深窓育ちの雪鳶にとっては、寝床での仕掛けは受けるものであってこちらから施すものではない。

「自分は何もしないのに、男に様々な趣向を求めるのは図々しいんじゃないか」

顎のあたりを戯れに指先で撫でられながら、雪鳶はぐうの音も出なかった。
自分は励まないのに相手にはそれを求めるというのは、確かに都合が良すぎる話だ。
大抵のことにそれは当て嵌まると思うが、しかし寝床の話となると雪鳶には勝手がわからない。

困って目を伏せながら、雪鳶は「どうすればいいのですか」と指示を仰いだ。
その仕草や表情が馬超の歓心を誘うとは気づきもしなかった。

相変わらずふて腐れたような態度を演じながら、その実すっかり愉しみ始めている馬超は「そうだな」と大仰な様子で考え込んでみせた。
そしてふと思いついたように、「たまには雪鳶の方から攻めてもらおうか」と提案した。

「せ、攻める……」
「できないか」
「やり方が……」

その狼狽えた様子によって雪鳶が自分以外の男をまったく知らないという事実を再確認し、馬超は嬉しくなった。

(こいつ、何も知らないのだ)

不埒に近い愉悦に浸りながら、馬超は「思うままにやってみろ」と雪鳶を突き放した。
それから仰臥し、雪鳶の手を引っ張る。
馬超の上に倒れ込む格好になり、雪鳶はますます当惑しているようだ。

少しの間目を泳がせて迷っていた雪鳶だが、やがて意を決したのか恐る恐る馬超の顔に唇を寄せた。
考えてみれば自ら接吻を求めること自体これが初めてだ。
いつもは馬超の求めに羞じらいながら応じるだけだった。

間もなくそっと触れた唇から、雪鳶の緊張が馬超に伝わる。
少し唇も乾いているようだ。
間近に迫る雪鳶の閉じた瞼が、それを縁取る長い睫毛が、小さく震えている。

(これは悦楽至極だな)

かすかな音を立てて唇が離れ、ようやく薄く目を開いた雪鳶と視線が合った時、馬超はわざと呆れ顔を作った。

「それだけか?」

その口調から揶揄の意図を察した雪鳶は、頬を赤らめながらも眉間に小さな皺を寄せた。
少し怒っているらしい。
脅威にもならない怒りは、かえって可愛いと思わせるだけだ。

仕方なしに雪鳶は再度馬超の上に屈み、今度は先程よりも少し強く唇を押しつけた。
馬超が誘うように唇を開けてやることもせずただされるがままになっていると、やがて雪鳶は痺れを切らしたのか指を馬超の顎にかけて口を開かせようとしたので、馬超はつい笑いを漏らした。

「強引に手で開かせる奴があるか」
「だって……」
「仕方ない奴だな」

軽く唇を開いてやると、雪鳶の小さな舌が内部へ侵入してくる。
それも進もうか戻ろうか迷うような動きで、馬超は可笑しさを噛み殺していた。

舌を合わせながらも体は弛緩したままにしていると、ふと雪鳶が顔を上げて怒ったように言った。

「私、いつももうちょっとちゃんと応えてます」

それを聞いてさすがに馬超も堪えかね、思わず噴き出した。

「笑うだなんて!」

怒った雪鳶が馬超の胸を手で一度叩く。
その手を掴まえて、馬超は不意に優しげな微笑を浮かべた。

「いいから。やってみろ」
「もう……」

諦めたように雪鳶は溜息を漏らし、髪を耳にかけながらもう一度口づけをした。
多少緊張が和らいだのか、音を立てながら強く吸っている。
なかなか……などと思いながら、今度は馬超も応えてやった。

雪鳶の口から時折「んん……」と吐息混じりの声が漏れるたび、その腰を引き寄せてめちゃくちゃに掻き抱きたい欲求に駆られるが、折角の興を削ぐという思いから馬超は動かない。

口づけながら、雪鳶は馬超の帯を解きにかかった。
帯が解けると唇を離し、彼の寝間着の前を開けた。

いつも馬超から受けている作法に則れば、次は体の方へ愛撫を加えなければならない。
とはいえ雪鳶は胸への愛撫を心地よく感じるが、果たして男もそうなのか雪鳶は知らない。

嫁ぐ前乳母だった女性から一応の心得は教えられたが、それも「初夜には旦那様に委ねて素直に振る舞うように」という程度の内容で、男の体はこことここが急所なので攻めろなどという教えを受けたことはなかった。
女の胸は膨らんで性を意識させる格好をしているが男の胸は平坦でそもそもそういうことに使うようにできているのかわからないし、どうやって愛撫すればいいのか想像もできない。

難しい顔で馬超の胸を睨んでいる雪鳶に、またしても馬超は笑いを堪えた。

やがて雪鳶は胸への愛撫を諦めたらしく、渋々といった様子で寝台の下の方へさがっていく。

(そっちの方が難易度は高いと思うんだがな)

馬超は無言を貫いたまま興味深げに妻の行方を目で追った。

いつも馬超は手で愛撫を施したあとに口で触れる。
それを思い出した雪鳶は、怖じ気づいた手つきで馬超のそれを握った。
自ら手を触れるのは初めてであるそれは、まだ力なく雪鳶の指に包まれている。

どう扱うべきか考えながら手であれこれ触ってみせる雪鳶の姿は、初めて見る異国の玩具に触れた子供のようで、頭の下で手を組みながらその様子を眺めていた馬超もさすがに

(不道徳なことをさせている)

ような罪悪感に駆られた。

不心得ながらも時折核心をつく雪鳶の手つきに、ようやく馬超のそれも反応を見せ始めた。
とはいえそれ以上は手による愛撫の方法が思いつかなかったらしく、雪鳶はいきなり口をそこへ寄せた。

「お、おい」

よくわからなかったので口に入れてみるなんてお前は子供かと呆れながら、馬超は雪鳶を制止した。

口淫自体は馬超も当然に好むが、それはどうでもいい娼館の女などにさせることで、曲がりなりにも高貴な身分の若妻がすることではない。
世間知らずの雪鳶には、それもわからないのだ。

「違いましたか」

難しい宿題でも解いているような気持になっているのか、真面目な顔で尋ねてくる雪鳶に馬超はいよいよ呆れた。

「それはお前のような女がすることではない」
「どういう意味です」
「もっと男慣れした女のすることだ」
「男慣れ? 夫のある身は男に慣れたとは言わないのですか?」
「そういう意味ではなくてな……」
「……わかりません」

頭を掻いてから、馬超は仕方なしに教えた。

「それは男を相手に商売をする女のすることだ」

しばらく考え込むような顔をしていた雪鳶だったが、意味を理解するなり「きゃあ」と小さな悲鳴を上げて口元に両手をあてた。
よほど驚いたらしい。
それを見ていい加減可哀想になり、馬超は「もうやめておくか」と優しい声を作った。

雪鳶は少し悲しそうな顔で考えたあと、項垂れた。

「ごめんなさい、私、わからなくて……」

そのしょげた様子があまりにしおらしくて可愛く思え、馬超はついに堪えきれずに雪鳶の手を強く引いた。
不意を突かれた雪鳶は抗う間もなく寝台に引き倒され、間髪入れず馬超に跨られる。

「旦那様」

目を丸くして見上げる雪鳶に、馬超は「すまないな」と謝りながらその体を強く抱いた。

何もわからないのに夫の期待に応えようと頑張ってくれた雪鳶がいとおしくてならない。
いつもおんなじ、などと生意気なことを言う口も、この際可愛く思える。

つくづく単純な男だ俺は、と思いながら、馬超はまだ驚いている雪鳶の顔を覗き込んだ。
雪鳶は不思議そうに馬超の顔を見つめ返している。

「まだ何もできていません」
「いや、いいんだ。俺は満足した」
「でも……」
「雪鳶が少し頑張ってくれれば、俺はそれで満足してしまうんだ。それでは妻として不満か?」

すると雪鳶は嬉しそうな笑みを浮かべた。

「いいえ」

そしてまた悲しそうな顔をする。

「私、ひどいことを言ったわ」
「雪鳶」
「一緒にいてくださらない夫も世の中には珍しくないのに」
「可愛いな、お前は」

雪鳶の頬にかかった髪を馬超の指が優しく除けてやる。
それだけのことで雪鳶は嬉しそうに目を細めた。

「……いつもと同じかもしれないが、いいか」

雪鳶の乳房に手を触れながら馬超が問うた。
すると雪鳶は「いつもと同じじゃないわ」と小さくかぶりを振った。

「だって私、今すごくどきどきしてるもの」

それを聞いて胸が一層切なくなった馬超が力いっぱい抱き締めたので、雪鳶は小さな悲鳴を上げた。




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